第4話「沖波入舸の事情」

 二階の窓のカーテンを抜け、半透明の影が現れる。入舸であった。

「……何を考えてるんだ、僕は」

 ベッドの端に腰を下ろし、頭を抱え深いため息をついた。頭を上げ、勉強机の上の置時計に目をやると、時刻は五時を少し回ったところだった。

「……眠った方がいいのかな」

 視線を枕の方に向ける。そこには実に安らかに、静かな寝息を立てて眠る自分の姿があった。

「人の気も知らずに呑気なもんだな」

 眠る自分に悪態をつく。

「まぁ、僕自身なんだけどね」

 入舸の言う通り、眠る身体は自身のものである。人格や魂も多重性はなく、完全に一個の自身としての沖波入舸おきは いるかその者であり、それに対して悪態をついていた。文字通りの自己嫌悪である。

 極めて滑稽な独り芝居を演じるくらいに参っていた、情けないと思う。

「……やっと始まったと思ったのに、僕はこの時から何も成長しちゃいないって言うのかよ」

 じっと自分の肉体を見つめる、我ながらあどけない顔だと思う。いや、あどけないというのも控え目なほど入舸の顔は幼かった。顔だけは無く、体も細く小さく頼りない。どう考えても高校一年生の男子には見えなかった。

 事実この時から成長していないと言った入舸の言葉通り、入舸の成長は子供の頃から止まっていたのだ。

 入舸がケージ・ブレイカーになると決めた小学五年生の時から、生身の入舸は微塵も成長していない。魂である精神体の成長に、全ての霊子(生命エネルギー)を注ぎこんできたからである。

 精神体の成長は経験に影響される事が大きい。人は年月に応じた体験の中で、失敗や成功、葛藤や苦悩、怒り、悲しみ、喜びなどを繰り返し、より強く深い精神を獲得していく。それが精神体の成長であり、そうして霊的肉体である精神体は強くなるのだ。

 

 沖波入舸には時間がなかった。一刻も早く成熟した精神体を必要とした。だから霊界の協力のもと、本来肉体に流れる霊子を遮断して、精神のみに与えることで成長を速めた。

 結果、精神体は強靭に育つ。人の倍以上の速度で育った精神体は、年齢的には24歳程度の成人男性に等しいものであった。

 反面、生身の肉体は子供のままであるが、この成長の止まった生身の肉体へのコンプレックスやストレスすらも、精神体の成長に役立ってはいたのだ。それがプラスであれマイナスであれ、心理に作用を及ぼせば及ぼすほど、精神体は成長する。

 だが、一般に言う精神的に強くなったという事ではない。あくまで精神体・霊的な肉体強度が強くなっていただけあり、入舸の人間的なメンタルは現在の年齢、高校一年生の、思い悩み精神的に不安定な思春期の子供のままであった。

 ガブリエッラが豆腐メンタルと称したのは、このいびつな成長を指してのことであった。


「しっかりしなきゃいけない、もっとしっかり……」

 そう呟くと、己の身体に無造作に身を投げる。

 ムクリ。先ほどまで死人のように眠ってい身体を起こし、立ち上がる。時刻を考えれば登校の時間までは余裕はあったが、眠りなおす気にはなれずに部屋を出た。

 向かった先は母親の寝室であった。母親を起こさぬように、そっと部屋に入り、気持ちよさそうに眠る母のベッドの横に、かしずくように膝を折る。

 母親は穏やかに眠っている。それを見るだけで入舸は胸が締め付けられ、潰れるほどの思慕を感じる。感極まって溢れそうな思いを押し殺し、壊れ物を扱うように両手でその手を取った。

 目を閉じる。何事かを念じるかのように、何事かを願うかのように。

 何事かを……思い出すために、あの時と同じように母の手を、その小さい手で包んだ。




 父の沖波湊おきは みなとは、入舸が小学校に上がった年に亡くなった。

 出張中、米国で銃に撃たれて死亡したと聞いた時は、まるで映画や漫画、あるいは父の作っていたゲームの中の出来事のようで、まるで実感がなかった。

 遺影を前に母は泣いていた。押し殺した声を堪えることが出来ず、呻くように泣き続けていた。母があれほど泣いた姿を見たことは、後にも先もない。父の死に対し、どこか実感のない自分であったが、その姿を見て父が死んだ事を自覚した。

 目の前がまっくらになり、体中から感覚がなくなっていくようで、堅く母と繋いだ手が、その温もりだけが壊れそうな心を支えた。

棺の上に飾られた父の遺影と目が合い、声が聴こえた気がした。

『佳保莉を……母さんを頼む』と。


 読経が一定のリズムを刻み続ける。母と手を繋いだまま参列者に向き直り一礼をした。

 前列に並ぶ祖父母や親類席のすぐ後ろ、そこに目が留まる。幼馴染の磯部美帆いそべ みほと、両親の親友であった磯部洋平いそべ ようへいの姿があった。

 美帆は父の洋平に頭を抱えられながら、泣きじゃくっていた。湊おじちゃん湊おじちゃんと、掠れた声で泣きじゃくっていた。

 この光景は前にも見た。二年前に美帆の母、なぎさがガンで亡くなった時だ。あの時は入舸も、大好きだった渚姉さんが死んで泣きじゃくった。

「パパは洋平おじさんなのに、どうしてママは渚姉さんって呼ぶの?」

 美帆の口癖だった。こんなどうでもいい事が何故か思い浮かぶ。

 参列者が焼香をあげるのを、父の位牌の前で迎える。きちんと父さんが天国逝けるように、みんなが最後の別れの挨拶をすのるのだと母や祖母が言っていた。

 では、いま自分は天国の入り口に立っているのだろうかと思う。死人の側から、生きてる人を見ているのかなと、本当に天国があるのかなと。


 磯部おじさんに手を引かれて来た美帆と、目が合った。

「い、い、いる…か……ちゃ…」

 言葉に出来ず、嗚咽を漏らす美帆に大丈夫と声をかけたかったが、口を開くことができなかった。

 少しでも口を開けば、みっともなく声を上げて泣き叫んでしまいそうだから。美帆にみっともない姿を見せるわけにはいかない、渚姉さんが亡くなった時、父の湊とした約束があるから。

