第8話 停滞

 気が付くと六月も半ばを過ぎていた。予想以上に時間の進みは早く、千里は焦る時間さえ与えられない。


 学校生活はおおよそ良好な状態が続いている。クラスではいつもの三人と他愛のない会話ができていて、茜とも問題は起きていない。たった一つのことを除けば、千里に悩みはなかった。


 五月の報告で千里は軽率な行動を取ってしまった。男は初回であることを斟酌したが、現在のところ千里はそれを活用できていない。取り繕っている表面上の態度も、家に帰ると剥がれてしまっていた。


 「……お兄ちゃん、今日は元気ないね。何かあった?」


 千晶ちあきは千里の一言だけを聞いて違和感に気付く。千里は抱える問題を吐露したいと思いつつ誤魔化した。


 「何もないけど?」


 「ふーん、だったら良いんだけど」


 千晶も今は故郷を離れ、近畿圏の都会で両親と生活している。原因は故郷での事件であり、溺愛する千晶を周囲の視線から守るために両親が素早く手続きしたのだ。千里は事件の当事者であり、事実上両親に見放されて下手良にやってきている。


 「それで何の電話?」


 千里が電話の意図を問いかける。千晶からの電話は珍しくない。離れて暮らすようになった四月にも何度か同じようなことがあったのだ。しかし、脅迫後は初めてだった。


 「別に理由なんてないけど。お兄ちゃんが元気か気になって」


 千晶はブラコンではないが、年が近い割には千里と仲が良い。傍から見ればそれは珍しいらしく、千里もここ数年は親密過ぎないかと不安に思っていた。ただ、そんな千晶のおかげで完全に家族と縁を切る事態は免れている。


 「大丈夫だってこの前も言っただろ。……それでそっちは?」


 「ん?いやあ、私は大丈夫だよ」


 千晶はさも当たり前といった様子で返答する。千晶は千里と対照的に社交的な人間である。新しい土地で上手く立ち回っている姿は簡単に想像できた。


 「じゃあ切って良い?することがあって」


 「それは、兄妹水入らずの話より大事なこと?」


 「……分かったよ」


 今の千里に千晶と話をしている時間はない。六月も折り返しを迎えたが、まだ何も結果が出ていないのだ。しかし、千晶を無下にすることもできなかった。


 「本当に心配なんだけど。いつもと違うって電話越しでも分かるよ」


 「そんなに変か?」


 「元気がない。……あの時みたい」


 「…………」


 千晶が声を萎ませる。まるで状況を全て理解しているかのようで、千里の焦りは幾分か緩和された。


 「一言余計だったよね。ごめん」


 「大丈夫。あの時とは比べられないけど、千晶みたいに社交的じゃないから大変なんだよ。……それにしても、声だけでよくそんなことが分かるな」


 千里は素直に感心する。千里には千晶の心情を読み取ることなどできない。人間関係の豊富さが違いを作っているのかもしれなかった。しかし、千晶は別の理由を提示する。


 「まあ、妹だからね」


 「なんだよ」


 「……最近はお兄ちゃんのこと家の中でも全然話さないから、私がちゃんとしないと。お父さんもお母さんも話題を振っても笑って誤魔化すだけ。そろそろ言った方が良いかな?」


 千晶は徐々に話題を暗くしていく。これはいつも通りのことで、千里が唯一心配している面だった。千晶は両親に代わって千里の理解者を努めようとしている。それが千晶のためにならないと伝えても、全く聞き入れてくれないのだ。


