第4話 野依茜

 脅迫から一週間、千里は男の正体を掴むことに耽った。男はそんな千里を監視していたのかもしれない。ただ、現時点でその行為を咎める連絡はなかった。


 考察の結果、男は下手良高校に在学している可能性が高いと結論づけられた。授業内容を知っていたことと、電話がその授業からほどなくしてあったことが根拠である。そう考えれば、千里の個人情報を学校への提出書類から得たという説明も不可能ではない。


 しかし、腑に落ちない点はいくつかあった。その一つが、どうして事件の詳細を知っていたのかという点である。ショッキングな内容と関係者が全員未成年だったことから、事件は大きく報道されなかった。しかし、男は顛末をよく知っていたのだ。


 最初の段階では、栞奈を暴行した加害者の誰かという線も考えた。そうだとすれば、千里のことや事件の詳細を知っていても納得できるからである。ただ、その考察では授業内容を知っていた説明がつかなくなる。また、現在の加害者は鑑別所にいるはずで、抜け出していない限り大胆な行動はできない。


 では、誰が千里を脅迫したのか。残念ながら男の特定には至らなかった。そもそも電話越しの声は男性だったが、変声の可能性も考えられるため性別さえまともに断定できないのだ。


 このような事実から、最優先に栞奈の安全を考えるならば約束に従う方が賢明だと千里は判断した。


 五月に入って、千里は時間を気にするようになった。考察のために一週間を丸々無駄にしたが、その時間もカウントされている。月末までに結果を必要とする千里の人間関係は希薄であり、与えられた時間はあまりにも少なかった。


 紗花とは関係を維持している。ただ、脅迫されてからの千里は紗花と上手く話せなくなっていた。約束のことばかり意識すると言葉が詰まる。そのため、紗花についてはひとまず保留することにした。


 朝霧美波は情報が欠乏している上に、容易に会うことさえできない。千里のインターネット技術では個人を特定するには至らず、最初から手詰まりとなっていた。予備校の話は聞かされているが活用には時間がかかる。今月中の進展は見込めなかった。


 そんな背景から、千里は野依茜との接触を決めた。化学部に同姓同名の生徒が所属していることはすでに調べがついている。部活関係であれば下地がなくとも接触しやすく、見学に行くだけで顔を合わせられるはずだった。


 化学部は化学実験室とその準備室を合わせて部室としている。廃部寸前だという話は有名で、部長の茜は唯一の部員も兼ねていた。化学部が不人気だと思えなかった千里は、そんな化学部の現状を不思議に思った。