『いつまでも泣いてないで強くなれ入舸。これからは、お前が美帆ちゃんを守ってやるんだぞ。

 男の子なんだから、女の子くらい守れなくてどうするんだ』

 あの時の父の声が、後ろから聴こえる。棺に入れられて、冷たくなった父から声がする。やはり、天国はあるんだと思った。


(強く、強くなるんだ。

 そうだ、だから僕は空手を習い始めたんだ、強い男にならないと守れないから。

 僕が、僕が母さんと美帆を守らないといけない。

 だって僕は男の子だから、母さんは大人でも、女の人だから。

 美帆はおじさんがいるけど、おじさんは仕事が忙しいから。

 男の子なら、女の子を守れるくらいじゃないといけないって、父さんが言ってたから。そう約束したんだから)

 おこりのように震える唇を抑えつつ、美帆にしっかりと頷きで返す。泣きじゃくっていた美帆だが、一生懸命それに応え、震える手で焼香をすます。


 美帆と洋平が、長い、長い別れを告げ、参列席に戻る。遠ざかる二人の後姿を見た時、本当に父が、沖波湊はもう還らないのだと諦めた。

 急激に視界がぐにゃぐにゃの水飴のようにぼやける。こらえていた涙が止めどなく溢れ、前が良くみえないのだ。

 しかし下は向かない。入舸は涙に塗れ、震える唇を必死に閉じて前を向いていた。強くあらねばならないと、生者の世界と向き合っていた。




 一年の時が流れ、小学二年に上がったばかりの春。父を失った悲しみも癒えぬまま、それは起こる。

 午前の三時限目、体育の授業中に教頭先生が現れ、そのまま教頭の車で病院に連れ向かった。横に不安そうな顔をした美帆が乗っていたことで、良くない事が起こったんじゃないかと思い始めた。

 体調を崩した母が、二日前から磯部総合病院に検査入院していたのは知っていた。心配で堪らなかったが、洋平が問題ない、何も心配するなと言った言葉を信じていた。

「検査なんて大袈裟すぎなのよ、PCもコンソールも何もないとか耐えられないー!」

 そう言いながらトランプやカードゲームで、入舸や美帆の三名で、わいわいと楽しそうに遊んでいたはずだ。変な事が起こることなど、あり得なかったはずだ。

「大丈夫、だよね、入舸ちゃん……

 だって、かほりん昨日も一緒にゲームしたし。全然元気だったし……」

 震える美帆の手を握る。小学校にあがってから人前で美帆と手を繋ぐ事はなくなっていた。周りの連中が「けっこんしきけっこんしき」とはやし立てるのがわずらわしかったからだ。だが、ルームミラー越しに教頭先生がこちらを見ているのを知った上で、久しぶりに他人の前で美帆の手を握った。

「なにもないよ。洋平おじさんが見ててくれるから心配すんなってば」

 少し上擦った声を美帆に気取られなかっただろうか。そんな事を考えながら、なるべく母の事を考えずに美帆の手をしっかりと握った。

 他に病院に呼び出される理由など、無いと分かっていたはずなのに。



筋萎縮性側索硬化症きんいしゅくせいそくさくこうかしょうと言ってね……難しい、とっても難しい病気なんだ」

 入舸と美帆に向かい合った洋平以外に誰も居ない静かな診察室。洋平はゆっくりと、その病名を口にしていた。

 入舸はその意味が解からなかった。言葉の意味も分からないが、この状況こそが理解できなかった。美帆は不安そうに入舸の服の袖を摘まんだまま、父の顔と入舸の顔を交互に見ている。


 医師、磯部洋平の表情は硬いままである。取り繕うべきか、正直に向き合うべきか。医師としてなら当然前者であった、まだ8歳の誕生日も迎えてもない子供たちに事実を伝える医師などいない。

 しかし洋平は口にした。理解するしないに拘わらず、すでに病名を口にしてしまった。入舸が患者の唯一の肉親だからではない、洋平自身が家族の一員として入舸に接していたからだ。

「きんさく……さく…かしょう?」

 美帆は病名を繰り返そうとしたが、長いし難しいしで、うまく病名を口にはできない。ただ、病名を口にした時の父の顔が、とても良くない顔だとは気づいていた。


 見覚えのある、よく知っている病院。美帆の父、磯辺おじさんの病院。二日前に来た時、自分に言った洋平の言葉を繰り返す。

「働きすぎだから、ちょっと疲れて倒れただけだよ。一杯食べてきちんと眠ればすぐよくなるよ……

 そう、言ったよね?」

 ビクリと美帆が反応する。強張った入舸の声が色んな事を思い起こさせるのだ。母が、湊おじさんが亡くなった時の事を連想させるのだ。

「……死んじゃうの?」

 辛うじてその言葉を飲み込んでいた入舸の横で、美帆が呟く。洋平は応とも否とも言わない。それが肯定を意味する沈黙であることは、幼い二人にも理解できた。


 な……治るんだよね、磯辺おじさん……!」

 自分でもびっくりするくらい、入舸の声は掠れ、上ずっていた。

「もちろん。もちろん治すつもりだよ、入舸。

 ただ……現代の医学では、お医者さんの世界では……まだ治してあげる方法が見つかって、いないんだ」

「なんだよそれ!」

 今度は自分でも、びっくりするくらいの大声だった。

「じ、じゃあ、おじさん以外のお医者さんに頼んでよ!

 日本で一番の……世界で一番のお医者さんに頼んでよ!

 母さんを助けてよ!」

 立ち上がった入舸が洋平の膝を揺する。呼応するように美帆も洋平に取りすがり叫ぶ。

「お願いパパ! パパはかほりんの一番のお友達って言ってたよ?

