第2話「守護者となりて」
夏の気配が近づき、草の匂いが強くなる日を境にして、家族が居なくなった。
昨夜車で出かけたのは知っている、こんな時間にでかけるのかと
翌日の昼を過ぎても家族は戻らず、代わりに見知らぬ男たちが家を訪れ始めた。無論、その全てを追い払った。それが自分の仕事だからと唸りをあげ、吠え散らし、家の門に近づく者を追いやった。夜には家族も帰るとこの時は思っていたのだから、留守を預かる身としては当然の行ためであった。
二日経ち、戻らぬのかも知れないと思い始める。今までも旅行だなんだと数日家を空ける事はあった。その時は決まって、不要なほどの餌を用意していったはずだ。確かに夫人には好かれていないのは知っていたが、それでも餌を与えないような非情な人ではなかった。
ふと見れば、先日も現れた二人組が、庭の門の前から様子を伺がっている。性懲りもなく敷地に踏み入ろうと言うのか、不安もあり、むしゃくしゃしていたところだ。正直、人に対して吠えたり唸ったり、ましてや噛みつくなど好きではなかったが(実際噛みついたことなどない)、今日は自発的にそんな気分になった。
「ガウガウガウ!」
狂ったように門に駆け寄り、吠えたてる。これをすると主人は大喜びした。何が面白いのか解らないが、とにかく主人は恐怖に怯える人を見るのが好きであった。
「ひ、うわぁああ、また来やがった!」
「分かってる、早く投げろ!」
私が近づくと、逃げ去る寸前、門の隙間から何かを投げ入れられた。明後日の方向に飛んだため私には掠りもしなかったが、庭の芝生に落ちたそれを放置はできない。夫人はともかく主人がうるさい、主人が怒ると杖でぶたれる。
杖ならばまだいいが、電気が流れる大きな髭剃りは堪らない。主人はあれの小さいやつでよく髭を剃っていたので髭剃りだとは思うが、よく平気なものだ。私はあれをやられると心臓が止まりそうになったり、火傷をした事もあるのだが。
まぁそんな事はよい、何を投げたかは知らないが家の外に放り出さなければ。そう思い近づくと肉の匂いがした。
確かに肉であった。たまに主人がくれた美味いやつだ。しかも大きさもかなり悪くなく、三日も何も食べていない私の腹が急激に音を立てた。
二度三度匂いを嗅いで、妙な違和感を覚える。嗅いだ事のない怪しい、嫌な匂いが肉に交じって匂う。これは食べると良くないのではと本能が訴えた。
それでなくとも他人の餌を貰うなど、主人に知れたらただではおかない。私のプライドもそれを許さない、嗅いだだけだ。ただ、嗅いでみただけだ。ただこれを外に捨てるために咥えるのもどうかと思い、とりあえず放置する事にした。
一応日陰に寄せておくかと思いなおす、多少咥えても問題ないだろう。ほんの端の方を慎重に咥え、私は肉を小屋の横に掘った穴に埋めた。
他意はない、後で食う事になるかもなどと思っていない。それは思ってはいけないのだ。
連中は次の日も来た。
「何でなんともねぇんだ、効いてねぇのか?」
「食わなかったんだよきっと。馬鹿みたいな主人のわりには賢い犬だぜ」
「どうせ戻りゃしないのによ、健気なこった」
その言葉にかっとなった私は、例によって全力で門へ駆け寄り二人組を追い払う。戻る戻らない程度の言葉が解らないとでも思っていたのか馬鹿どもめ。無駄に体力を使ってしまった、正直かなり参っていた。
本当に戻らないのだろうか。この数日何度も自問した事で、すでに答えも出ていた、おそらく主人は戻らないと。
今日は二人組は現れない。通りを行く人も気にならなくなっていた。体が堪らなくダルいのだ、空腹で、もうどうにもならない。私はふらふらと歩き、小屋の横の芝生が掘り返された土に鼻を埋めた。
