第2話 上村紗花

 実力テストの翌日は快晴だった。しかし、道の脇に積まれていた雪が暖気で解け、鳥ではない千里らは水たまりだらけの道を登校する羽目になる。気分は朝から俯き気味となる。


 今日から通常授業が始まる。新しい教科書はすでに整っていて、それらが千里の肩に倦怠感を纏わりつかせている。授業についていけるのかという心配は千里にとって粗末事に過ぎない。そもそも、下手良で上手くやっていけるのかということ自体が悩みの種なのだ。


 初回ということもあり、各授業は担当教師の自己紹介と雑談で潰れていった。昼休み直前の数学も例外ではなく、強面の男性教師が他愛のない話で時間の半分以上を費やしていく。千里は口の中を噛んでその時間を過ごした。


 教科書を開くように指示が飛んだのは残り十五分を切った後だった。数学の授業では毎回最後に演習を解くと説明され、この日も指定された問題がノルマとして課せられる。


 確認してみると復習問題がズラリと並んでいた。実力テストにも似た問題があり、千里は解けなかったことを思い出しながらそれらとの格闘を始める。


 しかし、千里の意識は一分と経たずに別のところに移ってしまった。問題が手に負えないのではない。隣の様子が気になって仕方がなくなったのだ。


 隣の席の上村が困った顔でそわそわとしている。ノートしか出していないため、教科書を忘れたのだと容易に想像できる。周囲は千里を含めて男子生徒ばかりで、借りようにも話しかけづらいのだろう。おまけに、黒板前で仁王立ちしている教師は、どの学校にも必ず一人はいる聖職者に見えないタイプだった。


 上村の視線は不自然に行き来しているが、状況を悟られないように俯いてペンを握っている。ただ、そんな姿が余計に怪しい。授業が終わるまではまだ長い。このまま何もしないで時間を過ごすことは、上村だけでなく千里にとっても良くなかった。


 千里は仕方ないと自分のノートに幾つか問題を書き写す。そして、何気ない動作に隠して自分の教科書を上村の机の上に置いた。


 ただ、驚いた上村は申し訳なさそうに押し返してきた。一言も話したことのない人に迷惑はかけられないと考えたのかもしれない。しかし、千里はすでにリスクを負った。それを分かってほしいと思いながら再度押し付ける。


 少し気まずくなった後、千里は自分のノートを傾けて上村に見せた。いくつかの問題しか書いていないが、それを見た上村はようやく小さく頭を下げる。千里はその様子に安堵して自分も問題に取りかかった。


 あまりにも簡単な問題を選んだためか、最後は千里の方が時間を持て余して授業は終わった。教師が出て行った瞬間に教室は騒がしくなる。多くの生徒が昼食を取るために動き出していた。


 千里の昼食はコンビニ弁当だった。


 「あの……」


 ノートを机にしまっていた時、千里は声をかけられる。相手はもちろん上村で、右手に教科書を持っている。


 「ありがとうございました」


 「うん、いいよ」


 千里は教科書を受け取ってそれも机に収納する。眼鏡をかけている上村は才女という雰囲気がある。外していると大人しい女子生徒にしか見えず、千里は不思議に思った。


 「実は声をかけられる人がいなくて……それに先生も少し」


 「怖そうな人だったもんね」


 教師の図体を思い出して苦笑いを浮かべると、つられて上村も笑う。そのときの様子は千里に別の印象を与えた。


 「私、上村紗花うえむらすずかです。……転入してきたって話でしたよね」


 「うん。僕は北山千里、よろしくね」


 今更何を言えばいいのか困りながらも一昨日と同じ自己紹介をする。故郷での人間関係は希薄だった。友人は昔からの知り合いだらけで、新しい人と会話をするノウハウを失っていた。


