第7話 初めてのオフロ
ネージュはすでに場所を理解しているようで、部屋から出ると右へと体を向けた。
一番奥の扉にたどり着くと、ノックもなしに入っていく。
それほど広くはない部屋だが、洗面台が見える。
隣には姿見が置かれ、ここで身支度も整えられそうだ。
備え付けられた棚には大小様々の雲のようなタオルが詰め込まれ、隣には石鹸やオイルなどが置かれている。
奥にはカーテンが下がり、さらに湯気が上がる猫足のバスタブとシャワーヘッドが見える。
だが、アレッタはそれを見てもなんの道具かわからないでいた。
脱衣所に降ろされるが、一体なんなのかと壁際に体を寄せながら、
「……ネージュ、オフロって?」
「お風呂は、お湯で体を洗うこと。
あたしも一緒に入るから洗ってあげる」
瞬く間にアレッタの服を脱がし、さらにネージュも服を脱ぎ捨てると、彼女を湯船の中へと放り込んだ。
カーテンを引き、脱衣所とお風呂の境をつくると、ネージュはバスタブの横に置かれていたハーブ石鹸を手に取った。それをバスタブの湯につけ、泡立てていく。
手のひらいっぱいに出来上がった泡をアレッタに見せ、触ってごらんと仕草で示すと、彼女は恐る恐る指をつけた。ふんわりとした柔らかさに驚いた表情を浮かべながらも、興味があるようでじっと見つめている。
「お風呂なんて天使は入らないものねぇ」
ネージュはふかふかの泡を、まずはアレッタの腕につけ、そっと撫でていく。
その柔らかい感触にアレッタは子供らしく嬉しそうに声を立てた。
「気持ちいいな」
「でしょ? お湯で体を温めるのもいいものよ、アリー」
与えられた泡を自身の小さな手で体につけて撫でていく。ときおりできるシャボン玉にも嬉しいそうに笑うアレッタを見下ろしながら、ネージュは彼女の髪を洗う準備に入った。
すみれ色の髪を泡で包み始めたとき、ノックとともに脱衣所の扉が開き、カーテン越しに声がかかる。
「おい、アレッタの服、ここに置くぞ」
フィアである。
「あたしの服はぁ?」
「貴様にはもうやっただろ」
ネージュに吐き捨てるように言い返すが、彼女はかまわず、
「女は着飾りたいものよ?」
言い終わらないうちに水しぶきの音が鳴る。
カーテンに浮き出たふたりのシルエットが急にばしゃりと動いたからだ。
「ちょ、ネージュ、……胸が、顔に、当たるっ」
アレッタが何やらもがいているようだ。
「胸? 胸もふわふわするでしょう?」
シルエットはふたり重なり、離れて、重なりを繰り返しているが、綺麗な体のフォルムをかたどり、どこが出ていて揺れているのがよくわかる。
「泡のほうがいい。弾力がありすぎる、ぞ。
……い、息ができない。
こ、こら、ネージュ、胸が、もう、頬にこすらないでくれっ。
……あ、フィア、服、ありがとう、助かるよっ」
声をかけるが、無言のままドアがばたんと閉じられた。
ネージュはくすくす笑っているが、アレッタは一体何が起こったのかわからぬまま、首を傾げた。
「さ、頭を洗うから、目を閉じて」
しっかりと目を閉じると髪の毛に泡が足され、ネージュの大きな手がアレッタの頭を包んでいく。
指の腹でごしごしとされるのがこんなに気持ちがいいとは、アレッタの顔が思わずほころんだ。
「ネージュ、頭を洗うって気持ちがいいんだな」
「そうね……あ、アリー目を開けちゃダメ! 石鹸が目に入って……」
ネージュの言葉に返事をしようとしたのが間違いだったのか、アレッタはお湯の中で暴れることになる───
ひと通り体も髪も洗われた。
目はまだじんじんと痛むがじきに治るという。
ネージュはお湯を入れ替え、布袋に入れられたハーブの束をお湯につけて手で揉んでいる。
すぐにハーブの香りが立ち込め、アレッタは再び可愛らしい声をあげた。
「いい香りだっ」
ばしゃばしゃとお湯をすくっては匂いをがぎ、お湯をかき混ぜる彼女を捕まえ、
「さ、はしゃがないの。肩まで入りなさい、アリー」
ネージュは無理やり肩まで浸からせた。
ハーブの香りが爽やかで、さらに体の芯まで温まるのがわかる。じんわりと伝わるお湯の熱に、アレッタは幸せのため息をついた。
