赤墨の三角形

クーゲルロール

第1話 プロローグ

 期待と緊張が入り混じる四月は、環境の変化に関係なく多くの人にとって意味を持つ。複雑な感情が渦巻き、それに戸惑いながらも生活を営んでいく。今年もそうなるはずだった。


 春とは思えない冷たい空気の中、北山千里きたやまちさとは多くの生徒と幹線道路に沿う歩道を進んでいた。寒いという感情だけが心の中を支配している。


 この日を待ち遠しく思う人などいない。肩を震わせ縮こまりながら歩く千里はそう考えた。高校の始業式などたいてい同じ日程で、この集団が向かう先も例外ではない。


 道の先に見えている学校は、普段の足なら数分で到着できる距離に近づいている。しかし、歩幅を狭くして多くの生徒に抜かされながら歩く千里の到着は、経験則的に得られる時間より遅くなりそうだった。


 千里が今日を憂鬱に感じるのは不思議なことではない。学生生活を有意義に感じている生徒など一握りで、大多数は重たい瞼をなんとか支えて何も考えずに過ごしているだけなのだ。


 当然、期待に胸を膨らませる生徒がいてもおかしくはない。始業式が終われば新しいクラスメイトと顔を合わせられ、青春を謳歌する年頃ならばそれだけで一喜一憂できる。学業を心待ちにしていた変わり者も中にはいるだろう。


 過去の千里であればそのどれかに当てはまっていたかもしれない。しかし、昔の心境など覚えているはずなどなく、唐突な頭痛に襲われた千里は思い出すことをやめた。


 足下ばかり見ているとまっすぐ進めているのか分からなくなり、眼球だけを動かして前方を確認する。四月に入って一週間が経っているが、視界に飛び込む風景は真っ白と味気ない。気温はなんとか氷点下を回避している程度にすぎず、慣れない環境はまだ当分続きそうだった。


 千里がこの土地へ来たのは四月一日のこと。とある事情から生まれ育った故郷を離れ、バスと電車と飛行機を駆使してこの極寒の地に辿り着いた。故郷では桜が満開になっているに違いないが、ここらの木々にそんな様子は見られない。


 ただ、千里の気分が底を這っていることに今日という日は関係していない。もっと別の要因が今の千里を苦しめていた。


 慣れない白銀の景色はその一つである。季節外れな景観と気温だけでなく、引っ越し初日に横断歩道で大転倒したことがまだ燻っている。


 また、この引っ越しが千里の意思に反していることも関係していた。家庭の事情が原因ならばまだ納得できたかもしれない。しかし、今回の引っ越しは特殊な事情の絡み合いに由来し、負担を強いられながらの新生活が確定している。


 その結果、この新天地に千里の居場所はない。高校二年生という自立を考え始める年頃とはいえ、これからは親戚の叔父さん宅で居候生活である。自分が厄介者であることは千里自身がよく分かっていた。


 叔父さんとの関係は決して悪くない。故郷での境遇を知ってなお受け入れてくれた叔父さんには感謝してもしきれない。それに、初日には簡単な街の案内だけでなく豪華な食事まで振る舞ってくれた。人柄においても不満の欠片さえないというのが本音である。


 しかし、出会いから負い目を感じている千里だからこそ、そんな生活が苦痛だった。


 とはいえ、千里にはやり直す機会が与えられた。同じ過ちを繰り返すつもりはなく、平々凡々な高校生活を決意していた。


 県立下手良けてら高校は、千里が転入する公立高校である。その名の通り、人口二百万を抱える下手良市のど真ん中にそびえ立っている。マンモス校ではないものの、千里が以前通っていた生徒数が三桁に届かない高校と比べると規模はまさに桁違いだった。


 下手良市は下手良駅とその南方の歓楽街が栄えていて、高校はそこから北に二十分ほど歩いた住宅地にある。ただ、下手良ような大都市で生活するとしても、千里がその恩恵を受けることはなさそうだった。


 暖かい校舎内では歩く速度も元に戻る。千里は人の暖かさを感じながら体育館に入り、よくある始業式に出席した。


 始業式が終わると、混雑する廊下を戻って今度は教室に向かう。ただ、掲示板の校内新聞に目を通せてしまうほど、人の動きは停滞した。


 教室は学年ごとに階が異なり、三階まで上ると人の数は極端に少なくなった。目的地である二年三組は階段から最も離れた場所にある。千里は周囲の様子を窺いつつ、扉の前に立った。


 ここまで千里に緊張はなかった。環境が変わるとしても、ここでの生活はすでに決まっている。今更、動揺する方が馬鹿らしいと考えていたのだ。


 しかし、教室の扉に手をかけた千里は同じ場所で何度か足踏みをしていた。


 全く知らない土地で、種類の違う人が待ち構えている。そんなことを意識すると万が一の可能性に怯えてしまったのだ。人に知られてはいけない秘密など誰にでもあるが、千里のそれは特殊である。過敏に反応してしまった原因はそれだった。