 「止めた方が良い。二人とも千晶が心配なだけなんだ」


 「でも、それがお兄ちゃんを遠くに押しやっても良い理由になんてならない!」


 「だとしてもだって」


 千里は興奮気味の千晶を宥める。千晶の気持ちは嬉しい。しかし、これ以上の迷惑はかけられない。非情だとしても、両親の選択は仕方がなかったと思うしかなかった。


 「……おかしいと思うんだけどな」


 千晶が両親の決定に納得する日はきっと来ない。それでも、これで均衡が保たれている以上、無理に変化させる必要はなかった。


 「そうだ、話そうと思っていたことがあって」


 少し間をあけてから千晶が話題を変える。その時には元気な声に戻っていた。


 「夏休みにそっちに会いに行くから」


 「……え!?」


 涼しい声で伝えてくる千晶であったが、千里は驚きのあまり声を詰まらせる。千晶なら言いかねないと思っていたものの、実現には多くの問題があるのだ。


 「いやいや、無理でしょ」


 「大丈夫だよ。もう飛行機のチケット取ったから」


 「急ぎすぎだ」


 「早い方が安いから。それに会いに行くくらい大丈夫でしょ?観光もしてみたいし」


 千晶の中ではもう決定事項のようである。千里はペースに飲み込まれそうになりながら問題を提起した。


 「待てって。親父はなんて?」


 「まだ話してない。話したら絶対に止められる」


 「そうだろうな」


 両親が千晶の話を聞いて止めないはずがない。引っ越しの理由に逆行しているのだ。千晶もそのことは理解していた。


 「家を出た後に電話で伝えようかなって。お兄ちゃん、勝手に言わないでよ?」


 「……こっちに来てどこに泊まるんだ?」


 「できるならお兄ちゃんの所がいいけど、無理ならどこかホテルを予約かな。一泊くらいのお金は貯めてあるから」


 「急な奴だな」


 千里は溜息をつくしかない。しかし、電話越しの千晶にこれ以上反対しても意味はなかった。


 「分かったよ。叔父さんに聞いててやる」


 「いいの!?」


 「その代わり、せめて母さんには話しておけよ」


 「……分かった。お兄ちゃんがそう言うなら」


 不満が滲み出ているが、すぐに納得して笑い声を上げる。千晶はやや強引な節があるものの物分かりが悪いわけではない。千里はその言葉を信じる他なかった。


 それからしばらく会話をして、食事に呼ばれた千晶から電話を切った。電話のおかげか千里は冷静さを取り戻すことができた。その点においてのみ千晶に感謝した。


 ただ、残された時間が少ないことに変わりはない。能動的にならなければ、千晶に嘘をついてしまうだけでなく故郷の栞奈にまで迷惑をかけることになる。残された半月間が千里にとって重要な意味を持っていた。


 しかし、千里は失敗した。


 月末、千里は携帯を握りしめて電話を待ち構えていた。電話がかかってくる日時は特に約束されていない。しかし、その時の千里には待っていることしかできなかったのだ。


 「……もしもし」


 千里はワンコールで電話に出る。謎の男が今月も千里を監視していたことは間違いない。ただ、電話がかかってきた以上は平静を保つ必要があった。


 「電話に出るのが早いな……言い訳を考えて待っていたのか?」


 千里の努力は水泡に帰し、男は全てを見透かす。先月の一件もあり、千里は早々に抵抗を諦めた。


 「何も進展しなかった……です」


 「知っている」


 千里は叱責の言葉が飛んでくるものだと思っていた。罵倒される準備もしていた。しかし、男は落ち着いていた。


 「それで?」


 千里が黙っていると、男が低い声で問いかけてくる。


 「……それで」


 千里はオウムのように言葉を繰り返す。何かを質問されているが、その内容が分からない。すると、男はしびれを切らした。


 「君はそれで私を満足させられると思ったのか?そうだとすれば、非情な宣告をしなければならない」


 「待て……分かっている」


 「いや、その声は分かっていない」


 「分かっている……分かっている」


 男に言っているのか、自分に言い聞かせているのか分からなくなる。しかし、押し問答をしても千里の状況は良くならない。


 「意地を張るのは止めておけ。私は君をよく理解している。君がどんな状況に置かれているのか、君以上にだ」


 「……まだ六月だ」


 「しかし二ヶ月が経った。時間は戻ってこない」


 男は間接的に千里が失敗したことを伝えてくる。それは千里も納得していた。


 「僕が約束を守れないと思っているのか?」


 「仕方ないだろう。私は三人との関係構築を指示した。だが今の状況を話してみろ。時間を浪費しているだけだと評価せざるを得ない」


 「………」


 反論の余地などない。今の千里にできることは罰の矛先を変えさせることだけだった。


 「……栞奈には何もしないで欲しい」


 「そういうわけにはいかない。私と君は約束した。君にはそれができなかった。それだけだ」


 脅迫と約束を重ねる男に千里は反論したくなる。しかし、それを思いとどまって別の疑問を投げかけた。


 「どうやって栞奈のことを知ったのか分からないし、どうしてこんなことを思いついたのかも理解に苦しむ」


 「私を非難するのか?」


 男は無意味なことだと思っているはずである。千里と男の立場は正反対に等しいのだ。それでも千里は電話を耳に押し当てながら頭を深く下げた。


 「お願いだ。栞奈のことは忘れてほしい。罰は僕が受ける」


 「それは罰ではない。罰を受ける覚悟を持った人間に興味はない。私は栞奈ちゃんがいい。それが最も効率良く君を支配できる方法だからだ」


 「本当に栞奈に手を出すのか?その時点で僕は傀儡じゃなくなる。僕は栞奈を傷つけた奴を許さない。あんたが栞奈に手を出せば、僕はあんたを探し出して同じ罰を受けさせる」


 「君には私が誰なのか分からないはずだ。クラスメイトなのか、それともただ同じ学校に通っている一人の生徒なのか、学生なのかどうなのかも。違うか?……それとも目星がついているのか?」


 男は挑発するように問いかけてくる。確かに千里は男の正体を分かっていない。見つけ出そうとして諦めたのは一ヵ月も前のことで、それは栞奈を守る方法として適していないと判断したからである。しかし、あえて千里が自分の事情を男に説明する必要はなかった。


 「それは関係ない。ただ、言われたことは間違いなくする。僕が栞奈を傷つけた奴をどうしたか知っているだろう?あんたも例外じゃない。……でも、栞奈が傷つかなければそれに越したことはない。だから僕は協力している」


