So[re]ul Cage

@pagen

第1話「暁闇の死神」

 ゴツ、ゴツ、ゴツ。鈍く、重い、肉を叩き骨を割る音が響き、時折ビビチャリと何かが地を濡らす音が鳴る。

 午前4時25分。晩秋に差し掛かる夜明け前、駅のプラットホームに続く線路上に人影が二つ。

 駅舎の明かりはまだ暗く街灯の灯も遠く届かない。薄暗がりがまだ続く暁闇あかつきやみの中、闇に紛れて二つの影は殴り合っていた。


 殴り合う。いや、より正確にいえば、一方的にボクサー風の男が攻めて立てられていた。

 お互いに拳が繰り出されるものの、ボクシングのように鋭く繰り出される拳は、軽く構えたてのひらによりいなされる。まるで柳の葉でも打っているように、拳法使いの男に全て綺麗に受け流されていた。

 片や拳法使いが繰り出す拳や蹴りは、ボクサー風の男のガードを巧妙に掻いくぐり、肋骨を折り、鎖骨を割り、鼻骨を砕く。運良くガードに成功した腕すらも、肉を圧し潰し上腕骨ごとへし折られた。


 喧嘩というには度が過ぎた行為であり、隠しきれない殺意と狂気の籠った純粋な暴力の夜会。異常な光景、異質な空間、異様な世界、異形の生業。

 異形――二つの影は、まさしく人ならぬ者であった。


 防戦一方の影は長躯で、2メートルに迫るほどである。長身を更に際立たせるような長い手足と引き締められた体は、ヘビー級ボクサーを想起する美しさと実用性を備えていた。とても素人には見えず、名のあるプロボクサーか相当喧嘩慣れしたストリートファイターか何かに見えたであろう。

 男の頭部が犬のそれでなければ、だ。

 男はまさしく人外であった。男の頭部はドーベルマンと呼ばれる犬種に酷似こくじしたものであり、大きく胸まで開いたシャツからは、頭部から繋がる体毛が見え隠れしている。

 狼男。そう呼ばれてしかるべき異形の存在であった。


 それを攻めたてる影は一見普通の人間に見えた。180センチメートルほどの体躯と、それに相応しい鍛えられた筋骨。フード付きの中国風拳法着の前をはだけ、フードの奥から除く顔は、髑髏どくろを模したゴーグル付きの仮面に覆われている。

 髑髏の男は奇抜な衣装に身を包んではいたが、相対する狗頭くとうの男のような異常性はない。にもかかわらず、やはり両者は異形の者と言って差し支えなかった。

 髑髏の男の異形性は、獣人という超常的存在を肉体一つで圧倒しているという化け物じみた戦闘力であった。

 拳法着を身に纏うだけあり、髑髏の男は拳法使いであった。いなすために軽く開かれたてのひらは、攻撃の際には瞬時に拳を握りに変え、正確に相手の急所を打つ。時折確認するかのような仕草を見せるのが奇妙ではあるが、一方的に狗頭の男の急所を打ち抜いていく。

 はっきりと、骨を砕き内腑ないふを破壊する感触を得ているのを承知の上で、執拗に、確実に、躊躇なく、明確な殺意をもって攻撃を続ける。明らかに壊しなれ、殺しなれている動きと落ち着きであった。

 怪物と言って違わぬ相手を向こうにしてである。それこそが髑髏の男が異形である事の照明であった。


(何故だ、どうなっている!?

 こんな事が、こんな馬鹿げた事が起こり得るのか?)

 狗頭の男は狼狽する中で、夢中で拳を繰り出し考える。直線的な攻撃は手の掌で引き込むように崩され続け、その都度カウンターの攻撃をもらっている。

 ならば巻き込むような攻撃ならと、やや大ぶりの右フックを繰り出した。髑髏の男は動じることなく、やや体を捻りながら右の掌底しょうていで右フックの肘の裏側を打つ。力が乗らない場所を絶妙のタイミングで打たれ、拳が相手の顔に届く前に弾かれる。返す刀で肘を打った掌底が、裏拳となって狗頭の鼻柱にめり込んだ。

 手打ちの裏拳ではあったが、半ばカウンターとなったこともあり幾度目かの鼻骨粉砕びこつふんさいの憂き目にあった。

 しかし所詮しょせん手打ちであり顔こそ跳ね上げられはしたが、無防備な裏拳が目の前にある。

 (ならば――ッ!)