程なくして出てきたそれは明らかに腐っていた。分かりきっている事だ、食わないために埋めたのだから。でも本当か、食わないのなら外に捨てればよかった、でもあの肉はここにある。嫌な匂いを放って土から顔を覗かせている、どう見てもまずそうなのに堪らなく腹が鳴った。いや、これは多分うまいやつだ、だってこれほどに腹が鳴り、涎が止まらないのだから。
食った。
どうせこのままでは死んでしまう、どうせ死ぬなら最後に肉を食って死んだ方がましだ。夢中で貪り食った、口いっぱいに肉の匂いと味が広がる。涎が溢れて溢れてどうしようもなかった、こんなにも美味いなら、何故もっと早く食べなかったのだと後悔した。幸せだった、悲しくて、幸せだった。
解っていたのだ、これで死ねると。
案の定、食い終えて暫くしたら急速に意識が遠のいてきた。色んな事を思い出す。
はじめて人に吠えたのは、夫人にたいしてだった。主人が吠えろとしつこく迫ったからだ。
まだ子犬ではあったが、主人の元へ来る前に飼育員にしつけられていた私は、人に向かって吠えてはいけないと教え込まれていた。
だから私は渋ったのだが、主人は吠えろとしつこく迫った。三度ぶたれてしかたなく私は夫人に吠えかかった。
「ひいい、やめて、やめて貴方、やめさせてください!
ごめんなさい、ごめんなさい!」
真っ青になって、腰を抜かしそうになりながら怯える夫人を見て、私の心は痛んだ。だが主人は心底楽しそうに笑っていた、笑いながらこう言った。
「そうだそうだ、それでいい。ドーベルマンなんて人をビビらす以外能はないんだからな。そのために高い金を払ってお前を買ったんだ、どうだ
夫人は首を振りながら、もうやめてと繰り返すばかりだった。私はひどく胸がいたくなった。
それからも私は人を怯えさせるためだけに、吠えて、唸って、牙を剥き続けた。いつしか公園を散歩する主人と私には誰も近づかなくなった。
「みながワシに道をあけおる、これは気持ちがいいぞ!」
主人は上機嫌であったが、私はいつも寂しかった。時折横目に入る、子供と遊ぶ他の犬は幸せそうにみえた。笑顔だった、犬も子供も、その親も。時折話しかける、赤の他人のような連中ですら、楽しそうな笑顔を向けていた。
考えてみれば主人は私に対して、一度も笑顔を向ける事はなかった。吠えたてて恐怖する人を見て笑顔になっていただけだ。私に対してそれでいいと、笑顔で頭を撫でてはくれたが、その笑顔は私に向けてのものではなかったように思う。
夫人に至っては私に近づくことはなく、餌も私が遠く離れないと用意できないでいたほどだ。それでも毎日餌をくれて、小屋の掃除をしてくれる夫人を私は嫌いではなかった。どちらかといえば好いてもらいたかったから、私は努めて夫人の前では大人しく振舞っていた。
一度主人が夫人に無理やり私を撫でさせた事がある。夫人は本当に怯えて、震えながら涙を流していた。ごめなさい、ごめんなさいと謝りながら私に触れた。それほどまでに嫌われる私はなんだろうと思った。それほどまでに嫌われる私に触れさせて申し訳ないと思った。
私は、愛されていないのだと心の底から思った。
私は、何のために生まれて来たのだろうと、思った。
意識が途切れるまさにその時に、彼は現れた。
四人の男が庭の門を開ける。
「
二人組が門を開けてる間に、白衣の男が初老の男性に話しかける。
「そうそう、吠えてしかたないらくてね、先生もお気を付けて」
「大丈夫です、話によると餌も置いていってないらしいじゃないですか。
むしろ相当衰弱していておかしくないはずです、早く救護してあげないと」
「それは確かにまずいね」
門が空いて二人組が慎重に近づく中、颯爽と白衣の男が駆け寄る。
「榊さん、この子様子がおかしいです!」
白衣の男が無造作に私に触れた。ここまで無造作に