「お風呂は気持ちがいいな……
ネージュ、天界に帰っても入りたい」
「そうね。お湯をいっぱい作ればいいんじゃない?」
「その時はネージュも手伝ってくれ」
「いいわよぉ」
ふたりでバスタブのフチに顎をのせ、湯気を堪能する。
しっとりする肌をお湯でぬぐい、
「あの怒りん坊いるでしょ?」
ネージュが切り出した。
「ああ、フィアだな」
「あの子あんなに怒ってたけど、あなたを死なせないように必死だったのよ」
アレッタは意識を失っていたのが、それはもう瀕死の状況だった。
すぐにエイビスの召喚魔術でフィアが呼び出され、彼が処置を施したのだ。
だが処置の間は罵倒の嵐だったと聞き、アレッタは耳を塞いでみる。
「……しかし、ネージュ、よく私が堕ちた場所がわかったな」
「言ったじゃない、一心同体って。あたしのアリー」
再び頬をくっつけられて、アレッタはしかめっ面をする。
「まさか人の形を取れるとは知らなかったがな」
「今はただの精霊だもの。人の形に戻るわよ」
「聖剣ではなくなったのか?」
「アリーが神の左手じゃないなら、聖剣でいる意味はないわ」
「どういうことだ」
飛沫をあげてネージュを見上げるが、ネージュはどこ吹く風、である。
「あたしは、あたしの選択をしただけよ。
……そうね、今の天界には聖剣がないから、悪霊との戦いは不利ね。
でもそんなのドゥーシャが創ればいいじゃない、神の右手なんだし」
「確かにそうかもしれないが、戻りなさい、ネージュ」
「いやよ。あたしはアリーのそばにいるの」
「馬鹿言うな。天界が間違っても滅びることがあっては大変なことになる」
「あたしには関係ないわ」
「何を言っている。私の冤罪を晴らせられないだろ?」
「確かにそれはそうね……
でもあたしがいなくても、そうそう天界が潰れることはないわ。
だってたった7日だもの。
7日したら、天界に戻れるんでしょう?」
「そうだが……」
天界の時間と、このヒトが住む世界の時間は速度が違う。
天界の1日は、ヒトの世界で7日分となる。
今の過ぎた時間も、天界にすれば3時間にも満たないものだろう。
アレッタは腕を組んでしばし考え、
「はぁ……今回きりだぞ?」
幼い顔でネージュに告げた。
あまりに幼い彼女では説得力のない言葉だが、ネージュはその言葉に満面に笑顔を散らした。
「アリーの、今回きりって言葉、あたし、大好きっ」
「だから、胸を、顔に、寄せるなっ」
ほどなくして湯船から上がると、体を拭きあげ、与えられた服を手に取った。
それは手触りがとても素晴らしいベロアのワンピースだ。
真紅のワンピースはスタンドカラーで細やかな刺繍レースがあしらわれ、さらに肩から胸元にもレースが続く。真っ赤なだけでなく、光沢あるレースで覆われたことで清楚な雰囲気がある。袖は長く、カフスもある。白いカフスには花柄の刺繍が描かれ、どこまでも芸がこまかい。
ネージュが言う通りに、アレッタはふりふりのドロワーズを履き、さらにふかふかのパニエを装着し、ワンピースに頭を通す。背中にある包みボタンを留めてもらい、髪は編み込みで結い上げられた。
「できたわ。見てみてっ」
よほどの出来栄えなのか、うきうき顔のネージュによって鏡の前に立たされた時、アレッタは鏡を見つめたまま、固まった。
「……誰だ、これは……」
「アリーじゃないのよ」
右手を動かせば、鏡の相手も左手を動かす。頭を撫でて見ても、頬を撫でて見ても、どれも同じように動くが、どれも自分ではない!
アレッタは心の中で叫び、床へと崩れ落ちた。
脱衣所に備えられた姿見に写し出された姿は、『女の子』だ。
「……これじゃ、…戦えない……」
「何言ってるの、アリー。これからディナーよ。身だしなみはしっかりしないと。アリーは初めてのご飯よね? 私もなの。楽しみだわっ」
踊る心のままアレッタの手を取り脱衣所を出たネージュは、彼女を引きずるように廊下を歩き出した。
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