 大きく口を開いた。跳ね上げられたおかげで丁度よい塩梅あんばいの勢いをつけることが出来る、その拳を手首ごと噛み千切ってくれる。そう言わんばかりの勢いでいぬ大顎おおあごが迫った。


 不意を打ったつもりであった。しかし髑髏の男は、まるで一連の組手の一部だと言わんばかりに手を引いていた。

 バツンと大きく顎が空を食み、上方から脳天目掛けて拳が落とされた。

 杭を打たれたような衝撃と脳震盪のうしんとう、ビキリと音を立て頭頂骨とうちょうこつが割れ、目鼻から血が噴き出す。

 視界が一瞬白く染まり、色を取り戻した時には地をめていた。更に状況が理解できた次の瞬間には、打ち伏せられた地面から蹴りで跳ね上げられ、無様にさらした上体を蹴り脚による二の蹴りが吹き飛ばす。

 流れるような動きであった。達人としかいいようがなく、両者にはあまりにも埋めきれない力量差があった。

 線路上を吹き飛ばされた体は、バラストを撒き散らしながら線路上で二転、三転したのち立ち上がる。

「あ……ぶぅ……は…ッ」

 常人ならば何度死んでいてもおかしくない攻撃を受けても、狗頭の男は無事であった。

 頭頂や胸に激痛が走り続けるが、次第に痛みは引いていく。それだけではない、これまでに折られた肋骨も、鎖骨も、鼻骨も見ればその跡はない。

 回復していた。狗頭の男は超常的な回復力で、傷を瞬く間に修復していたのである。まさに怪物であった。


 その様子を上空から見下ろす白い影がある。闇夜に浮かぶ目立つ色合いの女の影、それを見止める者は誰も居ない。いかに明け方近くとはいえ、東京の、しかもそれなりに人口の多い街の上空に浮かぶ影は、誰かの目に触れてもおかしくはないはずである。

 にも拘わらず影が人の目につく事はない。何故なら宙に浮かぶその影もまた、異形の存在であったのだから。


 女は濃い褐色の肌をしていた。一見すれば闇に溶け込みかねないはずだが、それを全否定するかのような雪のように真っ白い髪と、同色の白いレザースーツに身を包み大型のバイクにまたがっていた。

 白基調のアメリカンタイプのバイクは、車輪の部分にタイヤがない。代わりに青白い炎をまとい宙に浮遊している。女とバイクが空にただよっていた。

 それだけでもかなりの異常性を帯びていたが、よく見れば女の白いレザースーツも別の意味で相当な異常性を帯びていた。


 ボンデージスーツとチャップスが一体となった、奇抜な白い皮の衣装に身を包んでいたのである。チャップスとはカウボーイなどが愛用する、股間部分が大きく開いた乗馬やバイク用のオーバーパンツである。通常下履したばき用のジーンズなどを履くが、その女は何故か素肌に直接履いていた。

 当然下着は露見ろけんする。むしろ全力で見せにかかっている。魅せているというのが正しいのかもしれない。

 その証拠に、白いレザーの非常に際どいTバックのショーツを着用しており、全体的に白と黒のコンストラクトの効いた存在となっていた。コンストラクトの効いた痴女ちじょとなっていた。そう、控えめに見ても痴女の衣装に相違そういなかった。

 痴女はガンベルトに大ぶりのリボルバーを差し込み、バイク乗り用のゴーグルを被り、煙草たばこを吹かしながら、異形の者たちの戦いを注意深く見つめていた。

 実にアバンギャルドなその女は、残念ながら非常に美しかった。無造作に跳ねる白いショートヘアが似合う大人の女は、申し訳ないほどに阿婆擦あばずれで、残念な感じの美女だった。


***《挿絵no1アヴァンギャルドな女》http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769859


『凄い凄い、入舸いるか君超強くないですか、ボッコボコのバキバキじゃないですかっ!』

 白い阿婆擦れの耳に、きゃっきゃとかしましい声が響く。

『ちょっと先輩、見てます?