そんな事より吠えなければならない、よそ者が家に入ってきた。私にはそれしかないから、それだけが私が生きている理由なのだから。
「ガ…ふ……」
ゴポリと口から何かが漏れ出た。
「何を食べた! 何を食べてしまったんだ、君!」
白衣の男が私の口を掻き出し、さきほどのまだ消化もし切れていない肉片を手に取り、匂いを嗅ぐ。
「せ、先生大丈夫ですか?」
「解りません、何か食べてしまったようですが……
生肉ですね、鳩か何かを捕まえたのか?」
「……あ、ひょ、ひょっとしたら」
「何だ後藤、何か知ってるのか!」
「あ、いえ、社長……その。
に、2~3日前にですね、肉にその……」
「何かあげたんですね、肉がどうしたんですか教えてください!」
白衣の男は鞄から何かの薬品を取り出し、気道を確保し、薄めたそれを私の喉へ流し込む。
「早く! 何を食べさせたんですか!」
「言わんか後藤!」
「す、睡眠薬を塗った肉です!」
「この……!」
榊と呼ばれた初老の男が、後藤を張り倒す。
「大丈夫です榊さん、睡眠薬なら……
それよりまだ消化してないのが気になります。
ひょっとしたら、2~3日前の肉を今になって食べちゃったのか……
空腹に耐えきれなかったんだね、可哀そうに」
ごぽり、ごぽり。急激に胃が裏返りそうになって、さっき食べた肉が次々と口から溢れ出す。吐しゃ物で汚れながらも、白衣の男は気道を確保したまま私を優しく撫で続ける。
「大丈夫、大丈夫だからね。きっと僕が助けてあげるから」
そう言いながら私を撫でる男の声と手は、これまでに感じたことのないほどに、穏やかで温かいものだった。
「せ、先生、大丈夫ですか?」
「断言できませんが、ただの睡眠薬なら問題ないはずです。
ただ相当弱っていたところに、おそらく腐った肉ですから食中毒の危険が大きいです。むしろそちらの方が心配かも知れません」
榊は再び後藤ともう一人を怒鳴り飛ばす。
「それよりも榊さん、診療所に連れて行きましょう。とりあえず軽く胃の中の物は吐かせましたが、ここではこれ以上の治療はできません!」
「お、おう。そうだな、先生!」
私は白衣の男に抱えられ、体の震えと嘔吐に苛まれながら、急速に落ちていくのを感じた。
「大丈夫だから、しっかりしろ! 生きるんだ!」
最後に聴こえた白衣の男の言葉が耳に残った。やっと死ねると思っていたが……
生きたいと、そう思ってしまった。
どれくらい眠っていたのであろう。目が覚めると見知らぬ檻の中に居た。毛布が敷かれた檻は寝心地は悪くはなく、不思議な事に体に幾分か力が戻っている事に気づいた。不快で堪らなかった嘔吐感もなく、疲労は激しいが清々しい気分だ。
ふと目を向けると目の前に幼子がおり、私をじっと見つめている。瞳の大きい、髪を片側のこめかみ辺りでくくり上げた、3歳くらいの幼い女の子だった。
「わんわん、おきた!」
幼子が声をあげ、檻の隙間から手を伸ばし、私を撫でようとする。
「美奈!」
机に向かっていた白衣の男と女性が、同時に驚きの声を上げる。
しかし、それ以上に驚いた私は反応することすら出来ず、無造作に幼子は私の頭に触れた。今までもごく稀に私を恐れない子供はいたが、例外なく吠えかかるように言われて来たため、子供に触れられたことなど一度もない。
ましてやこの年齢の幼女が、しかもここまで無防備に、私を恐れずに触れようとするなど信じられなかった。
「ダメでしょ美奈!
ドーベルマンみたいに大きいワンワンは、パパがいいって言った時以外は、勝手に撫でたらいけないって言われたでしょ?」
心配そうに駆け付けた女性が、美奈と呼ばれた幼子を引き寄せる。動転していた私は、
「気がついたんだね。可哀そうに、大変だっただろう?」
白衣の男が檻を開け、何度か優しく撫でたあと、抱きかかえてトリミング台に私を運ぶ。
「わんわん!わんわん!
