第5話「天上世界」

 入舸を送り届けた後、ヴィオを乗せたバイクは天へ、天へと昇っていく。朝日を受け、風を切り、途中雲の壁を抜ける。霧のようにまとわりつく湿気がミストバスのようで、疲労した躰に心地よかった。


 ヴァイオレット・ハルヨラ。ヴィオと呼ばれ、ケージ・ブレイカーと共にソウル・ケージと戦う彼女は霊界人であった。当然仕事を終えた彼女が帰る場所も人間世界ではなく、人が天国や楽園と呼んだ天上の世界である。


 では、彼女たちは天使や神と呼ばれる存在なのか?

 答えは、そうであり、そうではない。確かに地上と霊界は古くから密接な関係にあり、生物の生死や魂を管理する霊界人を、人は神や天使と呼びあがたてまつった。

 しかし霊界人はあくまで一種の種族に過ぎず、世界を構築したことも万物を想像したこともない。霊界人ですら何者か、それこそ人が神と呼ぶ存在に創られた者たちである。

 彼女たちからすれば、当然自分たち霊界人もただの一個の生物であり、事実霊界人とて物も食べれば睡眠もとり、傷を負うことも死を迎えることもある。そういう意味では完全に生物と定義される存在であり、他の生物と変わらない世界に生かされている存在であった。

 だからこそ、人類に必要以上に神聖視されたり、ましてや人類の守護だの導くだの味方だのと言われる事がわずらわしくてしかたなかったのである。

 霊界人は確かに生態系の頂点に立つ種族ではあったが、極稀ごくまれな例外を除いては人類に興味などなかった。


 エンジンの出力を上げ高速で高度が上昇する。成層圏せいそうけんに近づくにつれ空の蒼は薄れ、黒へと変わるグラデーションを濃くしていく。バイクのエンジン音以外に何も聞こえず、さえぎるものもない。蒼と黒の狭間はざまに達した時、ヴィオは上昇を緩め、ゆっくりと止まった。

 真っ黒な空に光のたまのような太陽が浮かび、蒼と黒の世界をより幻想的なものにする。胸元から煙草を取り出し火を点けて、ゆっくりと煙を吐き出し、鼻歌を歌う。

 ヴィオはこの静寂せいじゃくの世界が大好きであった。景色だけなら霊界からの光景も十二分に美しいが、人も鳥も霊界人も、雲さえ存在しないこの場所、自分以外何一つないこの光景が、たまらなく贅沢ぜいたくな気がしたから。


「やっぱり地上は体が少し重いわね」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 霊体であれば重力の影響を受けないかといえば、そうではない。生身の生体に比べ、その影響がいちじるしく少ないというだけであり、霊界人や霊的物質も空気抵抗も感じれば、重力の影響も受けた。事実先ほどまでバイクを走らせるヴィオの髪はなびき、風よけのゴーグルも着用している。

 しかし、呼吸に酸素を必要とせず、それに相当するものはエーテルである。霊界人はこの世に存在し、万物の影響を受けはするが、その全てが希薄であった。

 何故か?

 それは霊的物質は三次元ではなく、四次元の存在だったからである。


 平面、立体に続く精神体(霊体)の次元、それが第四次元であった。通常四次元空間は三次元からは認識されず接触はできない。一方その逆は可能であり、四次元の存在が三次元には干渉かんしょうできた。

 三次元の生命体、例えば人間などは思考や精神、感情や意思である存在を認識しているが、見えもしないし触れる事もできない。無いのではなく、実感できないが存在する世界。反面それは、同等の世界からは干渉が可能な世界である。だから一方通行の干渉関係が成立する。


 では具体的には四次元とは何か。それは三次元に重なる影のようなものであり、精神の世界である。より具体的に言えば、認識の有無だ。互いに存在はしているにも関わらず、一方しか認識しない状態。

 では、一方通行の接触が起こればどうなるか。結果、認識している側にだけ接触した事実が確認できる。

 霊体が三次元の無機物を透過できても、生物が透過できない理由はここにある。無機物であれば自らの意志で、三次元に置くか四次元に置くかを認識を切り替える事で、あるかないかを振り分けることが出来る。

 しかし無自覚であれ、四次元的物質、精神を有している三次元の生命体は透過できないのだ。


 無論精神同士の接触が起こっているのだから、たとえ無自覚であれ、三次元生命体に何の影響も及ぼさないわけではない。軽い接触であっても立ちくらみや頭痛や耳鳴りといった影響が出る。よく言われる、霊が通り過ぎると耳鳴りが聴こえるというのは、このためだ。

 そして当然、より強い衝撃を受ければ相応の結果が生じる。すなわち霊体の破損、破壊、そして死である。


 霊体の死、それは霊的エネルギーである霊子の消失か、霊子の自我の消滅である。たとえ霊子が残されていても、それが自我を持つ精神体として成立していない以上、ただのエネルギー体にすぎず、生命足りえない。熱や風や空気や水滴に砂粒、そして重力といった自我が非常に希薄希薄なものはこれらに属し、三次元的性質が強すぎて四次元性が極めて薄いのである。

 だから、霊界人や霊界の物質は、自然現象の影響が極めて少ないのであった。



「……まぁ、こうなるとは思ってたけど、やっぱり気持ちいいものじゃないわね」

 今日の入舸の戦いを思い出し、愚痴ぐちを零しながら吸い殻を宙に捨てる。ゆっくりと落下していくそれは次第に色を失いながら、やがて完全に存在を消した。

 全ての物質は三次元空間では常に霊子を消費し続けている。それが生命体であれば、四次元空間における酸素に相当するエーテルの呼吸により、自然消費の分量程度なら相殺される。しかし呼吸を行わないただの物質は、全ての霊子を失った後この世から消えるのである。