 凄くないですか入舸君。だって今日初陣ういじんですよ、初陣でソウル・ケージ<Soul cage>を相手にするのも凄いのに、なんか無慈悲むじひな一方通行バトルじゃないですかっ!

 アイドルに思いを寄せる中年男性くらい、一方通行じゃないですかっ!』

『うっさい』

 無邪気むじゃきで無慈悲なたとえを交えて話しかける声に、煙草を吹かしながら、比喩もクソもないストレートで無慈悲な答えをかえす。

『いやいやいやいや、ちゃんと見てます先輩!

 これって相当凄いことなんですよ、分かってますか!?』

『アンタは私の目を通して見てんだから、見てないわけないでしょ』

 そう答えた白痴女しろちじょの口は、微動びどうだにしていなかった。

 考えてみれば女は携帯を手にしてるわけでも、側に語り掛けている声の主が居るわけでもない。女は遠く離れた別の人間と視覚や聴覚の共有を行いながら、精神感応せいしんかんのうによる念話ねんわで会話していた。


『……先輩って、ホント顔以外可愛気ないですよね。

そんなだから彼氏に振られ――』

『ガブガブ、アンタ死にたいわけ?』

 先輩と呼ばれる白髪の女は、自分の目の前にファックサインを突き付ける。

『ぱ、パワハラですっ! パワーの原田怖すぎます!』

『誰よそれ……って言うか、解析終わったのガブガブ?』

『あーえーっと、登録なしですね。初パターンです、一応霊波れいはは登録しましたが意味なかったですかね、この様子だと。

 消化不良の喰いカスの様子からすると、老人6人、中年16人、青年1人の23人って感じですね。内訳はよく分からないですけど、傾向けいこうから宿主は中年なんじゃないかと思います。絶対。

 最後に私の名前は、ガブリエッラ・ガブールロですから、ガブガブなんて可愛くない言い方止めて下さい。パワハラですよ、パワーハラショーですっ!』

 耳元で何かバンバンと音がし、その直後ポリポリとお菓子の咀嚼音そしゃくおんが聴こえた。

(パワーハラショーじゃ、むしろOKって事じゃないの? ……まったく。

 でもまぁ、解析速度と精度は優秀ではあるのよね、優秀では)

 白黒の先輩は大きくため息をつきながら頭を振り、戦いに視線を戻す。


 今日幾度目かの不毛な攻防の後、狗頭の男の膝が落ち、そこを逃さず回し蹴りが襲う。頸骨けいこつが鈍い音を立て、首から上がもげ飛びそうな勢いのまま、錐揉きりもみ回転する。血反吐ちへどと肉片交じりの眼球をき散らしながら、ボロ雑巾のように線路に叩きつけられた。


『そろそろ苦しくなってきたはずよ、修復に霊力を回しすぎて揺らいで見え始めたわ。

 あとガブガブから解析データがでたわよ、被害者は二十三名。それほどではないけど、しっかりやりなさい坊や』

 女は髑髏の男に念話で語り掛ける。

『……二十三名……も、だろ。

 あと僕は坊やじゃなくって、入舸だ』

 苛立ちを含んだ声で、不愛想にそう答えながら、ゆっくりと入舸は狗頭の男に近づく。


(何だこれは……何が、一体何が起こっている……)

 息を荒げ仰向けに空を見ていた。星はない、曇り空だ。いい夜だと思った、狩りに最適な闇夜だと浮ついてすらいた。それがどうしてこうなっているのか?

(今夜もいつも通り、酔いつぶれたサラリーマンを餌にしに来ただけだった。普段と変わらない夜のはずだった。誰に見られる事も、誰に気づかれる事も、誰に知られる事も、誰に邪魔される事もない平穏な日常の一環だったはずだ!

