第38話 ふたりの選択
エイビスの腕を掴んだのはフィアだ。
「今はアレッタですっ!」
叫ぶフィアをおいて、エイビスの体は前にのめり、今にも飛び上ろうとしていた。
実際かかとは床板に沈み、ありったけの力が込められている。
彼の手を振り払おうと、エイビスは掴まれた手に沿って床を見とき、アレッタが目に入った。
彼女は細い息で寝そべり、唇を青く染めている───
「…………っ!」
エイビスは足の踏ん張りを解いた。
それでも拳はぎっちりと握られ、小刻みに震える。どす黒い怒気と殺気が彼の体を包みこみ、刺々しい空気が肌に刺さる。
……直視すれば、自身が怯む。
フィアはそれに気づき、彼から目を逸らし、現実に集中した。
「エイビス、手伝いを」
端的に言うと、エイビスはすぐに横へと屈み込んでアレッタの服をはがす手伝いを始めだした。
ふたりでサロペットをまくり、エイビスがシャツを開く。
すぐに傷口が現れた。
だが、その傷口はとてもとても美しい刺し口だ。
斬り口は2センチほどの小さな傷だが、まっすぐに刺されていたため、綺麗に傷を閉じることができる。
その傷が閉じられても、そこから湧き出た血の量が問題だ。
体の小さなアレッタにとって、血だまりができるほど体外にこぼしている状況は非常にまずい。
傷は瞬く間に治ったのだが、フィアの顔は険しいままだ。
「フィア、どうした」
「血が足りないんだ……」
「なら、ヒトを呼んでくる」
立ち上がったエイビスの腕をフィアは再び掴んだ。
「時間がない。だいたいヒトの血が合うのかも……」
「なら、どうしたら……!」
動きたくても動けないエイビスに、フィアは目を合わせない。
メガネを持ち上げた彼の目は、もう諦めが滲んでいる。
エイビスは諦めた先の、アレッタの末路を想像した。
このまま彼女が死ねば、悪霊となる。
すぐに消滅させ、カケラを集められれば魂を再構築させられる。
しかし、全て集めたとしても、魂の形なるのは何年、何十年かかるかもわからない。
さらに言えば、そこから何に転生するのかもわからない。
神の計らいで再び天使へと転生したら、出会える確率など、もう、微塵もあり得ない……
考えの行き着いた結果に、エイビスはフィアの肩を掴んだ。
「あと4日…4日もあるんだ………
お願いだ……頼む……!」
赤黒く染まった白手袋の手は、あまりに強い。
それほどまでにエイビスの思いに、フィアはため息と一緒に頷いた。
「でも、血がない……」
フィアは思案したあと、エイビスを見つめた。
「……もう、あなたの血しかありません」
告げられたことに、エイビスは戸惑いがあるようだ。
仮面が左右に揺れ、肩が上がる。
「僕の血を使うのは構わない。だけど、拒否反応がでたら……」
「精霊の血は使えない。だがエイビスは可能性がある」
「血液の代用は」
「代用では足りない」
「でも、僕の血でアレッタが…………」
救いたい気持ちは山ほどあるのに、失敗の末路が視界にちらついて決断ができない。
いくらでも差し出したいのに、不安が体にまとわりついて頷けない。
「エイビス、諦める選択もできます……
だけど、貴方は、また、待てるのですか……?」
フィアの目は、可能性を見ている。
救える可能性だ。
エイビスはアレッタを見下ろした。
だんだんと浅くなる呼吸、陶器よりも青くくすんだ肌………
エイビスは覚悟を決め、こくりと仮面を揺らし、左腕をまくった。
「……回復するのに、僕は賭けるよ」
フィアは差し出された腕をとり、すぐに魔力で文字を描きだした。人差し指がするすると滑るが、その指の跡には黒い焦げと皮膚の焼ける臭いが上がる。
その間、エイビスの拳は再び握られていた。
それの意味は、激痛だ。
返しがついた毒針を刺されている感覚だ。
痺れが骨まで響いてくる。
それに耐えながら、エイビスはアレッタを見つめ、張り付いた髪の毛を撫でてはがし、流れる汗をそっと拭う。
「……エイビス、あと、少しです」
手のひらを上にして、手首から肘までその細かな文字は刻み込まれた。
アレッタの左腕をまくり小指程度に文字を描くと、フィアは右手でエイビスの腕を掴み、左手でアレッタのその腕を握った。大の男ふたりが、大きく息を整え、見つめあう。
覚悟を決めた、そんな呼吸だ。
「エイビス、いきますよ……」
「……いつでもどうぞ」
フィアがエイビスの腕に魔力を込めた瞬間、エイビスは床へと崩れた。
立ち膝でもこらえきれなかったのだ。
この痛みは異常だ。
まるで内側から錆びついたナイフでえぐられたあと、手で肉を握り、引きちぎられている感覚が何度も何度も波のように繰り返す。
時間が重なるごとにエイビスの首筋に玉の汗が流れ、空いた左手でネクタイを緩めるが、粘っこい汗は首回りをうっすらと湿らせる。
「あと少しです……すみません、エイビス」
フィアの声にエイビスは首を振るが限界だ。
口を開けば悲鳴をあげそうで、それを顎の奥で留めているのだ。
フィアの手が離れた途端、痛みの根源がきれいに抜き取られた。
思わず尻餅をつくように床に腰を落としたエイビスを置いて、フィアはアレッタを抱き上げ、立ち上がった。
「……さ、アレッタをベッドへ」
つられるように腰を上げたエイビスだが、腕が捥がれた気分だ。だらりと腕を下げてアレッタの顔を覗き込む。心なしか彼女の頬に赤みがさしたように見える。
「エイビス、アレッタに賭けましょう」
「……アレッタなら、きっと、大丈夫……」
移動するふたりの視線は、アレッタに結ばれたままだ。
穏やかな呼吸をするアレッタを見下ろす目は、悲しくも優しい目だった────
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