第37話 3日目は釣り日和【おやつの時間】

 帰り道のほうが早いと感じることはないだろうか。

 行くときは目的地がどこかと探しながらのため、時間がかかっているように感じる。

 だが帰りは目的地が見えているからか、行きよりもずっと早くに着いたと思える、そんな体感時間の差だ。


 アレッタも、速い帰り道を体験していた。

 風が耳元で鳴り、頬が一気に冷えていく。

 景色の色は横に流れ、混ざりあい、ただの緑の帯に見えるほどだ。

 これはネージュがアレッタを抱え、屋敷まで走っていることによる。


 風になったアレッタは、到着と同時に大きく息を吸い込み、背伸びをした。


「ネージュが走ると、風がすごく冷たい」

「そうかもしれないわね」


 荷物を抱えているフィアとエイビスも同じく到着した。

 エイビスは釣り道具の片付けへ、フィアはキッチンへと足を進めるので、ふたりは身軽なままフィアの後ろについて屋敷へと入るが、すぐにフィアからエプロンが手渡され、ネージュとアレッタはそれぞれにエプロンをつけ、手洗いを始めた。その後ろではフィアが材料を次々に取り出し、ボウルや泡立て器など、お菓子作りに必要な準備に取り掛かっている。


「今回、使う材料はそれほど多くないんだ。

 ……そうだ、アレッタ、チョコを食べてみるか?」


 アレッタが何度も頷いたのを確認し、製菓用のチョコレートを口の中へと放り込んだ。

 ネージュも手を伸ばしてきたので乗せてやると、ニコニコ顔で口に含む。


 だがお互いに無表情だ。


 まるで、美味しくない。

 むしろ、苦い。

 なんとか飲み込めたが、これが『女の子なら誰もが好きなお菓子』とは到底思えない……


 むくれたふたりの顔に笑いながら、フィアはチョコレートの袋を掲げた。


「これは製菓用のチョコなんだが、今回はそれほど甘くないのを使おうと思う。

 市販のチョコレートはもっと甘いぞ。今日は残念だったな」


 アレッタは心底残念がりながらも、チョコに興味をしめすエンにそれを差し出した。

 だが、その手がぱちりと叩かれる。


「フィア、叩くことないじゃない」

 ネージュはアレッタの手をさするが、フィアは大きく首を振った。


「エンはチョコを食べられないからな。中毒症状がでる。子供だから危ないんだ」

 この言葉に、アレッタは目を見開き、再び涙をにじませた。またエンに悲しいことをしてしまうところだったからだ。アレッタはエンを抱きかかえ、頬ずりをしながら、「もっとエンのこと、勉強するからな」何度何度も呟いている。

 フィアはそんなアレッタを見下ろし、言葉をつなげるが、


「……とはいうんだが、それはこの世界の猫の話なんだ。

 ブロディは魔界の魔獣だから、もしかしたら、中毒は起こさないかもしれない……

 ……よし、食わせてみよう」


 チョコを差し出してきたフィアに、


「だ、だめだ!!!!」


 アレッタはエンを抱え直して頭に乗せると、降りないように言いつけた。エンはわかったらしく、しっかりとアレッタの頭につかまり、小さく鳴いて返事をする。

 その2人のやりとりに、フィアは残念そうに眉をあげ、ひと息つくと、シャツの腕をまくり、腰にいつものエプロンを巻きつけた。


「では、中にいれるガナッシュを作ろう。焼きあがったときにガナッシュが溶けて、これがうまいんだ」


 フィアの指示で、ふたりはチョコレートを湯せんで溶かしたり、生クリームを温めたり、バターを混ぜたりと、甘い香りに包まれながら、ゆっくりとお菓子作りはすすんでいく。

 その香りとともにアレッタのはしゃぐ声、そしてネージュの笑い声、これは今までにない音だ。

 エイビスはそれをダイニングのテーブルごしに聞いていた。

 自身でいれたのか紅茶をすすり、新聞を読みながら時折ちらりと仮面が揺れて、なんとも優雅な休日のお父さんだ。

 となれば、フィアは母親だろうか。

 あれこれと手際の悪いふたりをフォローしながら、厳しくも褒めてやらせる姿勢は素晴らしい。


 アレッタとネージュはフィアママの指導のもと、焼き型に生地を絞り出す作業へと入っていた。

 ネージュが生地をしぼり、その中に凍らせたガナッシュをアレッタが入れていく。


「ネージュ、生地は型の半分だといっただろ」

「わかってるわよ!」

「ネージュ、こぼれてる……」

「……スプーンですくえば同じよ」


 いびつに流し込まれた生地の中に、アレッタはぽとりとガナッシュを落し、スプーンで生地を馴染ませていく。


「この生地だけでもおいしそうだ」


 涎でいっぱいのアレッタの頭をフィアは掴み、


「飲み込め」


 アレッタは言われるがまま、ゴクリと飲み込んだ。


 全て入れ終えると、フィアは慣れた手つきでオーブンにそれをしまい、ダイヤルを少し回して頷いた。


「よし、あと10分くらいで焼きあがる。お茶を入れるから座ってろ」


 フィアの言葉通りに、アレッタはダイニングテーブルへと歩き出した。後ろを振り返ったアレッタは、目を輝かせながらネージュを見上げ、飛び上がった。


「ネージュ、あと10分で焼きあがるぞっ!」

「そうね」


 微笑んだネージュがアレッタの頭を優しく撫でる。


 瞬間、何かが窓に当たった。

 唐突に窓ガラスが砕け散る。

 激しいガラスの崩れる音が鳴り響き、白く光る鋭利な雨が降る。

 アレッタが身構えたとき、ネージュが素早く抱き寄せた。




「……私のアレッタ…」




 耳元の言葉と、胸部の熱に、アレッタの思考は固まった。


 空気が止まる。

 音がしない。


 手を伸ばすが、その手は伸びていかない。


 目に入ったのは、赤だ。



 赤……



 アレッタの足はもつれ、床へと崩れた。

 体温が一気に下がり、顎が震え、目も霞む。



 だが、ただただまっすぐ歩くネージュから目を離せない。




 もう一度、名を、呼びたい────




 アレッタの願いは虚しく、唇は揺れただけだった。


 エイビスとフィアが叫んでいるが、耳に栓でもしたように、何も聞こえない。

 ごわごわとした音のなか、アレッタの瞼は重く閉じたのだった。

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