 酔っぱらうたたびに、入舸ちゃんとかほりんは家族だって自分で言ったんだから、だからかほりんを助けて……治してあげて!」

 決して泣くまいと唇噛みしめ震えを抑える入舸と、涙まみれでヒステリックに叫び、引きつけを起こしそうな美帆。洋平は溜まらず二人を抱きしめた。



 沖波家と磯部家はよくある仲の良いご近所さんでも、単なる友達付き合いの間柄でもなかった。

 沖波湊と磯部洋平は、小学生からの大親友であった。

 また、後に互いの妻になった舵田佳保莉かじた かほり潮妻渚しおづま なぎさも、互いを一生の友達と決めている二人であった。

 四人は中学校で出会い、湊と洋平、佳保莉と渚の双方が、親友になったきっかけが海に関する文字が氏にあるという事を知る。

 奇妙な縁を感じた四人は学生時代を通じて交流を深め、終生の大親友となった。

 四人の中で、一人だけ名前の方に海に関連する文字を持たない佳保莉が、子供には絶対海に関する名前をつけると宣言すれば、だったら私は佳保莉が仲間外れにならないように、子供には海と関連性の無い名前をつけると渚がかえす。

 湊が大学在学中に佳保莉を妊娠させてしまった時は、洋平と渚も同年に美帆が身籠るよう努力し、結婚式に至るまで四人の合同で挙式した。

 周りからは、さすがに引くとか、バカップル特盛、四人宗教入ってんじゃん等とネタにされたりもしたが、周囲も幸せそうな四人を祝福していた。

 沖波家と磯部家は親類縁者以上に家族であり、互いの伴侶を亡くしてからは、より深い本当の家族の間柄となっていたのだ。


 だからこそ洋平は、医師と患者の親族という立場で入舸に接する事はできなかった。せめて共に背負って行こうと思い、入舸に、美帆に、事実を伝えたのだ。

「……現代の医学では……だが…だけど必ず…」

 気がつけば嗚咽を漏らしていた。小学2年の子供二人を前に、医師としてあるまじき体たらくといえる。しかし涙を押さえる事ができない。

 一年前だ。わずか一年前に父を亡くしたばかりだ。その上母親まで奪おうとする現実に、こんな小さな少年が背負う過酷な運命に耐えきれなくなった。無力な自分が情けなく、申し訳なく、堪らなくなった。

「こわい……こわいよパパ、入舸ちゃん…

 ヤダよ、もう私こんなのヤダよ……」

「大丈夫、大丈夫だから美帆、入舸。佳保莉は必ず治してみせるから

「…ぐ……ふ…ぐ…ぜ……絶対だよ……

 お願い…だから、もうこれ以上……ヤダよ……父さんも…渚姉さんも……」

 入舸もそれ以上言葉を紡げず、洋平もまた、声を掛けてやる事が出来なかった。ただただ二人を、抱きしめてあげる事しかできなかった。




 三年を四人は過ごす事ができた。入舸と美帆が小学五年生にあがる頃には、進行性の麻痺が進んだ佳保莉は、寝たきりの状態となった。

 必死で研究し、必死で治療法を探ったが、もはや佳保莉の命は尽きようとしていた。

 入舸と美帆は毎日のように見舞いに来ている。湊の興したゲーム会社を継いだ佳保莉はビデオゲームが好きだった。だから部屋に色々なゲームを持ち込んで、三人で、時に四人で楽しく遊んだ。

 そのゲームすらも、今や佳保莉は参加する事も難しく、入舸と美帆が楽しそうにプレイする姿を見つめるのが唯一の楽しみとなっていた。それが解っていたから、二人は努めて楽しそうに遊んだ。泣きたくなりそうな気持を抑え、いつも笑顔で佳保莉の病室で毎日を過ごした。

 いつ終わるとも知れない、ささやかな幸福を噛みしめて日々を過ごしていたのだ。



「お、沖波君! 沖波入舸君、急いで病院に向かいなさい!」

 二学期が始まって一週間も経たない頃、授業中に駆け込んできた教頭先生が開口一番そう叫んだ。

 夏休み中はわりと元気だった母の容体が急変し、病院から迎えの車が来たのだ。

 脱兎の如く教室を飛び出す。視界に心配そうに入舸を見る学友の姿が入り、僕を心配する意味なんて何もないのにと、むやみに苛ついた。

「入舸ちゃん!」

 教室を出た瞬間、後ろから声が掛かる、美帆だ。目だけ合わせると、何も言わず美帆の手を引いて駆けた。美帆はもう涙まみれであった。

「かほりんが……かほりんが……」

 高学年になって、ぐっと大人びて冷静になった美帆が、子供の頃の気弱な美帆に戻り、それだけを繰り返し入舸に引きずられるように走る。もつれる足で懸命にはしった。

 入舸は、何も考えなかった。考えれば悪い想像しか出来ない気がしたから、何も考えようとはしなかった。ただ、繋いだ美帆の手が、葬儀の時に繋いだ母の手を連想させた。それが拭っても拭っても思い浮かんだ。

 何も、考えてはいけないのに。



「愛しているわ、入舸、美帆。

 ……二人をよろしくね、洋平」

 それが最後の言葉であった。

『ごめんなさい』

 そう唇が動いた気がしたが、すでに音はなかった。

 どのあたりから音がなかったのか?

 自分の泣き叫ぶ声も耳に届かず、泣き崩れている美帆の声も聴こえない。無音であった。

 ただ喉が焼けるように痛く、心臓が小さな小さな容器、まるでガチャガチャのカプセルにでもねじ込まれたように締め付けられている。繋いだ美帆の手が驚くほど冷たい。あるいは冷たいのは自身の手だろうか。

 残った手で繋いだ母の手は、不思議と温かかった。

 洋平は肩を震わせている。二人の子供と佳保莉を見つめ、静かに肩を震わせていた。音は、途絶えたままだった。



 どれくらいの時間泣いていたのかは覚えていない。美帆がショックと疲労で気を失う頃には、入舸は茫然自失ぼうぜんじしつとなっていた。ただ虚ろに母を見つめている。握った手にも、もう温もりは無い。

 美帆を連れて行く前に、洋平は入舸を抱き寄せ、頭を掻い撫でて呟いた。

『よく頑張ったね、最後に二人だけでお別れをしなさい』


 母親に付けられていた様々なチューブも、今はない。

 やつれてしまった母親は、今はもう、ただ眠っているだけのようである。

 穏やかに眠ってるだけで、事実眠っているのだと思われた。

 ずっと、ずっと眠るんだねって。ゆっくり眠ってくださいって、そう口にしようとした時に……ソレは現れた。


 ふいに俯いた頭の先で光を感じ、瞬時に部屋中に広がった光が視界を覆う。暗闇に灯りが見えた時のように、反射的に目を細めてしまう。

 にも拘わらず、刺すような感じではなく、どこか穏やかな光を感じて頭をもたげる。


 無数の羽が舞っていた。入舸の視界に入ったのは、舞い散る乳白色の羽。

 次いで放射状の光のような翼が目に入った。病室の窓を背に逆光を受けた白い大きな翼が瞳に映る。

 いや、すでに夕暮れを過ぎ、とうに陽は落ちている。逆光ではなく自らが放つ鮮烈な光の中にソレは居た。


「……てん…し」


 四枚の白く輝く大きな翼を背負い、白い光の中に在るソレは、天使としか思えなかった。

 たとえその姿が、黒地に白のストライプのスーツにサングラス姿であっても、気怠そうに咥えたばこに煙をなびかせていたとしても、その女性は天使であると確信出来るほどに、神々しく見えた。