 なのに……なのに何故……)

 ゆらり、と狗頭の男は立ち上がった。相変わらず傷は修復しているが、先ほどまでとは違い明らかに回復まで時間がかかっている。

「何者だ……貴様は一体……なんなのだ……

 お前は一体誰だ、何故俺が見える、何故俺に触れれる、何故たちの邪魔をするのだ!!」

 恐怖と疑問がないぜになった声で、狗頭の男が声を絞り出し、意味不明の現状に対し抗議の声をあげる。ここに至るまで幾度となく問いかけた質疑しつぎであり、一度も答えを返さぬ相手に向かって、何度目かの問いを発した。


「死神だ」


***《挿絵no2.死神を名乗る者》http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769861


 フードの下の双眸そうぼうが鈍く細く光る。ゴーグルに覆われた両目は男の表情を包み隠していが、冷たく言い放つ言葉は狂気めいた恐怖をまとわせていた。

「ふざ……けるなッ! 死神だと?」

 ようやく答えが返ってきたと思ったら、想像もしないものだった。

「そんな者が存在してたまるか、お前は何者だ!

 俺と同種だろ、同族の何かだろうが!

 縄張り争いのようなものか?

 だったら俺は引く、ここではもう狩りはしない、二度とお前の前に姿を現さないと誓う。だから俺たちを見逃してくれ!」

 ようやく会話が成立したからか、狗頭の男はまくしたてるように助命を請うた。しかし入舸の答えは、実にそっけないものであった。

「お前みたいなのが存在しているのに、死神が存在しないと思うのか?

 それに姿を現したのはお前じゃなく、僕の方だ」

 言い終わると同時に入舸は掌を構え踏み込んだ。それに呼応し、狗頭の男は反射的に左ストレートを被せる。

 先ほどまでの流れを見る限り、どうやっても勝てはしない実力差があるのは理解していた。同時にこの男が自分を殺さず、いたぶっているのも分かっていた。

 だからそれを逆手に取り、カウンターで殴られたと同時により遠くに跳ぶ。跳んでそのまま全力で逃げ去る。それが狗頭の男の精一杯の策であった。


 交差する右手と右掌。手首が交わるその瞬間、入舸の掌底は反転し、手のひらで副える手首を引き込み、同時に左肘で相手の胸骨を狙う。

 狗頭の男が今日何度ともなく喰らった肘打ち。まるで練習の成果を試すかのように繰り返された行為。

 だが今度は違う、これが今夜最後にくらう技だ。そう覚悟し、狗頭の男は上体を出来る限り硬化させ、後方に大きく跳ねるべく下半身に力を溜めた。

 きっとこの男はまた猶予ゆうよをおく。私が回復するまで間をおく。もう体力が残り少ないことは自分でも解っている、本当ならもっとはやく逃げるべきだった。

 だがまだ遅くない、こんな馬鹿げた夜はもう終わりだ。狗頭の男はそう思い、準備していた。これまでと同じだと勘違いをしていたのだ。

「――!!」

 声をあげる間もなかった。加速するように引き寄せられカウンターの肘が入るが、地が震えるような震脚しんきゃくと共に繰り出された肘打ちは、これまでとは桁違いの威力であった。

 肘鉄ひじてつ。文字通り肘の鉄塊てっかいが狗男の胸部に叩きつけられた。


 八卦掌捶拳・離火・正門頂肘。《はっけしょうすいけん・りか・せいもんちょうちゅう》それが入舸が使った拳法の業であった。

 師の黄龍鴻ウォン・ロンフォンによれば、商朝しょうちょう末期、紂王ちゅうおうの圧政下で民衆の自衛のために生み出した、拳法とも呼べぬ粗野そやな武術。そういうものだと言ってはいたが、自衛とは程遠い殺戮特化さつりくとっかの武術であった。

 事実その攻撃は常軌じょうきいっした衝撃を伴い、狗頭の男の胸部をえぐり、体内から爆発するように、弾けた。


***《挿絵no3逸脱した一撃》http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8769864


「―ぎ――ぶ……ッ!!」

 凄まじい威力だった。胸骨きょうこつに受けた衝撃で、狗頭の男の肉が背中側から弾け飛んだのである。まるで大砲を撃ち込まれたように、心臓が破裂し、骨と肉を伴い、胸部に風穴を開けながら身体ごと吹き飛ばされる。

 そのまま駅のホームに打ち付けられるかに見えたが、狗頭の男の体は、あろうことかホームをすり抜けた。そのまま駅構内の壁を、階段を、シャッターをすり抜けながら20メートル以上飛ばされる。