くろいワンワンなでぅの!どーべうわん、なでぅの!」
ばたばたと暴れる美奈を見て、白衣の男がぷっと吹き出す。
「ベルだよ、美奈。ドーベルマン」
「べうわん?」
釣られて女性もクスクスと笑い、ドーベルよ美奈と教える。
「ベルよベル。ドー・ベ・ル・マン。分かった美奈?」
「べ…る!
べるっ! べるっ! べるわん!
ベルをなでぅの、美奈はなでなでしたいの、パパだけずるいの!」
「大丈夫だよ
そもそもこの子は、吠えたり唸ったりしても、人を噛んだり襲った事はないって君が言っていたんだよ、本当は優しい子なんじゃないかなって」
栞は公園での風景を思い出す。いつも皆に避けられていた恐怖のドーベルマン。近所でも評判の木田という嫌な男の飼い犬だったが、栞はこの犬が自ら吠えたのを見た事がなかった。
木田が吠えろと命令した時にだけ、何度か吠え、それを見て大笑いするという趣味の悪い遊びに付き合わされていた、哀れな飼い犬。
「……まぁ、そうなんだけど。可哀そうな飼い方されてるなって同情はしてたから、よく見てたのよね。
けど、やっぱりドーベルマンって大きいじゃない?」
「大きさと乱暴さは必ずしも比例しないよ。それに、ドーベルマンは本来警戒心は強いけれど、利口で甘えん坊な犬なんだよ。
凄く主人に忠実なタイプだから、君が前に言っていた通り、嫌々主人のために悪役を演じていたんだと思うよ」
「べるわん! べるわん!」
美奈がばたばたと栞の腕で暴れる。
「それにご覧、この子起きてから一度だって吠えていないし、凄く大人しい。
きっと分かっているんだよ、僕に助けられたってね。
そうだよね、君?」
男は優しく私を見つめ、私はそれに応えるように男の手に頬ずりをする。
頬ずりを、した。生まれてこのかたそのような行動をとった事はない。ただ、今はこの男の優しさに甘えていたかったし、吠えたくはなかったのだ。
「……はぁ。分かったわよ、確かに公園で見た時より全然大人しいものね。
まぁ疲れてるのもあるんでしょうけど……プロの貴方が言う事だから、信じてあげるわ。
パパがいいって言ったわよ、美奈。優しくなでなでするのよ?」
「うんっ! ありがとおママ、パパ!」
満面の笑みを浮かべ、栞の腕を飛び出した美奈が私に駆け寄り、トリミング台にぶつかるように取りつく。勢いに任せて撫でるのかと思いきや、美奈は実に優しい手つきでそっと撫でた。
恐怖を隠しきれないせいで、おっかなびっくりになるものではなく、自愛に満ち、労わるように、その小さな手で繰り返し撫でる。
「べる! べる!
おっきーね、べる。すべすべしてぅー!」
楽しそうに、嬉しそうに私を撫でる。この私を。
主人ですら、愛情向けるという意味で私を撫でた事などなかった私を。
おそらく私は、この時初めて無垢の愛情を向けられたのだと思う。
「何か名前つけちゃってる気がするんだけど?