「元気ないじゃない、坊や。何か嫌な事でもあった?」

 薄く笑い、ラベンダーの香りのする煙を吹きだしながら、その女は言葉を発した。

「な……に……? なん……なの……?」

 上手く言葉が出ない。状況が理解できない。ただ、夢であるのは解る。

 もし夢でないなら、神が母を天に迎えるために来たのであろう。

 にしては、あまりに天使らしからぬ装束であり、それが更に入舸を混乱させた。

「少しお話しましょうか。

 あぁ、ここ病院だったわね。まぁ霊界の物質が俗界にに影響は与えないんだけど、人間ってそういうのわりと気にするしね……」

 天使のような女は無造作に煙草をブーツの裏でもみ消し、吸い殻を上着のポケットにねじ込む。

 煙草を吸う人間が周りにいない入舸にも、少なくともポケットが灰皿でない事は理解できた。病室で煙草を吸うとかそういうこと以前の、もっと前の部分でダメな大人の有り様を見て、思わず注意の言葉が出かかったタイミングで、天使は言葉を被せた。

「とりあえず、肉声が漏れると面倒だから」

 女はそう言い放つと同時に、引き金を引いた。

 いつの間にか構えていた大ぶりのリボルバーの銃口から放たれた弾丸は、迷うことなく入舸の眉間を撃ち抜く。


「―――っ!!」

 全てが解からなかった。何が起きているのかも、何故そうなったのかも、そもそも夢か現実かすら分からぬまま撃たれ、後方へ弾き飛ばさる。

「うあ……あああああっ!

 うた…撃たれた……ぼく、僕ッ!」

 大声で悲鳴をあげ、とっさに額に手をやるが、傷の感触は無い。

 そもそも痛みはあったものの、痛烈なデコピンをされた程度の痛みしかなく、血の感触もなかった。

 何より視界に入った存在が、痛みを吹き飛ばしていた。


「僕が……居る?」

 目の前には母のベッドに突っ伏した自分がおり、母に口づけをしようとする妙な天使の姿が見えた。


「なんなの……何してる…の?」

「生き還らせんのよ」

 天使はカップ麺でも作るかのように、事も無げに、無造作に言い放ち口づけをする。

 同時に母の頬に添えた右手の甲に魔法陣のような文様が浮かび、乳白色の四枚翼が光を放出しながら、一枚ずつ菫色に染まっていく。

「なんなの……なんでこんな夢見てるの?」

 あまりに非現実的な光景に茫然とする他はなく、母親を生き還らせると言ったその言動にすら気づいていなかった。

 ただただ、意味が分からない。何が起こっているのかが解らなかった。視界に映る情景と脳に伝わった情報が、うまくリンク出来ていない。


 目を、みはった。

 脳は何も理解していないが、その情景は入舸を覚醒させるに十分な衝撃を与えた。

 母の胸が上気している。胸が、呼吸の様相を見せていた。

「う……あ……・・あ・ああ・・あ・あ・」


***《挿絵no8天使の口づけ》http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769876


 言葉が出ない。

 天使の四枚の翼が完全に菫色に染まり、口づけを終える。入舸は母が生き返ったことを理解し、声をあげていた。

「かみ…さ……ま」

 涙が頬を伝う。すでに一生分の涙を流し、もう何も出る事はないと思っていた涙が穏やかに頬を濡らす。先ほどまでとは違う、暖かい涙が。


「神様じゃあないわね。どっちかって言うと、死神の方かしらね」

 天使はサングラスを外し、面白い物でも見るように入舸を見つめながらそう言った。

「死に……神?」

 その言葉にぞっとする。すでに夢であるかどうかすら関係なく、眼前の天使が母を生き還らせた事実すら吹き飛び、体が跳躍していた。

 自分でも信じられないほどの跳躍で、身を預けるように頭から突っ込み、天使に取り付く。

 天使の方も予測しない動きに反応が後れ、腹部でもろにタックルを受ける。

「うぼ――っ!」

 天使は、我ながら何とみっともない声を出してしまったのかという羞恥と痛みで反応が更に遅れ、入舸の鯖折さばおりのような拘束を許す。

「連れてかないで!!」

 ギリギリと締め上げる膂力りょりょくは、小学五年生のものとは思えないほどであり、数十秒あれば天使の背骨をへし折るであろう。

(な……なんて力――こ、この子やっぱり大当たりか!)

「だ……誰が坊やの母親を助けたと思ってんのよ!」

 頭を押しやりながら叫ぶ天使の声に我を取り戻し、両腕を緩め顔を上げる。

「いたいんですけど?」

 苦痛に歪む満面の笑みという高度な表情の天使の顔が見え、咄嗟に拘束を解く。

「ご……ゴメンナサイ!

 ち、違うんです、でも死神だって言うから……それで僕……!」

 ゴホゴホと、むせかえる天使は、入舸の頭にゲンコツを落とす。

「あう!」

「あ、アンタねぇ、死んだらどうするのよ!

 生霊と霊体じゃ質量が違うんだから加減をしなさいよ、加減を!」

「???」

 頭をさすりながら、意味不明な天使の抗議を聞く。頭をさすってはいるものの、条件反射の行為であり、実際の痛みはゲンコツの勢いほどはない。


「……ふぅ、まあいいわ。色々意味不だろうしね。

 子供のいたずらって事で見逃してあげるわ」

 一息ついた天使は閉まったままの窓のふちに腰を下ろす。窓から腰とお尻が擦り抜けているのに窓のサッシに腰をかけている。明らかに異常な光景に入舸は思わず口を開いた。

「す……透けてる?