 ヴィオが煙草に触れていた時は、ヴィオの身体を通じて霊子の同調が行われているため、何の問題もなく存在を維持できる。しかしヴィオの身体を離れ独自の霊子で存在し続けるには、煙草の吸殻程度の霊子量では、ほんの数分ほどで消滅するのである。

 これは、先ほど地上での戦いで撒き散らした肉片や血反吐にも通じる。躰から切り離され、ただの物質となったそれらは、すでに跡形もなく消え失せているだろう。


 ピリリリとヴィオのスマートフォンが鳴る。直属の上司である室長のマトヴェイからの電話であった。

 念話という会話手段がある霊界人であるが、精神を部分的に同期リンクさせていなければならない。わりとプライベートもクソもなくなるため、たとえオンオフを切り替えれるものだとしても、通常家族や恋人以外で行うことはないものであった。

 もっとも、極めて厳正な公的機関に属するヴィオは、是正局ぜせいきょく日本支部の同僚全員とリンクしているのだが、常に回路を開いているわけでもない。だから普通にスマートフォンを使う。霊界人もスマホを使うのだ。

「なに? 残業だったらしないわよ」

「そんな分かりきっている要求をするほど馬鹿じゃないよ。

 ちょっと話したい事があるから、いつもの店で待っているよ」

「……あいよ」

 やっぱりかといった表情で通話を終えると、ヴィオはバイクのエンジンをかけ、地上から高度五万メートル上空にある中間圏ちゅうかんけんへ向け上昇を開始した。そここそが四次元の密度が極端に高い場所、人が天界と呼ぶ霊界人が住まう世界であった。



 高度5万~8万メートルの世界。蒼はますますその色を失い、より黒を濃くした世界。眼下には大気の帯が青白く広がり、太陽がより白く輝いているにも拘わらず、空の闇を払うことなく真っ黒い空に光の珠として存在していた。

 雲のない黒い闇が広がる空は、夜になれば夜行雲やこうぐもやオーロラに彩られ、恐ろしいほどの美しさを魅せはするが、基本的には昼夜の区別はつきにくい。

 やがて眼前に、宙と空の間に存在する天空の都市、霊界人の居住地がその姿を現す。黒い空に浮かぶ島がそこにあった。

 浮遊大陸。それ以外に形容のしようのない世界がそこにあった。おとぎ話やファンタジー小説によくある空に浮かぶ島、ロマンの塊が浮かんでいた。

 しかし、その島は人々が想いせた空想とは違い、現実のそれはあまりに人間世界に酷似こくじしすぎていた。

 常に黒い空を照らすため数多あまたのネオンが色とりどりの光を放ち、ややモダンな外装ではあるが近代的なビルやアパート、劇場等の娯楽施設が立ち並ぶ。公園の露店や飲食店の食事すらも、地上にあるものと何ら変わらなかった。

 そこはまさに、ただの都市であった。世界地図に載らない、普通の人々が普通に暮らす世界がそこにあった。

 唯一はっきりとした違いがあるとすれば、駅舎や港から出る交通機関や輸送船、行き交う自家用車などが宙を舞う物であることだろう。ヴィオのバイクもその中の一つとして、空中都市の雑踏ざっとうの中へ消えて行った。


 地上で言うところの香港島のはるか上空。日本、韓国、台湾、中国東部方面の是正局執行部ぜせいきょくしっこうぶがある浮遊大陸シャングリラは、霊界でも指折りの巨大都市であった。

 にも拘わらず、大陸面積は四国ほどの面積しかなく、中央にある都市部も東京の山手線の内周に収まる程度の規模であった。

 無論街並みは東京などの大都市と変わらぬほど発展しているが、大陸人口の98パーセントが住む都市にしては大人しい規模と言える。

 しかしシャングリラは、やはり大都会であった。霊界人は極めて少数な人種であり、総人口120万人余りの霊界において、人口18万人を超すこの都市は霊界における巨大都市の一つであったのだ。


 霊界の生活習慣も人のそれに近く、早朝となれば人々は出勤のため忙しく通りを急ぎ、商店も開店準備前の店が多く、飲食店は出勤前の軽食用の喫茶店やコーヒーショップ以外は開店準備すらしていない。

 大陸名にもなっている、シャングリラ中央駅の上空にバイクを停泊める。丁度吸い終えた煙草を雑にタンクに押し当てみ消したあと、いつも通りにポケットにねじ込む。

 その間にバス停の標識のような物が接近してきて、バイクの前で止まった。崑崙こんろんB19と書かれた標識に手をかざすと、停泊開始の文字と、その下に経過時刻と料金が表示される。

 よく見れば乗り物は全て街の上空に停泊してあり、地表の道路標識には地上走行禁止や飛行禁止の標識があるが、なぜか自転車だけは走っていた。

 鍵もかけず、バイクから降りたヴィオの背から二枚の翼が生え、ゆっくりと駅前に降下する。霊界では犯罪はほぼ起こることは無いため、盗難の心配などない。そもそも乗り手を自動認識する事から、本人以外乗車できないのである。

 相応の人通りを見せる駅前だが、誰一人ヴィオの行動に注視するものはない。それも当然のことであり、霊界人なら全て翼による浮遊や飛行が可能であった。

 空を飛べるのに、乗り物に乗るのか?