この子って、榊さんが面倒みる予定なんでしょ?」
「……その辺はまだ何にも聞いてないね。夜逃げした木田さんの家の債権者が榊さんらしくてね、ちょっと吠える犬が居て困ってるから手を貸してくれって頼まれたんだよ……って、これは言ったか」
「聞いたわよ、近所で恐怖のドーベルマンって呼ばれてる子って、その時話したじゃない」
「べるわん、かわいいねぇ。おっきーねぇ、すべすべだねぇ」
上機嫌になり調子に乗った美奈に、揉みくちゃに撫でまわされるドーベルマンは、恐怖のきの字も感じさせないほど穏やかで大人しい。
「……もし榊さんが飼わないってなったら、どうなっちゃうの?」
「大の愛犬家の榊さんだからそんな事はないと思うけれど……保健所か保護施設に引き取って貰うことになるだろうね。
榊さんならもう一匹二匹増えたところで気にしないだろうし、そんな心配は無用のはずだけどね。治療費も榊さんもちだし。
とにかく、元気になったら一度連絡して欲しいって言われてたから、後で連絡して聞いてみるけど……」
相変わらず美奈は、ベル、ベルと名前を呼びながら、愛おしそう私を撫で続け、時折鼻先にキスの雨を降らす。
何故この子は会ったばかりの私に、ここまでの愛情を向けてくれるのだろう。戸惑いながらも私は、その好意に抗えず為すがままされていた。
「……けど?」
栞は夫の
「……四歳の誕生日に犬を飼うことを許すだったっけ?」
「来月の話よ。それに飼うにしても、この子もう結構大きいわよね?
やっぱり子犬の方がいいと思うのだけど……」
「それは美奈に聞けばいい。動物との出会いは一期一会だよ。
それにまだこの子も四歳くらいだと思うし、四歳同士で運命めいたものを僕なんかは感じているよ」
「……変にロマンチストなんだから。
それに、くらいって何よ、頼りない獣医さんね」
「じゃあ四歳。間違いないよ」
栞は隆の返事に飽きれながら美奈に歩み寄り、優しく美奈の頭とドーベルマンを撫でながら、十中八九答えが分かった質問をする。
ねぇ美奈、誕生日にわんちゃん飼う話覚えてる?」
「ベルがいい!」
気持ち良いくらいの即答だった。
私がこの時の会話や状況を理解したのは、人の知性を得た後の事だった。だが、美奈の一言が私の運命を決めた事だけは、何故かこの時点で理解できたのだ。
私は、美奈によって救われるのだと。
「良かったね、美奈。
君……いや、ベル。君は今日から僕たちの家族だ」
斉藤隆とその夫人栞、次いで美奈が代わるがわるに私を撫でた。
「よかったね、べる!」
――あの日の言葉を。手の温もりを。私は生涯忘れる事はないだろう。
斎藤家のベルとなった日を、私は神に永遠に感謝し続けるだろう。
三年の月日を過ごした。幸せだった。何もかもが幸せであった。
主人は優しく、夫人は私を頼りにしてくれ、美奈は誰よりも私を愛してくれた。
三度の春。野山を、桜並木を、公園を歩く日々を与えてくれた。
三度の夏。ひまわり畑を、夜空の花火を、海岸に沈む夕日を与えてくれた。
三度の秋。燃える椛を、乱れ飛ぶ赤とんぼを、星降る夜空を与えてくれた。
三度の冬。白い雪山を、輝く初日を、身を寄せあう温もりを与えてくれた。
春の嵐、梅雨の長雨、夏の蝉時雨、秋の寂しさに、冬の厳しさ。どんな事にすら感動を覚えた。美奈と出会うまでに生きてきた世界と同じだとは信じられなかった。たくさんの場所で、たくさんの数えきれない想い出を作った。
世界が、人が美しいと思った。生きててよかったと思った、幸せだった。
本当に、本当に幸せだったのだ。
***《挿絵no4追憶》http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769865
―――あの日までは。
「車に気を付けていってくるのよ……本当に一人で大丈夫?
やっぱりいつもみたいに、お母さんと一緒に行かない?」
「一人で平気なの! 今日はベルのたんじょう日だから、美奈が一人でさんぽに連れていくの!