 狗頭の男が算段通りに跳んだのではない。ただただ暴力的な勢いで吹き飛ばされ、成すすべないままに植え込みを突っ切り、ロータリー周りに植えられた立ち木に打ち付けられたあと、ようやく止まった。

 ある意味計算通りで、まるで計算外であった。人工物を透過できるのは知っていた。吹き飛ばされながらそれを利用して、虚を突いて離脱するつもりであった。

「ご……が……ば……」

 滝のように口から血が零れる、身体の中心には風穴があいたままだ。意識を集中して傷の修復を図るがうまくいかない。そもそも心臓が破壊され、体に風穴があいているのだ。激痛や苦痛は今夜何度も味わったが、これまでとは話が違う。

 それでも必死で体の修復を図る、治れ、治れ、治れ、治れ、治れと念じる。体を構成する命の流れを集めて収束させる。やがて人体が構成されていき、心臓は息を吹き返し、肉が、骨が、血管、皮膚が修復されていき、身体の穴がふさがった。

 ドクンッ!

 大きく、本当に大きく心臓が躍動やくどうする音がした。

 違和感があった。心臓を修復したのだから、心音が再開するのは道理である。

 だが、音がおかしい。音だけではない、感覚がおかしい。確かに、確かに、心音が二重に聴こえていた。


「……まだか」

 入舸はある一点を見ていた。離火・正門頂肘で穿うがち貫いた胸の穴は、確かに心臓ごと躰の中心を破壊していた。入舸が見ていたのはその心臓の逆、そこにあるべきものを見ようとしていたのである。

『雑すぎよ坊や。確実に仕留めるならホールドした状態で、体に拳を突き立てて握り潰しなさいって教わったでしょ』

『ヴィオがいけるって言ったんじゃないさ。あと僕は坊やじゃない』

 入舸は豹のように地を駆け、狗頭の男の後を追いながら苛立いらだち交じりの声で答える。

『鍵が具象化ぐしょうかしたなんて言ったっけ?

 私は揺らいでるって言っただけよ、イ・ル・カ。

 そもそも仮に具象化してたとしても、あれじゃ鍵は体から吹っ飛ばされて転がるだけで壊れるしないわよ。

 鍵はね、握り潰さない限りこわれないわ』

『知ってるよ、初めてなんだから色々と緊張してただけだよ!

 次はちゃんと仕留めるから、少し黙っててよ!』

 からかうように自分の名を呼ぶヴィオに対し、ねるような声で返す。駄々をこねるような物言いは、恐ろしい髑髏をした仮面を着用する残忍な殺戮者とは思えなかった。

 それも当然の事で、死神の名乗りや髑髏を模した仮面はヴィオが入舸に教えたものである。そうする事で虚勢や成りきり、自分は別人だと割り切るための自己暗示として役立つと教えられたのだ。

 ソウル・ケージを打ち倒すもの、ケージ・ブレイカー(cage breaker)は、そうする事で己を残忍な殺戮者へと変貌へんぼうさせていたのだ。


『先輩、やっぱり入舸君ビビっちゃってるのかなぁ』

『そうね、多分坊やはビビってる。殺すと言うよりも本物のソウル・ケージの魂に触れる事を』

『うまく行きますかね、先輩』

『さぁ、こればっかりは実際にやってみないと判らないわね』

『失敗する方に、クレープ五つ!』

『……アンタ本当に首にしてもらうわよ?』

『ご、ゴメンナサイ!!

 首だけは! 首になるとバイクのローンが払えないんです!』

『……一括で買えるくらいの給料は貰ってるでしょ?』

『マンション買ったら、お金なくなっちったんですぅ』

 ヴィオはため息交じりに煙草を吹かし、静かに成り行きを見守った。



 ドクドクと波打つ心音は確かに重なっていた。錯覚でも何でもなく、狗頭の男の右胸に心臓がもう一つ現れていたのだ。

(これは……この心臓は……俺の、俺自身のもの…か?)