 人類とて、二本の足があるのに乗り物には乗る。つまりそういう事である。



 通りを二本横切り裏路地に進みむ。すでに閉店した酒場が並ぶ通り、とある雑居ビルの入り口前で足を止め、横の地下へと続く階段を降りる。黄泉平坂よもつひらさかと書かれたプレートが掛かったドアを押し開けると、ボサノバに似た音楽が漏れ聴こえた。

 四つのテーブル席と六人掛けのカウンターだけの小さなバー。店主のバーテンダーが軽く会釈をし、合わせるようにカウンター奥から二番目に座る男も軽くグラスを上げた。

 男の隣り、カウンターの隅のいつもの席に腰を下ろすと、即座に二枚の灰皿がヴィオの前に置かれる。その一方に無造作にポケットから取り出した8本ほどの吸い殻を捨てると、バーテンダーはそれを片付け、おしぼりを出す。

 霊子に満ちた霊界では、俗界ぞっかいのように煙草の吸殻等のゴミが霧散することはない。別にヴィオはポイ捨てを気にしないマナーのない女ではなく、ゴミとなって残る霊界では、きちんとポケットを灰皿代わりにする淑女だった。


「いつもの頂戴ちょうだい

かしこまりました」

 おしぼりで手を拭きながら注文するまでが、いつもの流れであり、一通りの儀式が終わったあとマトヴェイがきれた顔で口を開いた。

「相変わらずだね、君は。

 手が汚れるのが嫌なら、携帯灰皿を持ち歩けばいいだろう?

 手に煙草の匂いだってつくだろうに」

 「人間じゃあるまいし、霊界人は早々変化しないわよ。それに携帯灰皿は三日でどっかいくし、人間界の煙草みたいに臭くないから別に気にしないわ」

 そう答えながら、ヴィオは自分の指先をぐ。ほのかに残る匂いは、ラヴェンダーに似て、確かに香水か香木を思い起こさせる上品なものであった。

「嗅がないでくれよ行儀悪い。女の子らしくないよ」

「そんなこと言う男を避けれるなら、女らしくなくて構わないわ」

 にやりと笑いながら答え、バーテンがシェイカーを振る間にヴィオは煙草に火をつけた。釣られて笑うマトヴェイが、無造作にカウンターに置かれたHAPPY STRIKEという銘柄のヴィオの煙草を一本抜き取る。別に労働者組合がこれをキメてハッピーになりながら行進したりはしないし、そもそも霊界に労働者組合はない。


「止めたんじゃなかったの?」

「問題児が帰ってきたからね、禁煙は終了だよ。

 俗界でも禁煙ブームだというのに残念な事だよ」

「毒物丸出しで臭い俗界の煙草と違って、健康被害もないのに止める理由が分からないけどね、私としては」

 マトヴェイはくくっと笑い、ヴィオの手元のライターに口をよせ火をつける。

「残業しなくていいの室長様?」

「頼れるチーフがいるからね

 ……と言うか、君がそれを言うのかい、ガブールロ君がお菓子を喰い散らかしつつ、君への悪態を歌にしながら残業していたよ?」

「相変わらず賑やかで変に器用な子ね、まぁお菓子屋が儲かっていい事じゃない」

 ヴィオらしい答えに、どこか懐かしさを感じながら再び煙草を口にし、軽口と煙草の香りを堪能したあと、マトヴェイは、ゆっくりと口を開いた。


「やはり早すぎたんじゃないかな?」

「五年も修行して早いわけないじゃない、一年そこらで実践に出れる奴もいるのに」

「分かってて言っているよね、入舸君が訓練を始めたのは子供の頃だ。

 霊力は精神力の影響を大きく受ける。潜在能力の多寡たかに拘わらず、当面の霊力量は現有の精神力……成熟し、安定した心が大きく影響を及ぼす。

 だから本来は、思春期以前の子供をケージ・ブレイカーにスカウトする事はない。

 未熟な精神では現実を受け入れることも、克服こくふくすることも困難だし、修練に耐えうることも出来ないのだから。

 ……極稀ごくまれな例外を除いては、ね」

「今更私に、小娘相手にするようなレクチャー?

 って言うか、そっちこそ分かってて言ってるじゃない」

 出されたショートカクテル、人間世界のマティーニと寸分違わぬものを一気にあおり、グラスに残ったオリーブを摘まむ。

「次もいつもので、よろしいでしょうか?」

「お願い、トリプルで」

 オリーブの実を口に含みながら行儀悪く答えるヴィオに対して、嬉しそうに会釈えしゃくで応じ、棚からMILD TURKEYと書かれたバーボンウイスキーを取り出す。ラベルに描かれた絵柄は、トルコに何の関係もないきじである。