 授業が終わると千里は化学実験室に向かう。実験室は千里の教室がある校舎とは別で、それぞれは渡り廊下で接続されていた。


 実験室前に到着すると、頭の中で訪問理由を反復してノックの体勢に入る。しかし、中からの話し声に気付いて腕を引いた。


 「……あれほど勝手に使うなって!」


 「別に問題ないでしょ?私たちに配分されたものなんだから」


 「あなたしか使わないもののためにどうして?」


 二人の女性の声が聞こえてくる。一人は声を張っていて、もう一人はそれを適当にあしらっている。言い合いをしているようだった。


 「使ったものは仕方ないでしょ。ちゃんと先生の許可は貰ったんだし」


 何かを勝手に使ったかどうかで口論している。千里は周囲を気にしながら聞き耳を立て続けた。


 「もう、岸部さんは何考えているんだか。……とにかく次からは、必ず、私にも伝えてからにして」


 「分かった分かった」


 話は終わったようで、足音が近づいてくる。千里はそれに気付くと扉から数歩下がった。出てきた背の高い女子生徒は千里に気がつくと目を細め、無言のまま立ち去っていく。


 「……あれ、どちら様?」


 千里が背中を見届けていると、もう一人が実験室から現れる。千里は飛び上がりそうになりながら頭を上げた。


 「あの……ここが化学部の部室ですか?」


 「どっちの?」


 「……へ?」


 意味不明な質問を返される。困っていると補足の説明をしてくれた。


 「化け学の方?それともサイエンス?」


 「あ、化け学の方です」


 「それならここよ。……何の用?」


 「部活の見学に来たんです。新入部員とか募集していますか?」


 「え?」


 千里は訪れた理由を説明をする。すると、女子生徒は表情を明るくして、千里をを実験室内に引き込んだ。


 「私は化学部部長の野依茜。よろしく」


 茜は千里を一つの丸椅子に座らせる。背丈は先程の女子生徒と同じくらいで、特有の都会感が溢れていた。謎の男の言う通り、整った顔立ちをしている。


 髪はロングで小さい顔をしている。どちらかといえば文学系の雰囲気だったが、髪をくくると白衣が似合いそうではあった。童顔ではないが年上には見えない。


 「それであなたは?」


 「僕は北山千里です。二年生です」


 「ん?」


 千里も簡単に自己紹介をすると、茜は急に眉をひそめた。変な事を言ってしまったかと焦った千里だったが、実際は取るに足らないことだった。


 「二年生で見学?」


 「実は、この春に転入してきたんです」


 「へー、なるほどね」


 茜はすぐに納得する。指摘されてから千里も二年生の見学は珍しいと気付いた。


 実験室は非常に整頓されていた。机の上に物はほとんどなく、実験をしている様子もない。そもそも、たった一人だけの部活が本当に活動できているのか怪しかった。


 「それで?北山君は化学に興味があってここに?」


 「そうです。化学ってロマンがありますから」


 化学の印象を伝えようとした千里の語彙力が早速露呈する。


 「ロマン……それはそうね。でもどんなところでそれを感じる?」


 千里の下手な表現を訝しがったのか、茜は試すような質問を投げかけてくる。千里は理系であるが、理系科目が好きなわけではない。しかし、今は誇張した化学への気持ちを伝えなければならなかった。


 「……そうですね。例えば、色が変わる反応ってたくさんありますけど、実際はとても少数みたいで。大体の化学反応は様子を目で見ることができない。だからこそ、追求することに夢を感じるんです」


 千里は頭に叩き込んでおいた志望動機を口にする。入部には理由が必要で、化学の参考書の冒頭を引用して準備を済ませていたのだ。


 「へえ、とてもマニアな感じがする。少し変ね」


 ただ、一生懸命覚えてきた動機は変という一言で片付けられた。一般的な感覚に則れば無理もない。


 「先輩はどんなところが好きなんですか?」


 千里は顔を熱くしながら模範解答を求める。ただ、返ってきた答えは予想外だった。


 「格好良いからかな。白衣着て試験管持つ姿って映えると思うの」


 「……確かに」


 「それが一番の理由。もちろん、学問として好きだということもあるけど」


 茜はさも当たり前のように語る。しかし、たった一人で化学部を支えている理由としては弱いような気がした。


 「……活動頻度ってどのくらいなんですか?」


 「週に二、三回くらい。文化系だし、毎日するほど実験がないからね」


 「なるほど……」


 千里は化学部が頻繁に活動していないことを知る。ただ、茜しか部員がいないため、茜の都合だけで全てが決まっていることは間違いない。


 「北山君はとても化学に精通しているみたいね。前の学校でも化学部に?」


 「そうです」


 千里が小さな嘘をつくのは、そうしなければ比べ物にならない代償が待ち構えているからである。幸い、疑いの目を向けられることはなかった。


 「そこではどんな実験をしてたの?」


 「えーと、蒸留とか再結晶です」


 正しいかはさておき、千里は知っている実験操作を口にする。


 「そうだよね……結局そうなるよね」


 小さく頷く茜はどうやら納得したようである。ただ、同調された理由は分からない。


 「使える実験器具も試薬も限られてるからね。教科書に載ってる反応をするには毒物、劇物が必要になるし」


 「そ、そうですよね」


 千里は笑ってやり過ごす。茜も一緒に笑ってくれた。


 「……それで、北山君は入部したいってことでいいのかな」


 「はい。……その前に体験できれば嬉しいですけど」


 千里は積極的になりすぎないように気を付ける。化学に興味があるという建前で話は進んでいるが、客観的に見ると女子が一人だけの部活に入ろうとしているのだ。強引に話を進めると何かを疑われる可能性があった。


