第11話 2日目の始まり

 アレッタは日の出とともに目を覚ました。

 置き時計を見ると、現在5時を回ったところ。すでに陽は高く昇り、今日も1日、居心地の良い日になりそうだ。

 ベッドをすり抜けると、抜け殻のように小さなトンネルができている。

 ネージュを起こさないように、まずは洗面台に向かった。

 アレッタは朝起きてからすることを昨日フィアから教えてもらっていた。

 一番最初は部屋に備え付けてある洗面所で顔を洗って、歯を磨く。

 そして、着替えを済ませたあと、7時に食堂へ来ること───


 言われた通りに洗面所に行き、顔を洗おうと手を伸ばすが、届かない。

 台を持ってきてようやく届く。


 が、今度はタオルがない。

 台を移動して、取り出す。


 歯ブラシをするために、洗面台にまた台を動かす。


 歯を磨き終えたが、口をすすぐのに背伸びをしなければならず、たまらず叫んだ。


「不自由すぎるっ」


 幼いころでも羽があれば浮かべたため、高さの苦労を感じたことがなかった。

 だがヒトは飛べない。

 これほど小さい体が不自由だとは思っておらず、アレッタは衝撃を受けていた。


「あたしのアリー、おはよう」


「……おはよう、ネージュ」


 歯ブラシをくわえたアレッタの表情は無表情に近い。


「なんで朝からそんなに気分落としてるの?」


「この小さな体が憎いんだ……」


「使いづらいのは仕方がないわ。あなたは魔力が強かったから」


 意味がわからないと、泡のついた唇をアレッタは歪ませる。

 それをネージュはそっと拭い取った。


「普通のヒト堕ちは、そのときの体でただ魔力を抜かれて堕とされるんだけど、アリーの場合、魔力を抜くだけじゃなく、体を小さくしなければヒトに近づけなかったのよ」


 うがいを終えたアレッタが大きく頷き、

「それは確かに理解できる」

 小さい腕を器用に組んで、言った。

 確かに体が元の大人であったなら、力がヒト並みであったとしても、オークの束など屁でもない。


 あと20分で7時となる。

 さきほどから甘い香りが部屋へと入り込み、アレッタはうずうずしていた。

 朝食というのはどんなものなのだろう、と。


「さ、着替えを済ませて食堂へ行きましょう」


 アレッタは待ってましたとばかりにドロワーズを履き、パニエを身につけ、ワンピースに袖を通す。

 カフスのボタンを締め、鏡を見ると、やはり萎えるが、朝食が待っている!


 部屋を飛び出そうとしたとき、腕がひっぱられた。


「髪の毛がまだよ」


 ネージュは器用に編み込みを施し、結い上げた。襟足に髪がなくなったことで首元が涼しくなり、動きやすく感じる。


「ネージュ、ありがと」


「さ、朝食を食べに行きましょう」


 廊下の奥に設置された振り子時計が音を鳴らし始める。

 ボーン、ボーンとなる音に紛れて、鳥のさえずり、キッチンから響く食器の音……

 この騒がしい朝に、アレッタは微笑んだ。

 これがヒトの世界の始まりなのだと感じたからだ。


 キッチンへ続く扉を開くと、甘い香りが一気に強くなる。

 焦げたバターのいい匂いが鼻先をくすぐって離れない。


「朝のメニューはフレンチトーストだ。残すなよ、アレッタ」


 昨夜と同じ椅子に腰を下ろすと、同時にフィアが言ったメニューが滑り出てきた。

 昨日とは違うパンが、黄色みを帯びて焼かれている。

 フチはカリッといい焦げ具合で、フォークでつつくと中はふんわりしているのがわかる。


「これをかけろ」


 フィアに差し出された茶色い液体からも香ばしい甘い香りがする。

 たっぷりとかけてから、ひと口、アレッタなりに上品に運んだ。

 口いっぱいに入ったフレンチトーストはほんのりと甘い。これが卵の味のようだ。

 さらに焦げたところにバターが染み込んでおり、じんわりと舌に広がっていく。

 からみついた茶色い液体はメイプルシロップというそうだ。甘さがひかえめでありながら、香りが豊かなものだ。香ばしくも感じる甘い香りに、アレッタは満足そうに笑顔を作った。