 ただ、ずっと立ち呆けているわけにもいかない。千里は気持ちを切り替えると、力強く扉を開けた。力みすぎたせいか大きな音が教室に鳴り響く。座っていた数人が千里を凝視した。


 そんな視線に千里は再び足を止める。そして、意識を向けられた意味を何度も考えた。知らないところで秘密がすでに共有されているかもしれない。故郷で受けた評価を思い出すと、冷や汗は止まらなかった。


 しかし、生徒の意識はすぐに携帯や友人へと戻り、たった数秒で千里に興味を示す者はいなくなった。後ろでは一人の女子生徒が千里の移動を待っていたが、道を開けると目を合わせることなく通り過ぎていく。


 黒板には座席表が張り出されていて、名前を探し出した千里は周りの注意を引かないように着席する。席は教室後方の窓から二列目だった。


 周囲ではすでに雑談が行われていて、早々にグループが形成されている。千里がそこに立ち入ることはできない。


 千里の後ろは男子生徒で、両隣は空席、前には女子生徒が座っている。自分から話しかける勇気はない。それでも、転入生という立場を利用した会話はできると千里は楽観視した。


 しかし、窓側に女子生徒、反対の隣に男子生徒が着席しても、千里は顔を合わせることさえできなかった。


 しばらくしてチャイムが鳴ると、担任が入ってきてホームルームが始まった。担任は高木という男で、転入の際に色々と世話をしてくれた人物である。今回も気を遣ってくれたのか、千里は一番目に自己紹介することになった。


 話す内容は名前と兵庫県の田舎からやって来たことだけにとどめる。全員が千里を見ているが、当然ながら質問が飛ぶことはない。情報をもっと発信すべきだと分かっていても、事情があってそれはできなかった。


 高木もそのことは把握していて、千里が黙るとすぐに着席を促した。こうしてアピールの場はあっけなく終わり、新生活の船出は何とも言えない結果に沈んだ。自己紹介が終わると連絡事項が伝えられる。千里は気分を切り替えて静かにそれを聞いた。


 今日はホームルームだけで終わり、高木の合図とともに周囲は一斉に動き出す。部活に向かう者もいれば、少数ながら千里と同じように帰宅する者もいる。学校に留まる理由のない千里は、大勢の退室を待ってから帰宅の準備をした。


 席を立って忘れ物の確認をした千里は、顔を上げて大きく息を漏らす。憂鬱な時間は終わった。それだけで肩が幾分か軽くなる。


 またあの寒い空間に出なければならない。そんなことを考えていると、ふと隣の女子生徒と目が合う。席が近い人の名字だけは覚えていたため、彼女が上村であることは把握している。そんな上村は名前の知らない女子生徒と会話していた。


 話しかけることはせず、軽く会釈をしてから立ち去る。田舎出身の千里が都会の女子高生とできる会話などなく、そんな話題は昨日の布団の中で用意していなかったのだ。臆病なわけではない。そう自分に言い聞かせつつ千里は教室を出た。


 しかし同時に、二人の容姿を思い出して都会に来たことを強く実感した。上村はきっと大人しい部類の女子である。それでも、以前の学校にいた女子とはまるで違っている。もう少し注意深くなればさらに綺麗な人を見つけられるかもしれない。探しながら登校するのも悪くはないと千里は思った。


 次の日、少し顔を上げて登校した学校では実力テストが行われ、千里はそれに準備することなく臨んだ。下手良高校には平均的な学力の生徒が集まっていると聞いていた。そのため、自らの学力を平均的だと認識していた千里が意識して努力する必要はないはずだったのだ。


 そんな千里の予想通り、テスト後の自己分析はまさに平均点だった。ただ、千里の思う平均とは故郷で培ってきた感覚に基づいていて、それが下手良でも通用するかは怪しい。


 上村は勉強ができる学生なのかもしれない。実力テストを終えた千里はそんなことを考えながら帰宅した。根拠は上村がテスト中に眼鏡をかけていたことだけで、完全に千里の偏見だけで導き出されている。黒髪で大人しそうな雰囲気であることもそんな考えを補完していた。


 帰宅した後は、明日からの通常授業に備えて教科書やノートの準備をする。叔父さんは夜にならないと帰ってこない。千里は一人だけの時間を過ごした。


 その日の就寝時、この二日間で自己紹介の場面でしか声を出していなかったと気付いた。一人でちゃんと声が出るか確認していると、途端に明日からの生活が心配になってくる。事情は考慮しなければならないが、千里が願うは人並みの生活である。それ以上のことは求めていないつもりだった。


 そんな些細な願いさえ結局は叶うことはない。そんなことも知らず千里は眠りに落ちていった。

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