 酒に限らず、霊界の嗜好品は地上からの逆輸入が多く、ほとんどの銘柄が地上のパロディやオマージュであった。


「あの子は特別よ。マスターウォンの修行に耐えたんだから」

 丸く削られたグラスの氷を指でもてあそび、カランと音を立てる。

「修了率5%未満の地獄の修練か……」

「下手すれば……下手をしなくても結構死ぬわ。

 死ななくても廃人になるか、その寸前で記憶抹消の上、無かったことにして俗界帰りってね」

「まぁ、あの人ももう少し加減をしてくれれば良いのだがね」

「元々訓練担当官じゃないもの。無理言ってお願いしてるのはこっちだしね」

「その無理も何年振りか」

「多分八十年年くらい前じゃない」

「……つまり、前回の無茶ぶりも君だったわけか」

「さぁ……五十年くらい寝てたから、その辺の事は分からないわ」

「……そうだね」

「アンタが掛け合ってくれなきゃ、今でも牢屋でぐーぐーぐーよ」

「どうかな。

 是正局、中でも執行部は万年人手不足だからね。私が働きかけなくとも、いずれ上は君の投獄を解除したと思うよ。

 君ほど優秀なウォッチャーは居ないわけだから」

「……みんな人間嫌いだものね。

 安全圏から監視や指示するだけって言っても、稀に死ぬこともある役目だし」


 死は霊界人にとって極めて忌み嫌う恐怖であった。

 生物なら等しくそうであるといえるが、極めて出生率が低いうえに、基本的に不死の霊界人にとって、人類とは比べものにならないほど、死はみ嫌われた。

 そう、彼ら霊界人は不死である。不老ではないが、長い時をかけゆっくりと老いて行き、二千年を超えるあたりで永い眠りにつき再誕さいたん期間に入る。百年ほど眠り続けたあと、眠りが解けた時には幼少期の姿に戻っており、再び活動を再開するのであった。

 この時、眠りにつく過程で記憶を消去していく。記憶を残し続けることも可能であるにも拘わらず、ほぼ例外なく自らの意志で、ゼロからのリスタートを選んだ。それが不死なのかと問われれば難しいところではあるが、長すぎる年月を生きる彼らは、何千年と変わらぬ日常の記憶を持ち続けることが、生への活力を奪うことを経験や本能で学んでいたのだ。

 そんな霊界人だからこそ人一倍死を恐れる。恐れるが故に、争いも起こらず揉め事もない。まさに人が求めた理想郷そのものだが、それは薄く長い生であった。

 輪廻転生庁りんねてんせいちょうは、霊魂の正しい循環じゅんかんを導く公的職員である。中でも省庁下の是正局執行部は、ソウル・ケージという極めて危険な存在と相対する部署であり、霊界人にとって非常に稀な出来事である死と直面する部署であったのだ。


「……私もそれが怖くなって、現場から退いたよ」

「でも、ウォッチャーを辞めても、是正局からは抜けられない」

「人間を、見ていたいからね」

「エンタメ的に?」

「否定はしないよ」

 らしい毒が懐かしく、くくっと笑いが零れた。

 是正局にのぞんで配属される霊界人は、例外的に平穏を嫌う変わり者集団である。浅ましく愚かで自分勝手で醜い人間とかいう種族と、積極的に関わりたがる変人集団との認識があった。

 しかし当の本人たちは変人で何が悪いと開き直っている。むしろ何一つ変わらない日常を数百年単位で過ごせるお前たちの方が、変人だとすら思っていた。


 それほどまでに霊界は平穏無事すぎる世界であった。無論それが通常であり常識であるが故に、そこに疑問を挟む霊界人はいない。例外を除いては。

 例外とは平穏無事に疲れた者であり、霊界暮らしに飽いた者であった。

 だから地上に目を向けた。第四次元も認知できない分際で、理解できないほどの熱量で感情や精神を浪費し、花火のように霊魂を散らす人間は、時に醜く、時に美しく、おおむね愚かで、稀にさかしく滑稽こっけいであった。実に興味深い存在であり、生を謳歌おおうかしていると感じた。人がうらやましくさえ思える事も多々あった。

 そういう世界を一度知ると、平穏に戻る事が苦痛に思える。霊界とて俗界と同じくエンターテイメントはある。小説も絵画も音楽も映像作品もスポーツもあり、ゲームやアニメだって存在した。

 しかし、生死の境に立って生を誇示こじする世界はない。一部の霊界人には、それがあまりも刺激的で、恐ろしく魅力的なエンターテイメントの世界に思えたのだ。


「是正局の人間好きは止められないわけね」

「人間好きが是正局に集まるんだよ。

 ましてや執行部なんて、変人集団って呼ばれるくらいに、人間ジャンキーな連中の集まりだからね」


「私も今や、立派な人間ジャンキーの一人ですよ」

 ふいにバーテンダーが会話に入る。

「皆様の愚痴や面白話を聞かされているうちに、こんな面白い世界があるんだと思ったら、普通のお客様を相手にするのがつまらなくなりました。

 今やこの店は是正局の御用達ごようたしです」

 嬉しそうに話すバーテンダーは、そう言いながら軽く酒瓶を振る。それに応えるように、二人は飲み干したグラスを軽く前に出す。

「マスターも元々転生庁の職員だったんでしょ、どこだっったけ、魂魄管理局こんぱくかんりきょくだったっけ?」

「いえ、最終的には再編局の捧呈課ほうていです。管理課にも居ましたが。

 あそこもデータ入力や管理、成分検査の日々でつまらない職場でしたが、捧呈課は輪をかけて、もう本当つまらない職場でしたね」

「再編局の捧呈課ってエリートじゃない。マーテルを一番近くに感じれるとか何とかで、かなりの競争率の部署だったような」

「まぁ、確かにお給料は悪くなかったとおもいます。勤務場所も首都アガルタの中央塔上層階務めですしね。

 北極圏ですから年中オーロラを見れるのは素敵でしたが……

 ただ、来る日も来る日も霊核の残骸を籠に並べて、キャリーに乗せてスイッチを押すだけですから、母を感じるも何もないですよ。実際母の場所まで遠すぎて気配すら感じませんでした。