「ふごくうみゃ」


「飲み込んでから話しなさい」

 ネージュにぴしゃりと言われ、アレッタは急ぎ足で飲み込むと、


「フィア、すごく美味しいです。卵は甘いんですね」


「アレッタは甘みに弱いな」


「どういうことです?」


 もうひと口と口に運び、顔全体でフレンチトーストを楽しむ彼女に、フィアはため息交じりに言った。


「どの料理を聞いても、甘くて美味しいというぞ、お前」


「だって一番美味しい味です」


 2つ目のフレンチトーストに手をかけたとき、欠伸の吐く音と背伸びの仕草をしながらエイビスが入ってきた。


「みんな、おはよう」


「おはよう、エイビス」


 アレッタは挨拶はするが、シロップをかけることに夢中であるようだ。

 彼女は手元を見たままの挨拶をし、真剣にシロップを流していく。

 適正量というのがある。

 かけすぎてもいけないし、かからなすぎるのも物足りない。

 エイビスは慎重にシロップをかけるアレッタを横目で見て、椅子に腰掛けた。

 彼が顎先を撫でると、それだけで口元が現れる。それと同時にエイビスにはコーヒーと果物がトレイに乗って運ばれてきた。

 トレイがテーブルに着く前にコーヒーカップを取り上げ、すぐに新聞を目に通しながら飲み始める。


 アレッタはようやくシロップを満足いくまでかけられたのか、昨夜より上手になったナイフさばきでフレンチトーストを切り取っていく。そこへたっぷりのシロップをすくい染み込ませると、大事そうに大きく開けた口の中へ運んだ。再び甘く香ばしい余韻に浸るアレッタは、実に幸せそうだ。


「エイビス、フィアのフレンチトースト、すごく美味しいですよ」


 アレッタは与えられた甘いミルクティを飲み込み、つまりかけた喉を開通させた。


「僕は朝はコーヒーとフルーツでいいんだ」


「食べられるのに食べないんですね」


「食べないを選べるのも、魔族の特権だよ」


 なるほど。アレッタは再びフレンチトーストを口へと届けていく。

 だが昨日よりは上手になった、というだけで、決して上手ではない状況に、エイビスは見かねてか、アレッタの脇に手を入れ持ち上げると、昨日同様、アレッタの席にエイビスが座り、その自身の膝の上に彼女を乗せ直した。


「アレッタ、もう一度ナイフとフォークの使い方を勉強しようか。

 しっかりフォークで食べたい場所を押さえるんだよ?」


 彼女の手を取り、エイビス自身もフォークを持って、動かしていく。ディナーの時の再現だが、二人羽織の状況とも言える。


「次にナイフを当てるが、そんなにギコギコしなくていい」


 優しくこするだけでするりとナイフが入っていくのがアレッタの感触でもわかった。


「切り取れたら、ここに生クリームをナイフですくってなする。で、食べる」


 エイビスがアレッタの手を使って器用に口に運んでいき、一口含むと、アレッタが足をばたつかせた。

 あまりの美味しさに感動したようだ。


「私も自分でやってみます」


 食べたい場所にフォークを刺し、ナイフを当て、ゆっくり刃を落としていく。綺麗に切り落とせたフレンチトーストに生クリームをトッピングする。

 黄色に染まったフレンチトーストにメイプルシロップの淡い茶色の液体がてらてらと覆い、そこにゆるめの生クリームがたらりと下がる。


 どこを食べても甘くて美味しいです! 


 そう、叫んでいるとしか思えない。


「エイビス、これは絶対美味しい比率です」


 そういってエイビスの口元へとアレッタは運んでいく。


「え、僕、いらな……」


「これは絶対美味しいのですよ」


 アレッタの口の中は涎でいっぱいのようだ。目がまんまるに輝いている。

 それでもこの美味しい食べ物をエイビスに食べさせたいようだ。

 しかたなく口に入れてもらい、エイビスは飲み込むが、


「……うまいな」


「でしょ?」さらに丸い目に輝きが増した。


「フィア、僕にも1枚ちょうだい。アレッタと半分にするよ」


 2人で楽しく食事をする姿をキッチン越しに眺めていたフィアがぽつりとこぼした。


「これが、尊さか……」


「嫉妬すら浮かばないんだもの。これが尊いってことよ」


 キッチン越しのネージュも同意し、コーヒーを啜った。

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