琵琶の名手、ここにあり
少年は、今日も弟妹たちにせがまれて、琵琶を
曲名は、“
その難曲を弾きこなす少年の名は、
そう、あの珀月影である。
なにしろ、わずか四つで琵琶のすべての
そんな
清く澄んだ音が、静寂のしじまに響き渡る。
その余韻にしばし浸たっていた彼の二人の弟妹は、音の気配が完全に消えると、閉じていた
「わぁ――――っ! すごいです、兄上!」
「にいさま、すっっご――――いっ!」
二人は、素晴らしい演奏を披露してくれた兄に、割れんばかりの拍手を送る。
それまでずっと琵琶をかまえたままであった月影は、ここで始めて表情を緩めた。月影の全身から、ふっと緊張が抜ける。
そんな二人に向かって微笑みつつも、月影は愛器を
「兄上」
「うん? 何だい
月影は、右手に着けていたべっ甲の爪を外しながら、話しかけてきた弟の言葉に応える。
「さすが兄上! 花国一の腕前をお持ちでいらっしゃる。僕も早く兄上のように、弾けるようになりたいです」
「わたしも! わたしも!」
ただ純粋に兄のことを慕っているのであろう。二人のキラキラと光る瞳が、月影に尊敬のまなざしを送る。
しかし、二人の素直なほめ言葉に、月影は首を横に振った。
「そんなことはないよ。竣影、
その言葉に、竣影は否定するために口調を強めてこう言った。
「いいえ兄上! 兄上は、謙遜しすぎです。珀家の名を国中に知らしめたお方に相応しい、見事な演奏でございました。おまえそう思っただろう? な、月華」
「はいっ! わたしもそう思いました。やっぱり、
月華は、首を縦に大きく振り、元気いっぱいに答えた。
ほらね。その姿を見て、竣影は得意げに笑った。
「そうですよ、兄上。僕は、兄上の謙虚な姿勢も尊敬していますが、ご自分にもっと自信をお持ちください」
手放しにほめられて、照れ臭くなったのだろう。月影は、左手
で、頬をぽりぽりとかいた。
「わかったよ、二人とも。ありがとう」
竣影と月華には敵わないな。
二人の弟妹に力説された月影は、微苦笑を浮かべながら頷いた。
「よしっ! じゃあ竣影、月華。今から、君たちの琵琶の稽古をつけてあげよう」
ぱんっと一つ、手を叩いた月影は、にっこりと笑ってみせた。
「誠にございますか、兄上!」
「わたしも、月影にいさまとおけいこする!」
二人の顔が、ぱっと輝く。
しかし、わたしもする! そう言った月華に、常日頃から、兄上は、僕のものだ! と思っている竣影は、
「月華。おまえにはまだ早いんじゃないか。大して弾けもしないくせに、兄上に稽古をつけていただくなんて、生意気だな」
と言って、妹をけん制した。
竣影にとって、妹の月華は月影という兄の良さを共に分かり合える相手であるが、同時に、月影を巡って争う、
そんなわけで、彼はどうしても、月華に優しくすることができない時があるのである。
「そんなことないもん! わたしだって、少しならひけるわ。竣影にいさまの、いじわる!」
竣影の馬鹿にしたような口ぶりに、月華はふんっとすねた。
月影にいさまはみんなにやさしいのに、なんで竣影にいさまは、わたしにときどき意地の悪いことをおっしゃるの?
そう思うと悲しくて、月華は唇を噛んだ。
「こらこら、竣影。月華のやる気を削ぐようなことを言ってはいけないよ。何事も、修行を積まなくては一人前にはなれない。どんなことでもね。だから、努力しようとしている人の行動を、邪魔してはいけないよ。特に、自分よりも年下の者については。ね?」
妹のかわいそうな姿に見かねた月影は、助け舟を出してやる。
「………………わかりました。兄上が、そうおっしゃるのなら」
尊敬する兄にたしなめられた竣影は、唇をとがらしながらも渋々うなずいた。
「じゃあ二人とも、自分の琵琶を持っておいで」
「はぁい、にいさまっ!」
「はい、兄上!」
その二人のどこか微笑ましい姿に、月影は、首だけをひょいっと室から覗かせながら、
「ああっ、そんなに急がなくていいよ。二人とも、気を付けて」
と言って、少しだけ案じた。
「はぁい!」
「わかってまーす! 兄上ー!」
二人の声が、足音と共に遠ざかっていく。
それとほぼ入れ違いに、一人の少年が二人とは反対の方向からやって来た。
「あっ!
「侘施だぁ!」
二人は、その少年の名を呼ぶ。
一方。
「ちょっ、竣坊ちゃまとお嬢さまっ!? 回廊は走ってはいけませんよ!」
いつもは良いところの子息・子女としてお淑やかに振る舞っている竣影と月華が、回廊を走って自分とすれ違って来たことに、さぞ驚いたのだろう。侘施の動きが、一瞬止まる。その後、すぐに我に返った侘施は、慌てて二人を注意した。
「わかっているよ」
「知ってるよー!」
しかし、そんな彼の注意など、どこに吹く風。二人は模範的な返事だけを返し、そのまま大して速度を緩めることなく行ってしまった。
「ああもう〜。本当にわかっていらっしゃるのだか。怪しいなぁ」
侘施は、反省の色が全くない二人の姿に小さなため息をついた後、ぼやきを口にする。
でも、仕方ないか。あのお二人は、月影坊ちゃんのことになると、周りが見えずらくなるらしいからなぁ。それよりも、今はお役目を果たさなくてはいけないし。
そう思った侘施は、早々に諦めることにした。
それから、彼は月影の姿を認めると、
「失礼しますよ、月影坊ちゃん。良かった、こちらにいらして」
と言って、月影のいる室に入ってきた。侘施は、二人が出て行って開けっ放しにされていた室の扉を閉める。
「侘施。どうしたんだい?」
月影は弟妹と入れ違いに入ってきた同い年の少年に問いかける。
その言葉に、月影の家の使用人として雇われている彼は、月影に軽く頭を下げた後、伝言として預かっている言葉を告げた。
「急ぎ、母屋にお戻りください。大旦那さまが、お待ちです」
「お祖父さまが?」
月影は、思わず首を傾げた。
あの
「はい。なんでも、とても大切なお話がおありとか」
「とても大切なお話??」
それって、何んだ?
月影は、腕を組んで思考を巡らせる。
「侘施。何か、知っているかい?」
「いえ、僕は特に何も。ただ…………」
侘施は、遠慮がちに言葉を繋げようとした。
「ただ?」
そんな彼に、月影は続きを言うように促す。
「もしかしたら、月影坊ちゃんの今後が大きく変わるかもしれないと、一言だけ」
「僕の今後????」
月影の頭に、ますます多くの疑問が浮かぶ。あまりにも突拍子もない上に、自分の将来が変わると言われても、思いつくわけがない。第一、まだ将来の具体的な進路など、この時の月影は、少しも考えていなかったのである。
「ま、いっか。とりあえず、行こう」
月影はこう言い切ると、あっさりと考えることを放棄した。もともと、彼はわからないことを――――特に、雲をつかむような話――――については、あんまりくよくよと考え込むことはなかった。
考えても、時間の無駄である。それが、月影の自論だ。
それから、月影は侘施に弟妹に、琵琶の稽古ができなくなったことに対しての詫びの言葉を言付けると、一人、祖父の待つ母屋の奥の室に向かったのであった。
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