美奈だってもう小学生なんだから、おねーさんだから平気なのっ!」
「それが美奈からベルへの、お誕生日プレゼントなのね?」
「うんっ!」
「本当に大丈夫かしら」
栞夫人は私の見つめ、優しく首を撫でながら私に頼る。
「いーい、ベル。美奈はちょっとおっちょこちょいだから、しっかり貴方が守ってあげるのよ?」
私は軽く吠え、それに応えた。
「ほら、ベルもこー言ってるし、へっちゃらだよ。
ベルがぜったい私を守ってくれるもん」
「そうね、ベルが着いているなら平気よね。じゃあお願いね、ベル」
私は今一度元気よく応える。何があっても美奈を護ってみせると、夫人に約束する。
約束を、したはずだった。
***《挿絵no5望まぬ庇護》http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769867
道路に赤い帯が見える。
黒い靴。美奈が小学生に上がった時のお祝いに、ランドセルと共に買ってもらった子供用の革靴。赤でも、白でも、ピンクでもなく、美奈は黒を選んだ。ベルと同じ色だからと、女の子に向かないと祖母が止めても黒を選んだ。
それが今、赤く彩られて転がっている。その先に美奈が転がっている。何が起きたのだと脳が私に訴えかけてくる。解りきっているのに心が事実を拒否している。
信号は青だった。横断歩道を渡っていた。にも拘らず、そいつは美奈と私に向かって突っ込んできた!
私は庇ったはず、咄嗟に美奈を引きずり飛ばしたはずだった!
……だが美奈も押しのけていた。あの少女のどこにそんな力があったのか?
服を引きちぎりながら私を振りほどき、立ち塞がるように前に出ようとした。
身を寄せるように互いを庇い合う中、お互いの体温を感じながら、私たちは跳ねられた。
互いが相手を庇い、共に跳ねられたのだ。
――何故、私を庇ったのだ?
何故私を守ったのだ!
どうして私は護れなかったのだ!
重い体を引きずり美奈に這いよる。美奈の手に触れ、頬を流れる血を舐め取る。無駄だと解かっていながら、私はそうする事しか出来ない。
「よか……った…ベルは……無事だ…った……」
薄く目を開け、美奈が私に微笑む。何度となく私に向けたあの笑みを。いつもと変わらぬあの微笑を。
体が震え、舌が上手く動かない。痛みのためではない、心が
この色を取らなければいけないと分かっているのに、舌が上手く動かないのだ!
恐怖で体が戦慄くのだ。逝ってしまうと。違うと心で否定し続けているのに、脳が逝ってしまうと伝えてくるのだ。美奈がどこかへ逝ってしまうと伝えてくるのだ!
「ふ……ふふ…ベルは……やさしい…ね
やっぱり…わたしを……守ってくれ…た……」
***《挿絵no6融合変異》http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769868
目を閉じてはいけない!
これは違う、この色はそういうものではない、ただの汚れだ。全て舐め取ればいいだけの話だ、お願いだから目を閉じるな!
逝かないでくれ、逝かないでくれ、私を置いて逝ってしまわないでくれ!
悲鳴と喧騒、狼狽えながら救急車を呼ぶドライバー。驚きながら、動揺しながらもどこか興奮を隠しきれず携帯を向ける人たち。
少女の躰から何かが零れる。薄く、乳白色の光を放つ泡のようなそれが、天に向かって零れていく。
地上から天に降る雪のように、静かに、静かに、零れていく。
衆目の中誰一人気づく事はなく、誰一人見とめる事もなく、ゆっくりと静かに少女の躰から零れ落ちる。
(駄目だ……逝かせない……アレは駄目なものだ、大事なものだ。あれを逝かせてはいけない!)