 「じゃあ、今から実験してみない?」


 「今からですか?大丈夫ですけど危なくないですか?顧問の先生がいなくて」


 化学実験には危険が伴うため、普通は指導教員が立ち会うものである。しかし、茜はそんな心配を一蹴した。


 「危ないことをするわけじゃないから大丈夫。するのはただの再結晶」


 茜は楽しそうに準備を始める。千里はそれを聞いて納得するしかなかった。


 ラップされたビーカーと空のビーカー、化学実験用のホットプレートを持ってきた茜は、それらを実験台に並べていく。


 「実はこれ、この前に岸ちゃん……あ、えっと顧問の岸部先生とやった実験の残りで、安息香酸っていう物質が入ってるの」


 茜はそう説明してラップされたビーカーを示す。中には白い結晶が入っていた。


 「元々トルエンにこの安息香酸とアミノ安息香酸エチルが混合されていて、それらを分離する実験をしていたの。それでこれは分離後の安息香酸。でも、まだ不純物だらけだから再結晶で純度を上げようってわけ」


 「なるほど……」


 千里は相槌を打って、説明された大半の理解を放棄する。参考書を少しかじっただけで理解できる内容ではなかった。


 「再結晶は一見簡単そうに見えるけど、条件を少し振るだけで結果が大きく変わるの。例えば加熱の温度とか」


 再結晶が物質を加熱溶解させた後に冷却し、結晶を析出させる操作であることは知っている。茜はそのときの温度を変化させて実験していると言っていた。


 茜はラップされたビーカーを手に持って実験室の端に向かう。しばらくして、秤量された結晶が載る薬包紙を持って戻ってきた。


 「いつも0.5グラム使うの。それを空のビーカーに入れて少しだけ水を入れる。それで加熱する」


 千里は茜の操作を眺める。意味は理解できなかったが、見ているだけで面白いように感じた。


 「あとは水を加えて完全に溶かす。このときにできるだけ少量しか入れないことがコツだったり」


 「……でも、そうして結晶を得てもどうやって純度を調べるんですか?前と後で見た目にあまり変化ないですよね?」


 「そう!よく気がついたね」


 千里が思ったことを指摘すると、茜は興奮した様子で質問を歓迎した。難しい話題を振ってしまったのではと千里は心配した。


 「どうやって純度を確認するかというと、その物質の融点を測定するの」


 「融点……ですか。氷だったら水になるときの温度ですよね」


 「そう。純粋な安息香酸の融点は文献値として知られているから、精製前と後の融点を文献値と比較するの。近づいていたら純度が上がってるって判断できるよね」


 説明しながら茜は作業を続ける。しばらくすると、茜は机の引き出しから漏斗と濾紙を取り出し、濾紙を千里に手渡した。


 「折ってくれる?」


 「あ、はい」


 千里は受け取ってからしばらく眺める。時間をかけて記憶をたぐり寄せると、丁寧に折り目をつけ始めた。


 「冷める前に濾過しないといけないからね。……そうそう、沢山折り目ができるようにして」


 千里が濾紙を折っていると溶液に変化が現れる。小さな気泡が出てきたのだ。


 「そろそろ濾過しようか。北山君は漏斗を空のビーカーの上にセットして。私がその中にこれを注ぐから」


 茜は説明しながら軍手をつける。同じく軍手をつけた千里が指示に従うと、茜は素早く濾過を始めた。


 「本当は漏斗を温めておいた方が良いんだけど、今は収率を求めているわけじゃないからこのままね。濾紙に結晶が残っちゃうけど気にしないで」


 「分かりました」


 千里は快活に返事をする。もちろん理解はできていない。


 「あとはこれを室温まで冷却する。少し時間がかかるからその間に話そっか」


 使い終わった器具は実験台の奥によけられる。千里はようやく必要な話ができると思った。


 「楽しい……ですね。結果が気になります」


 「それなら全然やっていけるよ。そう思う人はほとんどいないから」


 千里はそうだろうと思う。よほどの物好きでない限り、これを面白いと感じられそうにないのだ。