 話す内容を失って無言の時間が流れる。すると、そんな二人のもとに一人の女子生徒がやって来た。昨日の放課後に紗花と話していた女子生徒である。


 「見てたよー。初日から教科書忘れるなんて紗花も抜けてるな-」


 紗花とはタイプが異なっている。ギャルや不良のような風貌ではないが都会特有の身なりをしていて、化粧の影響もあってか大人びて見えた。


 「見てたなら貸してよ」


 「いや、席二つ離れてるし」


 その女子は笑って自分の席を指し示す。紗花の二つ後ろで、確かに貸すには少し遠い。


 「それで……千里君だっけ?」


 「あ、はい」


 急に名前を呼ばれて千里は慌てる。


 「私は大林小夜おおばやしさや。……まだ一緒に食べる友達はできてない感じ?」


 小夜が千里の机にかかっているコンビニ袋を気にする。千里は反応に遅れた。


 「……まあ、そうですね」


 直球で指摘されると辛く、分かっているなら放っておいてほしいと感じる。しかし、小夜は言葉を続けた。


 「それなら一緒にどう?ね、紗花も色々と聞きたいんじゃない?」


 「え……急に言われても困るよね?」


 紗花が千里に確認を取ってくる。千里は苦笑いで誤魔化した。


 「やっぱり男子一人に女子二人だと気まずいか。待ってて、宏太呼んでくる」


 小夜は勝手に決めると、教室を横断して一人の男子生徒のもとに向かう。千里と紗花にはそれを見送ることしかできなかった。


 「あの……迷惑じゃなかったですか?」


 「迷惑では……むしろありがたいくらいだけど」


 小夜の行動でどうしてか紗花が困っている。千里は問題ないことを告げて、再び小夜の様子を眺めた。小夜が宏太を強引に連れてきたのはすぐのことだった。


 食堂や別の座席に移動した生徒の机を借りて、四人は近い場所に座る。橋詰宏太はしづめこうたとも自己紹介を終えた千里は、周囲が食べ始めたことを確認してから箸を割った。


 「えっと、どこから来たんだっけ?」


 宏太が気を利かして千里に質問する。この場を設けた小夜は何故か弁当のウインナーに夢中になっている。


 「えっと、兵庫の山奥から」


 「また遠いところから来たんだな。理由は?」


 「……家庭の事情?みたいな感じで」


 「あ、聞いちゃいけなかったか」


 千里がざっくり返答すると宏太が気にする。千里は問題ないと伝えた。


 「ということは関西人ですよね。初めて話したかも」


 紗花は新種の動物を見るかのような反応をする。ただ、千里は一般的な関西人のイメージからかけ離れているはずで、その証拠に上手な返しはできなかった。


 「こっちはやっぱり寒いですか?」


 「寒いよ。生活するの大変じゃない?」


 今度は千里から質問してみる。小夜以外の二人は唸った。


 「生まれてからずっとこれだからな。あまり大変とは思わないけど」


 「そうだよね」


 宏太の言葉に紗花が同調する。千里はそんなものなのかと思った。


 「でも、大学はもっと南に行きたい。東京とか行きたい」


 下手良の気候に不満はないようだったが、宏太がそんな願望を口にする。この年頃だと考えることは同じようだった。


 「僕は田舎出身だからここが大都会に見えるよ。駅前とかすごいよね」


 千里の実家の最寄り駅は無人だった。周りには郵便ポストしかなく、二階建て民家より大きい建物は駅舎を含めて存在しない。そんな田舎の話は引き合いに出せなかった。


 「まあ、駅前だけな。あと南の方もか。……でも、あんなの大したことない。東京は下手良が山手線の各駅にあるみたいだった。どこもかしこも人だらけで近代的だし」


 「確かに憧れはするね」


 「……確かにそうかも」


 千里も一応は同意する。しかし、本当は下手良駅の人混みにさえうんざりしたくらいである。東京が羨ましいかと言われれば微妙だった。


 「あの……話変わるけど」


 三人で話をしていると、今まで食事に集中していた小夜がようやく口を開く。すでに弁当は空になっていた。


 「千里君は向こうに彼女とかいた?」


 「……へ?」


 千里は口に運んでいたおかずを落としそうになる。


 「ちょっともう……」


 紗花が困ったように小夜と千里の顔を見る。それでも小夜は千里の返答を待った。


 「まあ、気になるって。返答次第で真の友人になれるか変わってくることもある」


 「そんな深刻な?」


 宏太の言葉を千里は真に受ける。紗花がすぐに冗談だと付け加えた。


 「でもこういう話で盛り上がる年頃だし、前のところでもそうじゃなかった?」


 「……それはそうだったかも」


 千里は思い出そうとしてみる。しかし、誰かと甘酸っぱい話をした記憶などかけらもない。代わりに蘇るのは悪夢のような出来事だけだった。


 「嫌だったら答えなくていいよ。二人はちょっとデリカシーがなくて」


 紗花が歯止めのような役割を果たす。想像していた通りの性格の持ち主である。


 「いや、隠すことでもないからいいよ。そういうのは全然なかった」


 千里は嘘偽りなく答える。故郷でこの事実が不利益になることはなかった。しかし、都会ではどんな印象を与えるか分からない。千里は反応を注視する。


 「ということは、どう……」


 「もう!」


 何かを言いかけた小夜の口を紗花が慌てて塞ぐ。小夜は口を押えられたままきょろきょろしていて、紗花は顔を赤くして困っている。都会はやはり違っていた。


 完全な正反対ではないものの、紗花と小夜が全く別の人間だということは分かった。ただ、どちらが良くてどちらが悪いというのはない。宏太も親切にしてくれている。


 それからも、千里はいくつか質問を受けた。千里という人間に対しての問いであれば回答に困ることはない。しかし、故郷のことを質問されたときは曖昧に誤魔化すしかなかった。考えなしに色々話してしまうと、親しくなれそうな三人との関係に水を差してしまうかもしれない。


 三人との関係はこの日だけで終わりはしなかった。紗花は控えめな人柄で、直接話しかけてくることは少ない。それでも、宏太と小夜が積極的に友人関係を築き上げようとしてくれる。


 しかし、それとは裏腹に三人以外との関係はなかなか進展しなかった。話をする機会はあっても、事務連絡だけで終わってしまう。千里はつくづく紗花に教科書を貸しておいて良かったと感じた。その行動の結果、たった三人ではあるものの学校に行く理由を得られたのだ。


 今の故郷に友人はほとんどいない。現状、この三人が友人の過半数を占めていた。

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