 「ふむ……」


 千里の考えを聞いて男は唸る。後は男の出方を待つしかなかった。


 「……本気で私の要求に応えようとしているように聞こえるが?」


 「そうだと言っている」


 「しかし、結果はこの有様だろう?」


 「人間関係を何だと思っている?短期間で極端に変化させられるわけがない」


 千里に主観的なことを言っているつもりはない。男にもそれは理解できるはずだった。


 「それにいつも私を脅迫しているような態度を取る。それはどうなんだ?」


 「そんなつもりはない」


 千里は正直に答える。再び唸り声が響いた。


 「あんたが最初から勘違いしていただけだ。栞奈に手を出せば復讐のリスクは同然つく。当たり前だろう?」


 「私にそんなことを言っていいとでも?」


 少し怒りが混じった反応が返ってくる。千里は言葉の真意を正確に伝えた。


 「裏を返せば、あんたが栞奈に何もしなければ僕は必ず約束を果たす。あんたの目的は、恋愛関係がどうやって構築されてどんな要因が影響しているのかを突き止めることだ。それなら、僕が言っていることに何も文句は生まれない」


 「よくそんな言い訳を考えたものだ」


 「…………」


 「気に入った。良いだろう。その言葉を信じて今回も許してやる。……ただ、一つ間違いを正さなければならない」


 千里は許すという一言に胸をなで下ろす。しかし、話はまだ続いた。


 「私は正体を知られることを予定していない。それに、君が約束を果たせたとしても、私がそれで栞奈ちゃんを解放するとは限らない」


 「どういうことだ?」


 「栞奈ちゃんがこの世からいなくなりでもしない限り、君に対する脅迫は終わらないということだ。それに、このことを栞奈ちゃんに伝えるというのはどうだ?自分のせいでまた君が苦しんでいると知ってどんなことを思うだろうか?自分を追い込んだりしないだろうか?」


 「……それ以上は止めておけ」


 千里は怒りを心の奥底に押し込め、小さな声で警告する。


 「怖くなったか?」


 「約束を破ろうとしていることに気付くべきだ。僕は今の状況なら協力すると言っている」


 「協力を了承するかどうかは私が決めることだ」


 「了承しなければあんたを見つけ出すだけだ!」


 こればかりは引き下がれず、千里ははっきり警告する。むやみに栞奈を危険に晒そうとする男の行為はこれまでの要求と食い違う。男が栞奈への攻撃を目的とするならば、千里もそれに合った対処をしなければならなかった。


 「……本当に大切に思っているんだな」


 ただ、しばらくすると男は少し笑って緊張を緩和した。


 「怪しまなくてもいい。私はそういった気持ちが好きだ。そうでもない限り、君を脅迫して恋愛関係が構築される要因を解明しようとは思わない」


 「だとしても、あんたに栞奈のことをどうにか言って欲しくない。栞奈はあんたのような自己中心的な人間のせいで人生を狂わされた。だから僕はあんたを憎んでいる」


 千里は過去を思い出して怒りを隠しきれなくなる。事件の後、栞奈と顔を合わせられない日が続き、ようやく会えた時には何度も頭を下げられた。千里は気にしないでほしいと何度も伝えた。しかし、栞奈は自分を責め続けた。


 それから栞奈とは会っていない。栞奈の両親は、栞奈が千里に感謝していることを伝えてくれた。ただ同時に、千里が栞奈を不安定にしてしまうとも告げられた。千里は栞奈を守りたい一心だった。しかし、結果はあまりにも残酷で、千里も栞奈にとって有害な存在になってしまったわけである。


 地元では栞奈を可哀想に思う人がいる反面、素行の悪い男と知り合いだった栞奈が悪いという辛辣な言葉も飛んでいた。加えて、殺人一歩手前の行為をした千里も、強姦魔と同様に危険な人間だと評価された。そんな混乱した環境では、栞奈の社会復帰など到底見込めない。


 家族の問題もあったが、千里が下手良にやってきた一番の理由は栞奈だった。しかし、そこで人の心を持たない男と出会ってしまい、栞奈を人質に脅迫されている。千里の憎しみはそれに由来していた。


 「私のことは勝手に思っておけば良い。憎しみによってより良い結果が得られるのなら、私は喜んでその対象となろう。もっと君が怒るように仕向けようか?栞奈ちゃんのことで怒りを隠しきれなくなっている姿を是非この目で見てみたいものだ。……とはいえ、私が言えることは次の一ヶ月間に期待しているということだけ」


 「分かっている」


 「断言しておくが次はない。来月の今日、同じことがあれば君は地獄を見る。栞奈ちゃんが涙を流すことになっても通告はしない」


 「………」


 「それじゃ、また君と電話できることを楽しみにしているよ」


 「必ず電話させる」


 千里が力強く伝えると、男は小さく声を震わせる。千里はその声に違和を感じたが、男は素早く電話を切ってしまった。

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