「最後の階段の一つ下フロアだったはずだけれど、それでも何も感じなかったのかい?」

「階段が超長いんじゃない?」

「だと思います。実際、フロアの霊的圧力が若干強いだけでしたね。

 そもそも最後の階段はおろか、その手前の部屋すら見たことも無いです。

 たまにお話に出る階段の門番にして、霊界最強の武人と称されるマスター黄殿も、一度もお目にかかった事がないですよ、本当に夢の無い職場でしたねぇ」

 マスターはしみじみと首を横に振り、ため息をつく。

「そもそも是正局こそ、エリート中のエリートじゃないですか」

「私らなんて、所詮酔狂すいきょうな変人集団にすぎないわ」

 可笑しそうに笑いながら、ヴィオは何本目かの煙草に火を点けた。


 魂魄管理局、再編局、是正局という言葉が出た。そもそもそれらが属する輪廻転生庁りんねてんせいちょうとは何か。

 それは生命の循環を滞りなく行う組織であり、生命を生み出す偉大なる母マグナ・マーテル<MAGNA MATER>のサポートを行う、霊界における最重要機関である。

 なぜ最重要機関なのか?

 生命の母である、神といえる存在に仕える神聖な職務だからか?

 答えは否である。


 無論その側面もあり、建前上も体面上もそうであるが、不死の霊界人にとって生命の再誕や輪廻など、ある意味知った事ではない。霊界人以外の種族が、どれほど生まれてどれほど死のうが何の関係もない。彼らは人間の保護者でも生物の指導者でもなく、ましてや人が思うような天使などではまったくなかった。ある意味文字通りの天界人ではあったが、それは単に人族の上位種族であり、天上に住まう存在であったににすぎないのだ。


 その上で、彼ら霊界人には輪廻を補佐するメリットがあった。

 マグナ・マーテルが生命を再誕させるには、霊魂の魂の部分。すなわち魂の器となる霊核……つまり霊的心臓が必須ひっすであった。詳しくは霊界人ですら知らないが、マグナ・マーテルといえど、ゼロから生命を生むことは困難なのであろう。だからこその再誕であり、輪廻である。

 そして生命が終わりを告げるいうことは、霊魂の霊。霊的エネルギーの消失であり、残された魂の残滓ざんしである器の霊核は肉体と共に地表に残るのであった。それらを拾い集めマグナ・マーテルへ還し、再誕作業を行ってもらう。この時、再誕に生じてマグナ・マーテルは熱放射を伴い、マナと呼ばれる余剰エネルギーを発散する。これが霊界のエネルギー資源になっていたのだ。

 つまり、輪廻を補助するということは、電力や化石燃料や天然ガスを生み出す事と同義であり、霊界にとって輪廻が停滞するということは、エネルギー供給の停止を意味する。故に、彼らは誠心誠意、偉大なる母の輪廻転生作業のの補佐を行うのである。そのおこぼれにあずかるために。


 そして、それを阻害するのがソウル・ケージと化した悪しき死に損ないだ。ソウル・ケージが他者の魂を食らうときは霊核すらも残さない。それは霊界にとってもマグナ・マーテルにとっても極めて不都合であった。

 だから霊界は輪廻の輪を外れ、ことわりを乱すソウル・ケージを生命と認めず、討伐する。霊界人は正義のためでも俗界の秩序ちつじょのためでもなく、自らの利のために、ビジネスの一環としてソウル・ケージを狩るのだ。


 それらの事情があるからこそ、その心境が理解できないとしながらも、是正局の局員は他の霊界人から、ある種崇拝の念を抱かれてさえいた。

 そもそも、霊界人は深いレベルでの感情の動きが少ない種族であり、まして強い負の感情、憎悪や嫌悪を抱きにくい種族である。一般の霊界人は是正局職員を馬鹿にしていたわけではなく、ただ理解し難いと思っていたに過ぎない。是正局の面々もそれは重々承知していた。

 にも拘らず、是正局の面々が他の霊界人に対してやさぐれるのは、人間好きへの無理解ではなく、ひとえに人類への偏見や彼らの種族的優性を一切認めない、同族のその狭量性への苛立ちからだった。


「……入舸君、彼は確かに優秀だ。

 さすが君がこれと見込んだだけあって、天才と呼ばれる部類に属するだろう」

 幾本かの煙草と幾杯かのアルコールを消費したあと、マトヴェイはようやく本題に切り込む。

「実際、確かに戦闘力は目を見張るものがあると私も思う。思春期特有の情緒不安定な部分を残しながらも、あの若さであれだけの霊力量と肉体形成能力を誇るというのは、正直驚きだと皆も言っている。これは中央管理局ですらそうだ。

 だからこそ、もう少し大事に育ててもいいんじゃないか?」

「大事にしてるわよ。いい子いい子しまくってるわよ」

 ヴィオの軽口に、特徴的な、くくっと堪えるような笑いを漏らすが、顔を引き締めて話を続けた。

「地縛霊や浮遊霊から、慣れさせるわけにはいかなかったのかい?」

「そんなのガーディアンの仕事じゃないの。幽体の、ケージ・ブレイカーの仕事じゃないわ」


 ガーディアンは魂魄管理局警備課職員である。古くはアンゲルス・クーストース<angelus custos>と呼ばれ、人類が守護天使と呼んだ存在。ソウル・ケージ以外の浮遊霊や地縛霊に憑依霊ひょういれいなど、悪霊や幽霊と呼ばれる者を討伐しその霊核を収集する存在である。