 狗男の男は理解した。もう一つの心臓の存在を知り、全身を怖気おぞけが襲う。それが何を意味するか瞬間的に認知した。理解していたわけではない、ただ本能的にそれが何か、どういう意味か、どのような役割を持つかを知覚したのだ。

 うずくまり、胸元を見ていた顔に影がかかる。ゆっくりと頭を上げ、視線を影を落とす正体に向けた。髑髏の双眸と、目が合った。


 目が合ったと同時に右手で喉元を釣りあげられ、立ち木に押し付けられる。必死で物質透過を試みて背中から立ち木を抜けようとするが、押し付けられたまま一向にすり抜けられない。

「無駄よ、自然物は透過けられない」

 頭上から声がした。いつからそこに居たのか、最初から自分たちを見ていたのか、闇夜の中空に、女が居た。

「なん……の、ことだ?」

 答えながら解っていた。何故だか生物や自然物が透過できない事は分かっていた。分かっていて足掻あがいてしまったのだ、どうしても生き延びるために、無駄な努力と分かっていながら、出来ないと解っている事を試していたのだ。

「坊や、鍵を破壊しなさい」

 異形の身の自分でも解る。あれはまさしく異形の存在、この世の者ならぬ存在だと。少なくとも自分が何かは理解していたつもりだった、生身ではなく霊体だと認識していたが、白髪の女を見て直感的に自分は違うと感じた。

 あれが、あれが本当の霊体だ。では自分は、自分はなんなのだろうか?

 視線を目の前に戻し、入舸を見る。

 同時にそうかと思う、これは本当に死神なのだと理解した。そしてあの女が言った鍵が自分の右心臓だということは解っていた。これを毀されたら二度と修復できないことも、本当の意味で死んでしまうことも解っていた。

「お…れは……一体、なんなのだ?」

 狗頭の男の両目から涙が、零れた。それを見た入舸の瞳の奥が、わずかに揺らぐ。

「牢獄よ」

 それを察知したヴィオが告げる。狗頭の男に聴こえる以上に、入舸に言い聞かせるように言葉を続けた。

「すでに死者となり天へ還る魂を繋ぎ止め、宿主の延命のために死ぬべきでない他者の魂をむさぼ畜生ちくしょう輪廻りんねを妨げる偽りの生を与える存在、魂の牢獄ソウル・ケージよ。お前が一年生き延びるためだけに、十人以上人が死ぬ」

「ソウ……る…ケ―…ジ」

 うつろな目でヴィオを見上げた瞬間、入舸の左手刀が狗頭の男の右胸に突き立てられた。

『いいわね入舸、躊躇ためらわず、心を強く持ってやりなさい』

 茶化すような呼び方ではなく、はっきりと自分の名を呼ばれる。一人前なのだからと念を押された気がした。

 分かってるよと返事を返す代わりに、ズブリと鈍い音を立てながら入舸の指先が、狗頭の男の右の心臓に届く。触れた瞬間、目の前で火花が弾けたように視界が白く染まる。


「や……め……やめて……く……」

 滝のように口から血が零れる。入舸の手を掴み、渾身こんしんの力で抜きだそうとする。血にまみれ、ぬめり、滑る指に力を込める。ありとあらゆる力を指先に込めた。

 掠れる声を、震える指の感触を受けても、哀れを誘う涙を目にしても、入舸に迷いはなかった。ないはずであった。

 眼前の狗頭の化け物に同情する余地などない。今までにこの化け物が殺した人間は23人。何年かけて殺したのかは分からないが、罪も無い23名もの人間を手にかけたのだ。人として眼前の存在を憎みこそすれ、憐れむ気持ちなどあってはいけないのだ。

 狗頭の男の手を振り払うように、入舸の左手は男の右心臓を掴んだ。

 刹那せつな、目の奥で、脳髄のうずいの根元で、心の奥で爆発が起こるような光を入舸は感じた。感じてしまった。


『美…奈……《みな》』

 狗頭の男は、あるいは入舸は想い浮かべる。頭に、心に浮かびあがる。愛しい者の存在を、護るべきものの名を、姿を、その声を、色あせる事のない思い出を。


 ベル。そう呼ばれた。そう名付けられた。

 以前の名は何であったろうか?

 いつからベルと呼ばれたのだったか……私は何故、守護者となったのか。


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