 お、お姉さんは…お化けなんですか?」

「天使って言ったり、お化けって言ったり忙しい子ね」

 可笑しそうに笑い、閉まったままの窓から顔を外に出し天使は煙草に火をつけた。

 「びょ、病院は禁煙……ですけ、ど……」

 頭は外に出ているからいいのか。いや、そういう問題でもないような気がするがと、入舸がパニックになっているところに声がかかる。

「まぁ、幽霊って言うのは半分辺りよ。

 って言うか、あんたも今そうでしょ?」

 急に真面目な顔でそう言われ、入舸はようやく自分の躰が母のベッドの縁に、めり込んでいることに気づいた。

「な……え? あれ?」

 咄嗟に前を隠ししゃがみ込む。冷静になって気づいたが、今の自分は素っ裸だったのだ。恥ずかしくて堪らないが、事の異常性に気づき、今更ながら何が起こっているのか確認すべきだと身を正す。


「……何が、起こったんですか?

 天使のお姉さんが、お母さんを生き返らせてくれたのは分かります。

 でも、これは本当ですか、夢なんですか?」

 一番重要な事はそこだ。母の安否、それ以上に重要なことは何もない。

「現実よ。それと私は別に天使……って言うか、神様的な何かじゃないわ。

 私は霊界人。天人とも言うけれど、まぁアレね、外人みたいなものよ」

 天使は吸い殻を、また無造作にポケットにねじ込み病室に顔を戻す。フワリ、と、ラベンダーの香りが漂った。

「……外人?」

 確かに日本人には見えない。褐色の肌に雪のような髪とまつ毛、はっきりしとした顔立ちはハリウッドスターも顔負けの美形である。煙草を病室で吸わない気遣いはするのにポケットに捨てるのも、外国では普通なのかもしれない。素っ頓狂なことを考えながら入舸は疑問を口にしていく。


「羽……生えてる。

 あと、何か手とか羽がピカって……それで母さんも生き還って……

 後……何でキスしたんですか?

 外人は挨拶でキスするって言うけど、女同士なのに口は変だって思う」

「外人ってのは便宜上べんぎじょうよ、便宜上!

 天使とか天人とか言うと、あんたら人間はすぐ神様とかって、何か無条件で人間の味方をしてくれる心優しい存在にしちゃうでしょ。

 だから、そんな甘いもんじゃないって言うことと、もっと俗っぽい、利害や何かを持った別の種族って言うのをはっきりさせたかったわけ。

 あと、キスって言うか儀式よ儀式。

 霊力の補給や魂の契約は口づけでないと行えないの。大体あんたら人間でも救命行動とかで人工呼吸するでしょ、それと同じよ。分かった?」

「……ごめんなさい。全然分かんないです」

 解らないが、魂の契約と言う言葉が気にかかった。その言葉はどちらかと言えば、悪魔的な契約を連想させるからだ。それにこの天使は先ほど自ら死神と口にした、そんな悪しき感覚はまるでしないが、捨て置くには気になりすぎるのも事実である。

「た、魂の契約って?」

「文字通り坊やの母親の魂と霊界で、契約で結んだのよ」

 飄々ひょうひょうとしていた天使の顔が、真面目なものになる。

「……担当直入に言うわ、沖波要鹿君。あなたにはこれから私達、霊界のために働いて欲しいのよ」

「……え、は、働く? ……霊界??」

「そして、あなたは多分この申し出を断らない。いえ、断れないわ」

 一旦そこで言葉を区切った後、天使は入舸の運命を変える言葉を口にした。


「何故なら報酬は、寿だから」


***《挿絵no9抗えぬ対価》http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769881



 母親の寿命。その言葉が耳に突き刺ささる。

 未だ目の前の、天使にしか見えない自称外国人の言うことが理解は出来ていない。

 しかし寿命と言う言葉が、はっきりと自分の母親が先ほどまで死んでいたという事実を再確認させ、入舸に再び緊張感をもたらした。


「どういう…事ですか?

 母さんは生き還ったんじゃ、生き還らせてくれたんじゃないんですか!?」

「当座の処置よ。あなたの母親に与えた霊力…寿命は三年分。

 あなたが、こちらの申し出を断れば追加の補充はないし、そもそも手付の三年分も回収して帰るわ」

「――な、なんで!!」

「だから言ったはずよ、天使でも神様じゃないって」

「……っ!!」

「そもそも、ただの善意で人を生き還らせるような存在が居るなら、誰も不幸な死に見舞われるわけがないじゃない」

「……は…い」

 理解した。目の前の超常的存在が、決して神のような者ではないと。同時にあるいは悪魔と呼ばれる存在なのかもと考える。

「言っとくけど、悪魔とかそんなんでもないわよ」

 見透かされたことに若干のバツの悪さを感じ目を逸らすが、頭を鷲掴わしづかみにされ強制的に視線を合わされたまま続ける。

「あくまで私達は霊界人。

 地上……自然界とはずれ次元の…まぁ、異世界人よ」

 正直意味が解らないが、ライトノベルやアニメのような話だと強制的に自分を納得させ、今一つの疑問を口にする。

「ぼ、僕に何が出来るんですか、働くって何ですか?」

 問題はそれであった。覚悟はとうに出来ている、この女性の言う通り入舸に断る選択肢はない。

 母が行き還るなら、この先も生き続けていけるのならば何でもしようと思う。たとえ代わりにお前の魂をよこせと言われたとしても、入舸は喜んで差し出したであろう。


「戦って、貰うのよ」

「た、戦う……?

 僕が空手をやってるから?」

「そういう事じゃないわよバカ。

 何て言うのかなぁ……質量の差?

 霊界人と、人間…正確には霊界人と生霊ね。その二つには埋めきれないほどの質量、生命エネルギーみたいなものの差があるのよ。

 現に、さっきあなたが私にタックルかませしてくれた時、尋常じんじょうでない力で締め上げたの覚えてる?」

 言われて思い出す。確かに無我夢中ではあったが、女性とはいえ大人を締め上げて行動を奪うなどということは、普通ではない。

 そもそも一足飛びでベッドの向こうの相手に取り付いた瞬発力も、いま思えば有り得ないものであった。


「肉体のくびきを捨てた霊体、生霊と言うのは膨大なエネルギーの塊なの。

 生体を言う重りを拭い去り、俗界……人間の世界とでも言うか、物質世界って言うのか……

 とにかく人間が月に行った時、重力差でかるく跳んだだけで数メートルも跳ね上がったりするじゃない。ああいう状態になるのよね。

 今の状態のあなたでも、人間的に言えば握力300kg、垂直跳び5メートル、パンチでレンガの壁をぶち抜けるくらいの存在なのよ」

「………」

 まるで信じられない。それではまるで特撮の変身ヒーローだ。試しに自分の拳を握り込んでみるが、別段普段と変わった気もしない。その様子を見てため息を一つ零した天使は、何かを探し始める。やがて棚の引き出しから母の財布を発見し、中から五百円硬貨を取り出し入舸に手渡した。