血液が逆流し、心が裏返る。眼球が張り裂けるほどに開かれた目でソレ見据え、天に届けと肺が焼けるほどに咆哮し、脳が沸騰するほどに強く命じた。
「逝かせはしない!」
何故そうなったのかは、今でも何も解からない。私の想いか、美奈の力か、それとも本当に天に願いが届いたのか、神が我らを救ったのか。
ただ私の魂は躰を置き去り、美奈の零した魂の欠片を吸い込んだ。夢中でそれらを吸い込み、取り込んだ。そうする事で美奈が助かる事が直感的に理解できたから。
眼下に美奈と私の躰が見える、宙から見下ろす二つの躰と一つとなった魂の器。戻るべき場所は考えるまでもない、私は美奈を護らなければならない。
美奈はきっと悲しむだろう。自惚れと言われるかも知れないが、美奈はきっと泣くだろう。私を悼んで泣く事になるだろう。
それが少し、誇らしく思えた。
主人が私を救ってくれたから。
夫人が私を信じてくれたから。
美奈が私を支えてくれたから。
家族が私を愛してくれたから。
私が美奈を護りたかったから。
きっと初めから、こうなることが定められていたのだと思う。
だからこそ、私は美奈と一つになったのだ。
美奈を生かすために、私は生まれて来たのだ。
すぐに永く生きられない事に気づいた。すでに死んでいることを理解した。美奈の魂の殻が、どうしようもなく壊れてしまっていることが解かってしまった。
だから私は美奈を覆い包む、私の魂で殻を形創る。美奈を覆い、形創り、内を滋養で満たす。そうすることで、美奈が生きながらえることを知っていたから。
初めは草花の魂を喰らった。秒に満たない生の力。
次に小動物の魂を喰らった。千秒にも届かぬ生の力。
同族でなければいけない。犬ではない、犬の魂は殻にすぎず、内を満たす魂は人のものでなければいけない。
初めは老爺、次に老婆。その次は中年の男性。若ければ若い方が満たされることが解かった。解りはしたが、混ざりきらないことも分かった。
土台無茶な話であったのだ、すでに死者となった魂を無理やり生かすには、通常の何倍もの生の力が必要だと理解できた。
だから喰らう。夜な夜な魂を喰らった。罪悪感はあった、美奈と同化したことで人の知性と記憶を得た私は、人の罪も理解してしまったから。
何より罪もない人々を殺め、自分が生かされていることを知った時、美奈がどれほど悲しむかが分かっていたから。
それでも止めることなど出来ない、出来るはずがない。他の誰よりも美奈が大事だったのだから、美奈に比べれば他の命など
それでもせめて喰らう対象を選ぼうとした。一番馴染む女の幼子は喰えない、それは美奈が被るから、美奈にあまりに近すぎて、あまりに惨くて耐えきれない。若い男女も哀れに思い、老人は滋養が足りない、消去法で中年を狙うことにした。
なるべく人の目につかない方がいい、本能的にそう感じた。許されることをしているとは思えず、この力は神の加護ではなく悪魔の
罪悪感が、罪悪感がこびりついて離れない。きっとこれは許されないのだと自覚して、姑息に闇夜に紛れて人を襲った。
自然と中年男性がターゲットとなる。夜明けの街や駅、漫画喫茶やインターネットカフェに行けば、無造作に、無防備に寝付いた餌がいくらでもいた。
初めの一人は、そのまま心臓を引き裂いたせいで大ごとになった。
「怖いわね……すぐ近所じゃない」
ニュースを見た夫人が怖いと震え、死と言う言葉に触れた美奈が、私の死を思い出し二日も泣き塞いだ。
これは良くない、家族のためだけではない、何か良くない予感がした。
直接引き裂くことはリスクを伴うことを知り、以後様々な工夫を凝らした。酔いつぶれた人間ほど簡単だ、抱えてビルの上から落とせばよい。落ちて、潰れて、肉体から魂が浮かび上がる。そこを喰らえば自殺扱いになった。
時に線路に突き飛ばし、時に川に引きずり込み、車のハンドルを操作して激突させることも覚えた。特にトラックは憎い存在だったから、いつもトラックを狙った。
一人喰らえば一月は持つため、派手にならないように慎ましく喰う。一気にたくさん食べてもうまく消化しきれないということを知り、なるべく無駄にならないようにした。無駄が多ければそれだけ多く殺さなければならないから。
正直に言うと、やはり人を殺したくはなかったのだ。
そうして私と美奈は、二年の月日を生き延びた。美奈が老いて肉体が持たなくなるその日まで、私と美奈は生き続けるだろう。人を喰らって生き続けるだろう。
何故なら私にとって、美奈より優る命など有りはしないのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます