第6話 千里の日常
午前の授業が終わると、千里はコンビニ弁当を手に少し離れた席に移動する。そこではいつもの三人が千里を待っていて、全員がそろうとそれぞれ食べ始めた。
最初は小夜を除いた三人で話が進む。小夜は食べ終わらない限り会話に参加してこないのだ。話題は決まっておらず、いつも誰かの何気ない一言から広がる。千里の過去が話題に上がることは少なくなっていて、神経を尖らせながら会話をする必要性は薄れつつあった。
ただ、小夜が参加してくると状況は変わる。嫌な質問ばかりされるわけではないが、小夜の話題はよく千里を困らせるのだ。最近では趣味を根掘り葉掘り聞かれて苦労していた。
「そういえば……」
この日も弁当箱を片付けながら小夜が視線を向けてくる。千里はすでに心の準備を済ませていた。
「小耳に挟んだ話なんだけど、化学部に入ったんだって?」
小夜は無表情のまま問いかけてくる。触れたくない話題ではあったが、案外解答しやすい質問に千里は安心した。
「まあね」
千里は簡単に肯定して紗花を意識する。謎の男との約束を果たす上で、指定された三人の接触を許してはいけない。今は紗花と茜に接点が生まれるような話はすべきでなかった。
ただ、話題は千里の懸念とは違う方向に広がった。化学部には人を驚かせる別の理由があったのだ。
「え……それってあっちの化学部か?」
「そう、そっちの化学部」
驚く宏太に小夜が肯定する。指示語が多く千里は混乱した。
「何かあったり?」
小夜に大きな変化は見られないが、宏太と紗花が動揺している。事情は紗花が説明してくれた。
「化学部がどうして一人なのか知ってた?」
「いや」
千里は茜との会話を思い出す。あの時の千里は、原因は人間関係だと勝手に考えていた。
「実はね、去年大きな事故があったの。実験中に何かが爆発したらしくて、近くにいた生徒が怪我しちゃって」
紗花は深刻そうに話す。あり得ない話ではないと千里は感じた。
「今は化学部と科学部があるけど、もともとは化け学の一つだけだったんだ。その時はたくさん部員がいたけど、事故があってから一部……ていうかほとんどが新しく作られた科学部に移った。でも、野依さんは一人で残ったって話」
宏太が追加で情報を与えてくれるが、千里には事実を認識する以上の反応はできない。もちろん、そんな話をしてくれる理由は理解している。
「北山君は大丈夫?危ないからって人がいなくなって、それは今年の新入生にも伝わってたみたい。だから新入部員もいなかったらしいよ。そういうことがあって、化学部に関わる人はおかしいってよく言われてる」
「そっか、そんなことがあったんだ」
化学部の事情と茜がそれを隠した理由を同時に理解する。千里はとんでもない部に入ってしまったと溜息をつきたくなった。
ただ、今の千里はそんな事故に恐怖している場合ではない。正体不明の男に監視されているだけでなく、約束を守れなければ栞奈が攻撃される。いまさら方針転換はできなかった。
「でもどうして?好きなの?」
小夜が不思議そうに尋ねてくる。その目は好奇心で溢れていて、一人の女子生徒しかいない部に入った真意を問いかけているようだった。
「化学がね。でも、そんなことがあったなんて知らなかったな。今は危なくない実験ばかりしてるみたいだけど」
「面白かった?」
今度は紗花が口を開く。千里は素直に答えた。
「それなりに。興味がない人は面白くないだろうけど」
千里はまるで化学に精通しているかのように振る舞う。すると、紗花は思案顔になって呟いた。
「化学部に入ったら化学の成績上がってくれないかな?」
「入るつもり?」
意味深な面持ちをしている紗花に小夜が素早く反応する。千里はそんな言葉に心臓が飛び出るほど驚いた。宏太は話を聞いているだけである。
「私って帰宅部だから羨ましくて。人間関係は……広がらないかもしれないけど」
「今までそんなこと言ってなかったのに?変なこと考えてない?」
小夜は紗花の釈明を疑い、それに対して紗花は何もないと笑う。ただ、千里は笑ってなどいられなかった。
謎の男との約束がある以上、紗花と茜は知り合ってはいけない。茜との接点が化学部しかないため、紗花の思いつきは改めさせる必要があった。
「よく考えた方がいいよ。始めてすぐに後悔するなんてことよくあるから」
「そうそう、それに化学部だ。大林ならまだしも、上村さんは奇異の目に耐えられないと思う」
千里に続いて宏太が再考を促す。雑に扱われた小夜だったが、嫌な顔をするどころか頷いて肯定した。
「紗花に部活は向いてない。社交的じゃないし集中力ないし、そのくせ無駄に責任感があるから」
「なにそれ?馬鹿にされてる?」
「半分馬鹿にしてる。半分は忠告かな」
小夜は淡々と答える。しかし、口調から半分以上が忠告のようだった。文句を言った紗花もそれ以上反発はしなくなった。
「まあ、入部届を目の前にすると急に冷めちゃうのが私だから」
「そうそう。周りを連れ回しておきながら興味をなくすのが紗花だからね。……本当に何かに熱中したときにどうなるのか、一回見てみたいよ」
小夜は紗花の扱い方をよく知っている。面倒事を回避できた千里はひとまず安心した。
「……酷いなあ。まるで私のことを何でも知ってるみたいな言い方して」
紗花は小夜を失礼な人だと笑い、千里に同意を求めてくる。千里がそうだねと反応すると、紗花は自慢げに鼻を鳴らした。ただ、小夜は別の方向から紗花を攻め立てた。
「なんか最近、仲良くなったよね。前まで私か宏太の話題を介して話をするだけだったのに。……何かあった?」
小夜は千里と紗花の顔を交互に見る。千里は苦笑いで対応したが、紗花は分かりやすく反応した。
「べ、別に普通だよ?」
「でもこの前、一緒に駅を歩いてたって聞いたぜ」
「えっ!?」
宏太の暴露に紗花は言葉を失う。小夜はその情報にすぐさま反応した。
「誰から聞いたの?……本当に?」
一つ目の質問は宏太に対してだったが、二つ目は千里に向けてだった。千里は変な想像をされる前に事実を話すことにした。
「駅を散策をしていたときに偶然会って声をかけてくれて、それから少し案内してもらっただけだよ。……そうだよね?」
「そ、そうだよ?」
悪いことをしたわけではない千里は冷静に対応する。しかし、小夜は納得してくれなかった。
「でもどうして?私を見つけてもこそこそ立ち去ろうとするくせに」
小夜は不服そうに追及する。紗花はすぐに反論した。
「だって、私服の小夜ってギャルみたいで怖いから。前だっていきなり男の人に囲まれたじゃん」
「私がああいうの嫌いだって知ってるでしょ?それに、あのとき集まってきた男の半分以上が紗花目当てだったし」
小夜と紗花が言い争う。その隣で、千里はどちらの言い分も間違っていないと思った。小夜の私服を見たことはないが、ギャルと言われるような格好をしていてもおかしくない。対する紗花の私服は清楚感に溢れていたのだ。
「妬けちゃうな。北山君には普通に声をかけるなんて」
「一ヵ月後には面白いことになってるかも」
小夜はやれやれといった様子で不満を伝え、宏太は二人を冷やかす。千里は受け流しておいたが、耐性がない紗花は戸惑っていた。
「おい、保護者はいいのか?」
宏太は小夜を保護者と称し、千里は小夜の更なる追撃を待ち構える。ただ、小夜は意外にも話題を収束させた。
「まあ……それはないと思うけど」
小夜は信頼していると言わんばかりの目で千里を見る。千里は少し首を傾げて反応するに留めた。
「勝手なこと言って。……ごめんね、この二人は少しおかしいから」
紗花が小夜と宏太が異常なのだと結論付けると、小夜もその言葉を最後に引き下がる。千里もそれをもって食事を再開したが、頭の中では情報の取り扱い方法を見直す必要があると感じた。
放課後になって千里は化学実験室に向かう。扉を開けるとすでに準備を整えた茜が待っていた。
「お、やっと来た」
「遅れました」
千里は黒板前の教卓に鞄を置くなり隣接する化学準備室に入る。そこには割り当てられたロッカーがあり、借り物の白衣や安全眼鏡が入っていた。
「だいぶ着慣れてきたね」
「もともとくたびれていたので、最初からこんな感じだったと思うんですけど」
千里は着ている白衣の裾をつまむ。年季の入った白衣には、薬品汚れがあちこちについている。
「まあそうかも」