「指で握り潰しなさい」

 勝手に人様の財布を荒らすのもどうかと思うが、それ以前にそんな事が出来るわけないと思いながら、言う通りに指でつまみ力を入れた。

「―――え?」

 グニャリ。まるで水飴のように入舸の指は五百円硬貨を挟み潰した。

「な……なんなの、これ?」

「それが純粋な霊子の塊……エネルギー体となった坊やの力なのよ。

 肉体の維持にはそれほどの霊力が必要で、私たちにはそれが無い。

 純粋な霊体である私たちは、あんたたち三次元生命体ほどのエネルギーを必要としないから、そこまで無駄にエネルギッシュじゃないって話なのよ、お解り?」

「まだ……よくは分からないけど、この状態の僕が、おかしいくらいの力持ちだって事は解る…解ります」

「私たちがもろいのも分かるわよね?

 ついさっき、いい大人の私が、小学五年生の坊やに絞め殺されそうになってたわけだから」

「そ、それはっ!

 ……いえ、ごめんなさい」

 天使は嬉しそうに微笑む。彼女は入舸の性根が美しいものだと再確認し、やはり自分の目に間違いはなかったと独りごちていた。

「坊や、あなたには、あなたと同じ生き霊の相手をして貰いたいのよ」

 未だ話は見えない、理解しきれない。ただ、相手が自分に何を望んでいるかは解かった。

「僕に……出来るかな?」

「出来なきゃ、やんないの?」

「――ッ! や、やるよ!

 だって……母さんの寿命をくれるんでしょ!?

 だったら、何だってやってやるよ!」

(何だって……なんて、軽々しく言うもんじゃないけどね。

 まぁ、追い込んでる私達が言うのもアレだけどさ……)

 一瞬寂しそうな顔を浮かべるが、打ち消すように不遜ふそんな笑みを浮かべた天使は入舸の顎を引き寄せる。

「……え? な、なに……?」

(顔が近い……これってまさか……!?)

「じっとしていなさい、儀式よ儀式。別に人間相手じゃないからノーカンよ」


 待って。そう言う間もなく唇が重なる。

 何かが口づけを通し流し込まれる感じがした。息のような、液体のような、何とも言えない何かがのどを通り、胸のあたりに流し込まれ、弾け、体中を奔る。

 熱い、刺激をともなうような熱さを感じるが不快さはない。むしろどこか心地よささえ感じる何かが躰を覆い尽くした。


「――ぷぁっ!」

 唇が離れ、とっさに声が漏れる。長かったのか、一瞬だったのか、息苦しさから声が漏れるほどだから、おそらくはかなりの時間の口づけであったのであろう。

「な、ななな……何でいきなりキス!?」

「だからキスじゃないって、儀式よ儀式。契約の証よ」

「そ、そんなこと言っても……」

「大事な事なの。さっきも言った通り私達霊体は脆い。

 反面あなた達生霊は強靭きょうじんよ。万一にも反抗されたら、私の命に関わんのよ」

「そ、それとキスに何の関係があんのさ!」

 んーと、悩むような表情で頭をきながら言葉を選び、告げる。

「呪いよ、呪い。

 まぁ、あんたら人間的に言えば……だけどね」

「の――呪……!」

「別に躰に害はないわよ。少し私の霊体とリンクさせて思考や行動に制限をかけたみたいな?

 あなたが私に害をなそうとしても、躰はそれに応じようとしないとか、霊界に関する情報を口にしようとしても言葉がでないとか……

 何らかの不運で私が死んだ場合、坊やも死んじゃうみたいな?

 そういう色々を魂の情報を書き換えて、処理したのよ、部分的な魂の共有みたいな?」

「……え?」

「つまり坊やと私は、理不尽な一心同体になったってこと」

「……僕が死んでも、お姉さんは死ぬの?」

「死ぬわけないじゃん」

(それって、一心同体じゃないんじゃ……?)

「だから理不尽なって言ったでしょ?」

 入舸はぎょっとする。魂の共有ってそういうことかと判断する。

「あ、別に心とか読めないわよ、坊やが顔に出すぎなのよ」

 慌てて自分の顔を隠すように撫でる。不意に指先が唇に触れ、先の感触を思い出してしまう。そう言えば初めてだったと、赤面しながら言葉を漏らす。

「……ただのキスで?」

「だからキスじゃないっつってんでしょ。

 子供があんまキスキス言ってんじゃないわよ、何かこっちまで恥ずかしくなってきたじゃない!」

「そ、そんなこと言っても、僕も初めてだったし、大体何か変だよ!」

「っるさいわねー!

 変もクソも、死人が行き還ってる時点で十分変でしょ!

 大体あんた今幽体離脱してんのに、キスくらいでパニくってんじゃないわよ!

 童貞奪われたわけでもないのに!」

「ど――!!!?」

 流石に小学五年生ともなれば、相応の性的知識はある。一瞬そういう事を想像してしまい、入舸は真っ赤になりながら反論した。

「な、名前も知らない人と、そんな事しないよ!」

「……ほぅ。つまり名前を知ってたら、お姉さんで筆を降ろすのもやぶさかじゃない宣言ってこと?」

「そ、そんなこと言ってないし、って言うか名前、名前聞いてないし!