 霊的存在にすぎない悪霊などは、より上位の霊界人の彼らで完全に対応出来る。ましてや力量的に遥かに格上である、幽体のケージ・ブレイカーが敗北することは、尚更なおさらあり得ない。そのためにケージ・ブレイカーの実戦形式の演習に使われることが、半ば慣例化していた。

 一方落ちている霊核拾いや、昇華不良の霊的エネルギーを集めるのは、かつてアンゲルス・ドゥクトゥス<angelus ductu>と呼ばれた魂魄管理局収集課職員であるパトロール達である。ガブリエッラは元々この職員であり、昇進転属の結果、執行部のナビゲーターになった経緯がある。

 余談ではあるが、収集課は歴史的にお調子者や人間好きが無駄に多く、紀元前あたりの頃は、度々人類に姿を見せて人類に知恵を授けるような真似をしていた。

 遂には人類に指導天使などと呼ばれるに至り、人類に存在を知られる事を忌み嫌う霊界全体の問題となった結果、記憶操作系の霊的弾薬が生み出された。


「でも普通はケージ・ブレイカーでも、そうする」

 ヴィオの正論に乗らず、一般論でマトヴェイは返す。

「坊やは普通じゃないわ。能力も、借霊しゃくれいも」

「負債は無理に急ぐ必要はない」

「えこ贔屓ひいき

 悪い前例を作るのは良くないわよ、室長様」

「規則破りの常習犯の君が、それを言うのかい……

 マスター、こっちもお代わりを頼むよ」

 ヴィオに五杯目のバーボンを注ぎながら視線で応え、マトヴェイのグラスにも同じ酒を注ぐ。

 一口呑み、グラスを置いて真剣な表情で口を開く。

「心配なんだよ」

「……どっちが?」

「……両方だよ」

 やや間を開けて答えた。


「正直ね。同族の私と人間風情を同等に心配するなんて……

 裏があるって言ってるようなもんよ。上からクレームでも入ったの?」

 人間風情。霊界人なら当然の感覚であり、執行部が忌み嫌う言葉をヴィオは敢えて口にした。

 マトヴェイとは新人時代からの旧知の仲であり、人間好きではあるが霊界人と天秤にかけるような性格ではない事は熟知している。マトヴェイの人間好きは、あくまで人間がペットに抱く愛情の域を出ず、自分と入舸を同等のレベルで心配する事など性格上ありえなかったのだ。

 見透かされている事で、観念したとばかり、ため息交じりにマトヴェイが本音を告げる。

「最近特攻で欠員が相次いでね、アビゲイルと八恵やえのコンビを、うちから引き抜きたいらしい」

 通称特攻、中央管理局公安部特殊攻撃課。かつてヴィオとマトヴェイが在籍した、Sクラスや特Sクラスのソウル・ケージに対抗する精鋭部署であり、その特殊性も危険性もケージ・ブレイカーの死亡率の高さも重々承知している。お互い事情があり、現場を離れた身ではあるが他人事とは思えなかった。


「関東をどうする気?

 アビィと八恵が抜けたらAクラスが出たら、対抗できるコンビいないわよ。まさかその都度つど、よその課から応援を頼むとか言わないでよ、恥ずかしい」

「Aクラスなんて早々出ないさ」

「そういう話じゃないでしょ!」

「だからこそ、入舸君は大事に育てて欲しいと上からのお達しでね。一刻も早く東日本の次期エースが欲しいんだと思うよ」

「……勝手なもんね。大事に育てて、早々にAクラスに対抗できる実力が付くわけないじゃない。

 そんなに欲しけりゃ自分らで育てろっての!」

 苦々しげに吐きてる。特攻の面々ではなく、その上の中央管理局の連中へ対してのいきどおりだ。

「それが出来る者、ましてや数年という期間では、尚更人員は限られてくる……君のようにね」

「急に釈放されるから何かと思えば、やっぱりそんな事だったのね」

「くだらない事で、君を投獄しておくほど余裕がなくなったというわけだ」

 カランと氷の転がる音がする。ヴィオの細い指がトントンとテーブルを叩き、追加の合図をする。



 くだらない。本当にくだらない出来事でヴィオは投獄された。

 もっとも投獄とはいえ、極めて犯罪が稀な霊界において牢獄は存在しない。実際は年老いた者が眠りに着くための大樹のまゆと呼ばれる神聖な場所に、睡眠状態で軟禁されるだけであり、考えようによっては長い休養ともとれた。

 しかしヴィオはそのようには思わなかったし、思えるはずもなかった。


 ケージ・ブレイカーは基本的に庇護者の寿命を得るために戦う。つまり十分に庇護者の寿命を得たあとは自由の身になれるのだが、稀に何らかの理由や信念で、そのままケージ・ブレイカーとして戦い続けることを選ぶ者がいた。

 そしてそういった地上人の中から、長年の功績と人格、精神の純粋さを認められた者を厳選に厳選しつくした上で、霊界人として迎える事があった。

 なぜ地上人を忌み嫌う霊界人がそれを受け入れるのか。一つは心情的に、もはや霊界人と同等の価値観であるということを認められたからである。今一つは、幽体である彼らの、極めて高い戦闘能力を欲してであった。

 現に霊界最強とうたわれるマスター黄こと黄龍鴻ウォン・ロンフォンを初め、霊界の最重要部分のマグナ・マーテルへと続く最後の階段を護る門番の大半が、元地上人の昇天霊界人である。