肯定して笑う茜の白衣はほとんど汚れていない。茜は見栄えを気にして白衣を着ているため、小まめな洗濯で清潔さを維持しているのかもしれなかった。
実験が始まっても緊張感が漂うわけではない。同じ実験を繰り返す茜の目的は、実験技術の向上ではなくデータ収集なのだ。
それに対して、千里は数えるほどしか化学実験を経験したことがなく、それさえも真面目に受けていなかった。加えて、過去にも化学部に所属していたと嘘をついていて、不慣れな姿を見せることができない。何が原因で嘘が露呈するか分からない中、一つ一つの作業に注意を払わなければならなかった。
茜はそんな千里の心配に気付かず雑談を交えて部活動を満喫する。今日の話題の標的は千里だった。
「……関西から引っ越してきたんだよね?」
「そうです」
「そのわりに関西弁出ないよね」
「そうかもしれないです。隠している訳じゃないんですけど」
茜の疑問は些細なもので千里は即答する。実際、故郷での方便は目立つほどではなかった。
「私の親戚に大阪出身の人がいるんだけど、東京に住んで十年が経つのにずっと関西弁……というか大阪弁でね。アイデンティティだなんてことをいつも聞かされていたから」
「大阪らしいですね。僕は地元に良い印象がなくて違いますけど」
「どうして?」
「田舎なんてそんなものです。両親が住んでいたから自分も住んでいるだけで、思い入れがあるわけじゃないですから。でも、故郷という感覚はあるんですけど」
千里は深く話し込まないように自分の考えを伝える。具体性の欠ける話し方だったが嘘はついていなかった。
「矛盾しているような……」
「そうですね。自慢する物もなくて誰も来たがらない場所。それでも居心地が良いんですよ」
茜の疑問に言葉を付け加える。事件がなければ不満を漏らすことなく故郷で生活していたに違いない。下手良は住みやすい街ではあるものの、住み心地が良いとは思えなかった。
「そっか。一人暮らしすれば下手良の良さが分かるのかな」
茜はビーカーをホットプレートの上から移動させる。沸騰はしていないが、溶液中に小さな気泡が確認できた。
「趣味とかはないの?」
「趣味ですか。そうですね……強いて挙げるなら天体観測です。とは言っても、本格的なことはしないですけど」
「へー、星かあ。なんかロマンチックな趣味だね」
茜はくすくすと笑う。千里はそんな反応に慣れていた。
「でも、面白いですよ。どこまで続いているのかなんて簡単なことでも、考え始めたら想像が膨らみます。分からないことがほとんどですから」
千里にはきっと難しい理論は理解できない。それでも、自分がいかに小さな世界で生きているのか実感できるため、宇宙は千里を惹きつけていた。
「……私の知り合いで同じことを言ってる人がいたな。私はあまり興味ないんだけど」
「先輩はやっぱり化学一筋ですか?」
「まあそうかな。確かに宇宙って分からないことだらけだけど、それは化学も一緒。新しいことは次々に発見されてるけど追究したらきりがない。でも、化学は暇な時間に扱えるから私はこっちの方が好きかな」
茜は真剣に語り始めて、最後は恥ずかしそうな笑みを浮かべる。しっかりとした考えを持っている茜は羨ましかった。
「というか、宇宙に興味があるなら向こうの科学部に行けば良かったのに。たまに天体観測してるよ?」
千里が尊敬の眼差しで見ていると、茜ははっとした表情で指摘してくる。確かにその通りだと思った千里は即座に言葉を返した。
「いえ、あくまでも趣味の話です。真剣にするなら好きな学問の方が良いです」
千里は咄嗟に小さな嘘をまた作ってしまう。千里に好きな学問など存在しない。
「ふーん、まあ良いんだけど。そろそろ冷えたから次の作業に入ろっか」
ビーカーの中には見覚えのある結晶が確認できる。濾過の準備が整うと、茜はゆっくりとビーカーを傾けていく。しかし、すんでの所で茜の手は止まった。
「北山君のことまだ知りたいから、また今度教えてね」
「……はい、もちろんです」
急な言葉に千里は驚く。茜は千里の返事を聞いてすぐに作業に戻った。
この日は残った実験を終わらせると解散した。
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