 大人なら普通名乗るでしょ、名前くらい教えてよ!」


 くっくと小ばかにしたように笑いながら、女性は応える。

「ヴィオよ。

 ヴァイオレット・ハルヨラで、通称ヴぃオ。

 人払いの結界をほどこしてるとはいえ、あんま時間を取るのもあれだから、今日はこれで帰るわ」

「――え?」

「詳しい事は、明日の夜にでも坊やの部屋で教えてあげるわ……

 手取り足取り、ね」

「な……っ!!」

「あー。あと、母親に触れる時は生身に戻りなさいよ、バチってして弾かれるからね。

 身体に戻る時は、重なってこれは自分の身体だって強く念じればいいから」

 そう言い残しヴィオは窓の外へ身を乗り出す。

「ちょっと待ってよ、ヴィオ!」

「何よ?」

 まだ聞きたいことは山ほどあった。しかしそれは明日に聞けばいいかとも思うし、何より入舸自身も色々ありすぎて疲れ果てていた。だから重要なことだけを最後に告げる。

「……これから、よろしくお願いします。

 僕、頑張るから。絶対頑張るから!」

「……顔真っ赤よ?」

 いたずらっぽく微笑み、気が付かなかったが多分初めからそこにあった浮遊している大型のバイクに乗り、ヴィオは飛び去った。

 何もかもが、非現実的な光景、不可思議な時間であった。



 言われた通りにすると、すんなり自分の身体に戻れた。

 母の手を取る。暖かい。確かな血の流れを感じ、また涙が流れる。

 未だに何が起こったのか解からない。ただ、傍らに眠る母親は規則的な呼吸を繰り返している。生きている、確かに母は生き還っていた。

 夢だとは思いたくない、夢であって欲しくはない。まるで漫画やアニメの出来事のようだが、現実であって欲しい。そう思った時、ふいに鼻腔に、舌に、ラベンダーの香りを感じた。

 病室にあの煙草の匂いはしない、霊界の物質は現実世界には干渉しないと言った。事実そうなのであろう、舞い散っていたはずの羽ですら跡形あとかたもない。

 しかし、はっきりと残るそれが現実であると認識させてくれた。夢ではないと、入舸に教えてくれた。

「……美帆にバレたら絶対からかわれるな」

 誰に聞かせるでもない言い訳めいた言葉が口を突いて出る。


 今一度しっかり母を見据みすえ、手を取りつぶやく。

「……僕が、必ず護ってみせるから」

 母の手を強く握り、入舸は独り誓いを立てた。




「ん……むぅ…いるぅかあ……愛してるぞぉ…」

 母の寝言で目を開く、安らかな寝顔がそこにあった。

 治療が不可能と言われた病ですら、ヴィオ達は治してくれた。関係者は記憶改竄きおくかいざんを施されて、母は危篤きとく状態から奇跡的に自然治癒したと言うことになっていた。磯部おじさんは理解不能な現象に納得はしていなかったが、佳保莉の回復自体には心から歓迎し、満足していた。

 今ここに眠る母は、文字通り健康そのもであった。その寿命が仮初かりそめのものであるということ以外は。

「そうだ……僕が護らなきゃ……」

 41日と3時間15分、ヴィオはそう言った。すでに41日と2時間強だろう。どれほど健康体であろうと、佳保莉の命はそれだけしか残されていない。

 あの日以来五年間、色々な事を学んだ。霊界の事も、人間界の事も、輪廻転生というものが存在し、霊界人がそれを管理する人々だということも。


「ソウル・ケージ……」

 呟く。いや、正確には言葉にはなってはいない、その文字列を声にすることは可能だが、明確に意味を自覚した上で、霊界の情報に関する言葉を口にはできない。

 ソウル・ケージと呼ばれる存在、それは正常な輪廻転生を乱す者。霊界人にとって輪廻転生を阻害そがいされることは、許されざる事ではないらしい。座学で事情は説明されたが入舸にとってはどうでもよかった、重要な事は報酬が母の寿命であるということ。

 そして、仕事を果たさない役立たずと見做みはなされたのなら、霊界は容赦ようしゃなく佳保莉の命を見捨てるということを、入舸は嫌というほど理解していた。


(ターゲットのソウル・ケージはランクE。720時間の報酬だけど、五年分の霊子の返済があるから、半分の360時間の寿命しか与えられない……)

「たった15日しか稼げないっていうのに……僕は何で……」

 握った手に力がこもり、佳保莉が少し声を上げた。慌ててその手を布団に戻し、起こさないように寝室を出る。

「……次は、躊躇ちゅうちょなく殺す」

 えてきつい言葉を口に、入舸は決意を固める。

 そうしなければいけないほど、入舸という少年は幼く、優し過ぎた。



 7時15分。7時に合わせた目覚ましが鳴りやんでから、母が起きてくる時間。その間にトースターに食パンを放り込み、コーヒーメーカーのスイッチを入れ、スクランブルエッグとソーセジを炒め、果物を刻み込んだヨーグルトを用意する。

 母が洗顔を済ませて席に着く頃には、カウンターテーブルに朝食が並べられている。


***《挿絵no10母子空間》http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769885


「いただきまーす。あれ、今日はソーセージなのね」

 「ベーコン切れてたし、お歳暮で貰った奴の残りだよ。冷凍しててもさすがにそろそろ使いきらないとね」

晩酌ばんしゃく用にとっておいたのに……」

「いっつもそんなこと言って、缶詰や乾きものとかチーズなんかもあふれかえってるじゃん。缶詰はともかく、他は賞味期限切れる前食べてよ」

「いや、でも、何だかんだで入舸おつまみが作ってくれるから、入舸が悪い!」

 だったら衝動的に通販サイトで購入するのを止めろと言いたい。飽きれた顔で佳保莉をにらむが、佳保莉は空々そらぞらしく気づかぬふりをして、タブレット端末に逃げ込む。

「そんな事より、またタブレット。ご飯の時はヤメなよって言ってるじゃん!」

「そう言うけどだってホラ、このゲーム個人製作なのに100万本だって凄くない!

 いや、ヤバいでしょ、だってこれドットだよ!?」

「確かに凄いけど、何もヤバくないし行儀ぎょうぎ悪いから」

「……入舸だって、立って食べてるじゃん」

「こっちに椅子置いたらテーブルに届かないし」

 確かにカウンターテーブルの下に足を入れるような空間はない。そもそもキッチン側の人間が食事を採るように出来てはいないので当然のことだ。

「だったら、隣で食べればいーじゃない。リビングのテーブルで食べればいーじゃない」

「ヤだよ、ただでさえ朝は忙しいのに、そんな面倒なことしてらんないから」

「何も面倒くさくないし、行儀悪いわよ」

 先ほどの仕返しとばかりに、ニヤけながらフォークを突き付ける。

「……だったら母さんが朝つくれば?」

「……ゴメンなさい」

 沖波家では小学五年生の頃から入舸が食事を担当していた。佳保莉が入院するまでは外食中心の生活であったが、退院してからは仕事が忙しい佳保莉に代わり、空手教室を辞めた入舸が家事を受け持つようになっていたのだ。

 ケージ・ブレイカーとなった入舸にとって空手教室に意味は無く、母と過ごす家族の時間を優先したからである。佳保莉もまた、入舸が好きなことを辞めるのことは心苦しかったが、それ以上に入舸と関わる時間の心地よさに甘えていたのであった。

「分かればいいよ。それより今日も遅いの?」

「んー、マスターアップ近いからねぇ。

 でもきちんと帰って来るわよ、入舸のご飯だけが母さんの生きがいだから!」

「はいはい。で、今日は何が食べたいの?」

「エビフラぁ~イ!」

「……子供かよ」

「いやいや、エビフライは大人の料理よ!