 それだけではなく、ケージ・ブレイカーやケージ・ブレイカー見習いに訓練を施す指導官も、軒並み幽体の元地上人であった。

 彼らはすでに、現在の霊界にとって必須人材であったのだ。


 では、何故なにゆえに幽体と呼ばれる彼らは霊界人より個体性能が高いのか。そもそも幽体とは何か。

 幽体とは三次元と四次元の狭間に存在する、3.5次元の存在ともいうべき者たちだが、3次元にも四次元にも干渉出来る事は四次元人である霊体と変わらない。霊体と幽体を大きくへだてる特質は、どちらかも強い干渉を受けるという性質である。

 生身の生物と変わらぬように重力や自然現象の影響下にある幽体は、宙を舞うことは出来ない。その代わり、霊体では発揮できないほどの霊力の質量化が可能であった。それは彼らに強靭きょうじんな肉体と膂力りょりょく常軌じょうきを逸した回復力をもたらした。


 無論霊界人にも、それが可能な存在は居たが非常に稀であり、イレギュラーな存在に過ぎなかった。元来闘争に発展するまで争うという意識がない彼らが、そのように無意味な進化を遂げる理由がなかったためである。

 だからこそ、ソウル・ケージが発生したとき彼らは狼狽ろうばいし、試行錯誤しこうさくごの末ケージ・ブレイカーを生み出したのだ。

 危機がそこまで及んでも、自らが戦う方向で進化しなかった事からも、いかに彼らが闘争を忌み嫌うかが分かる。だからこそ平穏無事な世界が構築されているのではあるが。


 そんな彼らが厳選しつくした上で、同族と認めた者が数年で逐電ちくでんする事件がおこったのである。自力で浮遊できない昇天霊界人しょうてんれいかいじんが何かのはずみで浮遊大陸から落下してしまう事はなくはない。いかに強靭な彼らでも成層圏からダイブすれば絶命はまぬかれず、その死が確認されるはずである。だが死体は見つからず、それどころか同時にある女性霊界人も姿を消していた。

 それが事もあろうか、中央管理局のお偉いさんであり、状況的にどう考えても二人で仲良く地上へランデブーであった。

 ヴィオが投獄されたのは、その昇天霊界人を見出し育てたのがヴィオであり、深い中でもあった存在だからである。にも拘らず、その昇天霊界人は中央管理局のエリート中のエリートの別嬪さんと駆け落ちをしたのであった。

 ヴィオにしたら、いつからアイツと出来てやがったという憤りと二股かけられていた恥辱ちじょくと、自分を選ばなかった屈辱くつじょくの三重苦である。

 しかも駆け落ち相手の別嬪べっぴんさんにも婚約者が居たのだ。同じく中央管理局のお偉いさんであり、こちらも体面丸つぶれで、錯乱した彼は何故か同じ寝取られ勢同士傷を舐め合おうとばかりにヴィオに求婚を申し込んだ。

 自分とヴィオが先に出来てしまって、傷心のあまり二人は駆け落ち同然に下天したのだという体面を求めた。


 当然ヴィオは発狂寸前である。そもそもそのお偉いさんは大嫌いな男である上に、振られたら振られた、寝取られたら寝取られたで堂々と悪態をついて前を向いて生きていくタイプであり、当然求婚を突っぱねた。

 しかし、元々ヴィオの資質を高く買っていた中央管理局局長までもが、管理局の全体の面子を守れ、かつヴィオの中央赴任の道にも繋がると、中央管理局を上げてヴィオの婚姻を迫った。

 最終的に、管理局の面子のために好きでも何でもない男と、そんな惨めな取りつくろいをするくらいなら、自分も下天すると言い出して暴れるので、仕方なく投獄の処置をとったという話である。



 ダンッ!

 一気に中身を煽ったグラスを叩きつけるように置く。

「思い出したら、また腹が立ってきたわ……」

 だから話したくなかったんだと、マトヴェイは明後日の方向を見つめる。

「心配してるって……まさかアンタじゃなく、管理局のあのクソ野郎の言葉じゃないでしょうね?」

「……」

 沈黙は肯定である。

「……ひょっとしてよ、ひょっとして、まだあの話を諦めてないって事じゃないわよね?」

 一応トップシークレットである、事実消えた二人は未だ中央管理局に在籍扱いであり、事実は極少数の関係者以外には漏洩ろうえいしていない。

 双方にとって恥の塊のような珍事であるため、特定できる言葉や人物名を避けてヴィオは言葉を荒げた。

「それはない。その件に関しては、あちらもさすがに色々頭は冷えている。多分に職務上の話だ。いや、ひょっとしたら分からないが、少なくとも私はそういう風に聞かされた。確かに少し執拗しつように最近のヴィオの近況を聞かれた気がしないでもないが、多分、概ね、おそらく、大体は、職務上の質問だったはずだ」

「マスター、ボトルで!」

「いや、スプモーニを二杯」

 ジロリとヴィオがマトヴェイを睨む。勘弁してくれとばかりに、マトヴェイが眉を寄せた。

 考えてみれば、このマトヴェイも被害者である。当時同じ特攻勤務だったマトヴェイまでもが、何故か巻き込まれて降格処分を受け、現在の職場へ左遷されたのだ。マトヴェイ自身過去の部署に出戻りしただけであり、チーフのリゼットと良い仲になれたことから、それ自体気にはしていなかったが、ヴィオとしては若干の申し訳なさはある。