 「それにしても、どうして化学部は先輩一人だけなんですか?大人気とはいかなくても、それなりに人がいそうなものですけど」


 千里は気になっていたことを尋ねる。最初から一人では部活として承認されないため、部員が減ったことは間違いない。茜はその質問を受けて表情を暗くした。


 「まあ、色々あってね。話すようなことじゃないんだけど」


 茜は作った笑いを見せる。複雑な事情を理解した千里だったが、今後の関係を考慮して詳細を尋ねることは諦めた。


 「あの……それじゃ、僕がここに来たとき誰かと話をしていましたよね。あの人は?」


 千里は睨んできた女子生徒を思い出す。良い関係ではないことは二人の会話から予想できている。千里は部活関連の人ではないかと考えていた。


 「ああ、西のことね。彼女はこっちじゃない、サイエンスの方の部長。二つの部は顧問も予算も一緒だからよく揉めるの。今日は使い切った試薬を岸部先生に調達してもらったことで文句を言ってきたのよ。せめてこっちにも相談してって」


 茜は不満顔で説明しているが、千里は西が正しいのではないかと思う。ただ、千里が首を突っ込むべき話ではなく、聞いた以上の想像は控えることにした。


 「そろそろ冷めたかな。これをもう一回濾過するの。今度必要になるのは、濾液じゃなくて残った方だから」


 濾過を行うと、少量の結晶物が手に入った。予想通り、見た目に変化はない。


 「最後にこれを乾燥させる。乾燥には時間がかかるから今日はここまでかな。……どうだった?面白かったかな?」


 「そうですね。普通なら体験出来ないですし」


 千里は当たり障りのない感想を口にする。適当な感想は茜の気分を害する可能性があるが、ほとんど理解できなかった千里に凝った感想は思い浮かばなかったのだ。


 「……それでなんだけど」


 千里が一息ついたところで、茜は急に落ち着きをなくす。千里は理由を把握しながら茜の言葉を待った。


 「北山君はどうする?体験入部に来たんだよね?」


 「そうですね」


 千里が考える素振りを見せると、茜は不安そうな顔をする。新入部員の獲得を目の前に緊張しているようだった。五月に入ってこの状態では、一年生の入部も絶望的と言わざるを得ないのだ。


 「……無理しなくてもいいよ。せっかく新しいところに来たんだし、一番したいことをしたら良いと思う」


 千里が焦らしていると茜が助言してくれる。潮時のようだった。


 「そうですね。今回は体験で来てて」


 「そうだよね……」


 「だから、入部することにしました。続けてみたいと思いましたから」


 「え……」


 茜は信じられないといった表情をする。


 「本当に?」


 「嘘なんてつかないです」


 茜は何度か口を開けては閉める。そして、準備室に走っていったかと思うと、一枚の紙を持ってすぐに戻ってきた。


 「これ、入部届。急がないから書いて持ってきてくれる?」


 「分かりました」


 千里は紙を受け取って鞄の中にしまう。


 「実験の続きはその時にしましょう?」


 「そうですね。楽しみにしておきます」


 千里の返答に茜は今日一番の笑顔を見せる。それに見惚れた千里は、茜を目的とする男子学生が入部してもおかしくないのではと感じた。千里はその一人目である。


 「……じゃあ、今日はこれまでね。この一週間ならいつでもいるから、都合が良いとき持ってきて」


 「分かりました。……片付けは」


 「いいよ。私がするから」


 「そうですか。ありがとうございます」


 嘘の皮が剥がれてしまいそうだった千里は茜の言葉に甘える。茜は最後まで笑顔を絶やさなかった。


 次の日、入部届を持っていった千里は残りの実験を終わらせた。結果は芳しくなかったが、茜はそれでも満足していた。


 正式に入部したことで、千里は茜の連絡先を手に入れた。この情報は間違いなく必要になってくる。謎の男への報告でも有利に働くはずだった。


 こうして、千里は茜との関係の足がかりを手に入れた。

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