 にも拘わらず、外で食べるとちょっと恥ずかしい禁断の料理!

 だからこそ、お家でしか味わえない至高のメニューなのよ!」

「何一つ意味が解かんないけど、分かったよ」

「や~りぃ、入舸愛してるー、ちゅっちゅ」

 入舸を抱き寄せ頬に口づけの雨を降らす。

「や、やめてよマジで!

 赤ちゃんじゃないんだから、いい加減、子離れしなよ母さんはっ!」

「酷い!

 たった二人の親子なのに、入舸は母さんを捨てちゃうんだ……」

 悪ノリなのは分かっている。しかし、この言葉を持ち出されると入舸は抵抗できない。

「分かったから早く食べなよ、冷めちゃうから」

 おざなりに対応してみせるが、入舸はこの時間がたまらなく好きであった。今、この瞬間を過ごせることが、いかに奇跡であるかを自覚していたから。


 朝食を終え、鞄を担ぎ、靴を履く。

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃ~い、愛してるぞー入舸ぁ」

 ドアを開け、玄関を出る時にリビングから声が掛かる。

「恥ずかしいから、それ止めてって言ってるでしょ!」

 乱暴にドアを閉め、向き直ると飽きれた表情をした少女がたたずんでいた。

「相変わらずラブラブ親子ですこと」

「……おはよう、美帆」

「スルー! 朝から、圧倒的スルーはないんじゃない?」

「毎日言ってない、それ」

 入舸の仏頂面ぶっちょうづらにクスクスと含み笑いで応え、並行して廊下を歩く。

「入舸んが、毎朝同じことしてるからでしょ。まぁ、かほりん子離れ出来ない駄目な大人だからね」

「まったくだよ」

「入舸も世界ランカー並みのマザコンだけどね」

「そんな世界ランク無いし、マザコンでもない」

「自覚なし! こわいわー。マザコンマジコワイワー」

「朝から喧嘩売ってんの?

 ……って言うか、今日は晩御飯どうすんの?」

「食べる」

「美帆じゃなくて、おじさんの方」

「知らぬ!」

「……まぁ、一応用意しておくよ」

 互いに片親同士の幼馴染。特に美帆の父の洋平は職務柄多忙なため、美帆は沖波宅で夕食を採ることが多い。幼い頃は美帆を交え外食が主だったが、佳保莉が闘病生活に入った辺りから、美帆と入舸は二人で自炊を始めるようになったのである。

 祖父母が入舸を引き取るという話もあったが、入舸が両親と暮らした家から離れたがらず、両親の親友で主治医の洋平が保護者代わりになるという事もあり、両家の関係は変わることなく続いていた。

 いや、正確には少し変わった。中学生の頃から、学校で夕食の確認を取り合う二人を学友たちが夫婦などと茶化しだし、朝のこの時間に意思確認を行うのが二人の暗黙の了解となっていた。


 マンションのロビーを出て数分すると、後ろから乱暴に入舸の肩が叩かれる。

「おっす! 今日も相変わらず、ちっせーな!」

「そんな急に伸びるかよ」

 挨拶してきた同級生の脇に肘を喰らわせるが、きっちりガードされる。

「そんな攻撃では俺は倒せん!」

「……相変わらずの、小学生ね修兵しゅうへいは」

 嘉藤修平かとうしゅうへい。入舸や美帆と同じ私立飛鳥路学園あすかじがくえんに通う高校一年生で、二人とは小学生からの幼馴染である。

 とくに入舸とは、小学一年の頃から同じ空手教室で技を競い合った良きライバルであった。


「しっかし、何で伸びねーんだろな、空手辞めたからじゃねーの?」

「空手で背が伸びるわけないじゃん。

 って言うか、そのうち伸びるし。今に修兵よりずっと伸びるから、身長180超えのムキムキマッチョマンになるから」

 美帆と修兵はボディビルダーの体の上に、現在の入舸の顔を乗せて想像して見る。

「入舸がムキムキマッチョマン……ぷぷ」

「ありえねー、バランスおかしすぎんだろ!」

 二人が入舸を挟み大笑いする。むっとした入舸が修兵にフェイントを交えた蹴りを放ち、すねを捕える。

「痛ぇ!

 っつーか、お前今のマジ入ってただろ、空手を暴力に使ってはいけません!」

「ダサいおび持ちだね。そんなんでレギュラー取れんの?」

「いやいや、楽勝だから。俺未来のエースだから」

 朝からじゃれ合う二人を満足げに堪能しながら美帆が呟く。

「朝から男同士のむつみ愛……ありがとうございます」

「睦み合ってないから!」

 くっと眼鏡を持ち上げながら含んだ笑みを漏らす美帆に、抗議する。

「相変わらず、朝から腐ってんな美帆は」

「私が腐ってるわけじゃないわ、世の中が腐っているの。時代が全ての女子を腐らせているのよ」

 男性人二人の冷たい視線を浴び、恍惚とした表情を浮かべる。


「相変わらず、朝から仲いーね美帆たちは」

 後ろから笑いながら近づいた同級生が声を掛ける。学園が近づくにつれ通学生の数が増え挨拶が交わされ、馬鹿笑いが生じる。

 いつもと変わらない日常の始まり。学校に通い、友人と馬鹿話をし、つまらない授業に愚痴ぐちを零し、時にささいな喧嘩をする。

 繰り返される日々を、そんな何気ない日常にたまらなく幸せを感じる。

 薄氷をへだてたその下に、誰にも言えない過酷で残酷な現実があったから、それを自覚していたからこそ、普通の学生として、普通の人間として過ごせる時間を何よりも大事にしていた。

 出来得るならば、ずっとこのままの平穏が続けばいいと、入舸は心から願った。


***《挿絵no11薄氷下の日常》seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769887


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