 まったく自分のせいではないが、多少の後ろめたさはあったため、マトヴェイが注文したカクテル、スプモーニに口をつけた。


「これって俗界からの逆輸入なのよねぇ。人間は色々と娯楽や嗜好品に関しては私たちより優れてるって思うことが多々あるわ」

 頭が冷えたヴィオは、バカバカしくなって話を逸らす。

「霊界では長らくソーマくらいしかお酒なんてなかったからね」

「まずくはないけど、高いのよねアレ。

 そもそも嗜好品じゃないし、よちよち歩きだった人類に教えを説いた神様もどきも、今や人間の知恵を逆輸入する立場だもんね……お酒に限らずにね」

「でも、未だ霊界人は人間を歯牙しがにもかけていない」

「その人類がいなきゃ、ろくにソウル・ケージに対抗も出来ないくせにね」

「人類がいなければ、ソウル・ケージも発生しないけれどね」

 事実であった。ソウル・ケージが過去に発生した事例では、必ず人と何かの想いが昇華された時にのみ生じていた。


「私は人類の凄さを認めていますよ。

 ラムにウィスキー、ジンにスコッチ、バーボンに日本酒、各種カクテル……

 どれも本当に素晴らしい発明です」

「確かに」

 マトヴェイが関心したように頷きながらスプモーニを味わう。

「そもそも我々霊界人が生み出した酒なんて、ビールとワインとソーマくらいですので。

 そのビールやワインですら、人間の偶然にヒントを得て作った上で、恩寵おんちょうとばかりに人類に製法を教えたわけですから……ドヤ顔で」

 グラスを磨きながら、にこやかにマスターが人類トリビアを披露ひろうした。

「ふふ、マスターらしい答えね」

「是正局の御用達の店ですから、人間好きじゃなければストレスが溜まってやっていけませんよ」

「確かに、よそじゃ人間の話題と言えば悪口ばかりだからね」

「実際愚かっちゃー愚かだからね……でも、その愚かさも悪くないわ。

 一生懸命に生きてる証でもあるから」

「……確かに霊界人は賢明に生きるという事はないからね」

「何でソウル・ケージなんて生まれたんでしょうね。

 二千年くらい前からだっけ?」

「さぁ何故だろうね……あるいは、一生懸命生きているからかも知れないね」

「……難儀なんぎな生き物ねぇ」

 煙草箱に手をかけ、最後の二本をお互いに配り、ゆったりと煙をくゆらせる。


「今回自分で始末しなかったのは、入舸君の教育のためかい?」

 これが本当のホントの本題かと、ヴィオの目に緊張が走る。

「それしかないでしょ。

 ……坊やは大分優しいからね、ケース7の結果逃がすことになるんじゃないかなって思ってたわ」

 case7、ソウル・ケージ対策マニュアルの第七項。

 ケージ・ブレイカーがソウル・ケージとの初戦闘において、霊核接触時における意識の逆流、同調の結果、同情や憐憫れんびん思考混濁しこうこんだくにより対象を取り逃がす事態。及びそれにおける是正局とケージ・ブレイカーの存在の露見ろけんと、それに付随ふずいして生じる次の問題に関する対応指南。


「ケース7発生後のソウル・ケージは、ほぼ間違いなく、なりふり構わない強化に走る」

「犠牲者が出るわね。

 ちまちまとした捕食じゃなく、大きく動く。

 4、5人一気に、ヘタすりゃ十人以上まとめて食い散らかすかもしれないわね。

 ……まぁ、いつ通り、所在が特定しやすくなるメリットもあるけどね」

「補足次第こちらで手を打とうか?

 エイラと健司けんじのコンビならすぐ動かせる」

「駄目よ、これは坊やにやらせなきゃいけない通過儀礼つうかぎれい。はしかみたいなもんよ」

「はしかにしては、ハードすぎるんじゃないかな。通常ケース7の後始末は先輩ケージ・ブレイカーが対応するのが常のはずだよ?

 これは上の意向は一切関係ない、私自身の本当の意見だ」

「……必要なのよ。

 坊やには自覚させた方がいいと判断したわ、その方が坊やは危機意識を持つ。

 下手な同情がより大きな惨劇さんげきを生むって理解させた方がいいのよ。

 そうすれば次はなくなる……優しいし責任感の強い子だからね」

「君がそう言うなら、そうなんだとは思うがね。

 ランクは一つ、へたすれば二つ近くあがると思うよ?」

「Eが二つあがってもCでしょ、坊やなら勝てるわ、断言する。

 マスター黄の修練を終えたっていう事はね、最低C、上手くすればBランク相当の実力があってもおかしくないのよ。

 それにいち早く成長して欲しいんでしょ、上の意向とやらでは」

「まぁそう言うと思っていたよ」

 やっぱり根に持たれたと、首をすくめ残ったカクテルを煽りきる。

「まぁ、正直ポーズだけでも、きちんと話を伝えなければならなかっただけだからね」

 くくっと例の零し笑いを漏らすと、ヴィオもニヤリと返す。

「では私が、スハノフさんがハルヨラさんにお灸をえた証人と言うことで」

 空いたカクテルグラスを下げ、新たに三つのグラスにいつものバーボン注がれる。

「……乗り越えなさいよ、坊や」

 ささやくようなヴィオの言葉に応じ、軽くグラスを合わせたあと、三人は一気にそれを飲み干した。

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