第4話 追われる身 3
アレッタががちりと肩を強張らせたとき、すぐに腰に手が回された。
オークに抱え上げられたのだ。
このまま終わるのか……
だが、諦めきれない……!!!
アレッタは最後の抵抗に、オークの顎に向かって拳を突き上げた。
渾身の力だ。拳は顎に届き、がつんと音が響く。
だが思ったよりも硬い。
そう、音がした。
さらにいえば、ぐにゃりとした肉の感触ではなく、鉄の感触───
アレッタはしっかり結んでいた瞼をほどき、そっと見あげた。
そこにはごつい豚鼻をしたオークはいなかった。
小さな拳の形に凹んだ草木の顔がある。
草木の精霊がいる。
いや、よく見ると、顔だが、顔じゃない……!!!
「……仮面……? え、精霊じゃない……!?」
「君、何言ってるの……?」
仮面越しの声は耳障りのいい、若い男の声だった。
すぐに迫ったオークに対し、彼はアレッタを小脇に抱えたまま、黒い外套をひるがえして、振りかざす棍棒を難なく避ける。
簡単な足さばきでオークを転ばせ、さらに踏みつけ跳ね上がる。
腕を伸ばすオークの鼻に蹴りを入れると、後ろへ転がし飛ばした。
すぐにオークの群れが道に詰まり動けなくなる。
男はすぐに後退し、
「逃げるよ、子供」
男はアレッタを抱え、走り出した。
その行動のあまりのことにアレッタは固まっていた。
だが助けてくれようとはしているのだ。
アレッタは深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせることにする。
改めて見上げると、やはり顔は鏡面のような仮面を被っている。
それに森の草木が映り込み、草木の精霊だと勘違いしたのだ。
アレッタは自分の早とちりに呆れながら、目の前に流れる景色を眺めていた。
逃げ足がヒトより、とにかく早い。
羽で飛んでいるかのような早さだ。
気づけば仮面につけた傷も消えている……
この男は、間違いなく貴族以上で、かつ魔力を持つ人物だろう。
そして、自分へ危害を加える可能性が少ないというのも、間違いない。
なぜなら、抱える力が柔らかい。
崖を登る今も、ただ抱えているのではなく、しっかり抱きとめ、そして背を支える手がとても温かい。
殺伐とした時間のなかで、唯一の温もりに出会えた気がする───
アレッタは思わず男の外套を小さな手で握る。
それに応えるように男の手が優しく背を撫でた。
だがそんな時間は長くはなかった。
崖を登りきると、近くにあった納屋へとアレッタを抱えたまま入っていく。
ここに身を隠すようだ。
だがそれほど遠くない場所からオークの唸り声が聞こえる。そうとう怒り狂っているのがわかる。
納屋の中は埃っぽく、息苦しく感じるほどだ。
窓もない納屋だ。仕方がない。
ここには壊れかけた空の樽がいくつかと、藁がひと山、あと棚がひとつあるだけだ。
男はその納屋の中にアレッタをそっと下ろした。
自分は藁山を背に腰を落ち着け、白い手袋の埃を払って深呼吸する。だが息を大きく吐いたわりには息切れはしてはいない。
カビの湿気った臭いが充満するなか、アレッタは頭を下げた。
「巻き込んでしまってすみません」
男はそんな少女をまじまじと見つめ、小さく肩をすくめてみせる。
「……君、天使でしょ。元だろうけど」
「よくわかりましたね」
アレッタは素直に返事をする。
隠せていないのなら、隠す必要がないからだ。
アレッタが薄く微笑むと、男はついと体を寄せ、仮面越しにアレッタの髪をすくいあげた。
そして、そっと匂いを嗅ぐ仕草をする。
「この香りは、誤魔化せないからね」
「汗臭くてすみません」
アレッタは慌てて体を撫でてみるが、男は声を立てて笑い、
「違うよ。ヒトの世界でいうなら、君から漂う香りはワインの香りに似ている。
最上級のワインの香り。気品にあふれた繊細な香りだよ。
だからオークに狙われたんだろうね。
ヒト堕ちであってもその血には魔力がある。さらに香りもいい。
その血を飲めば永遠に生きられるっていうジンクスすらあるぐらい。
売れば相当の金になるし。だいたい7日で死ぬからね、ヒト堕ちの天使は。
だから君の死体でも、とっても高価だね」
その男の言葉に、アレッタは首を傾げた。
「あなたはそこまで知ってるのに、私を売らないのですか?」
「僕に幼女趣味はないよ。
……確かに僕は魔力の血をブレンドしたワインを造ってる。おかげで大金持ちだ。
だけどね、堕ちた天使でブレンドなんて、どれだけ金を積まれても、僕は絶対に造らない……」
吐き捨てるように言った彼だが、顔は見えない。
だがどこか苦々しげに、声は尖っていた。
「そうですか」
アレッタは少し考え、そして仮面をしっかり見つめた。
「それでは逃げる際、私をオークに差し出してください」
腹を括った幼女の声に男は鼻で笑い、
「危なくなったらそうさせてもらうよ」
その声にアレッタは微笑み、お願いしますと付け加えた。
近くで木々の倒れる音がする。オークが近くまで来ている証拠だ。
アレッタは納屋の土壁に耳をつけて外を探るが、なかなか状況が掴めない。
そんな中でも男は余裕の雰囲気で、積まれた藁を摘んで床に散らしながら、
「何か、君の手に足りないものがあるみたいだね」
彼女の手を藁でさした。
アレッタも気づき、自分の手を見て小さく笑う。
ちょうど柄を握るように手が丸まっていたからだ。
「剣があれば、少し違うのですが……」
「君、
「よくご存知ですね」
「そこに鎌がある。使えないの?」
「彼女と約束したのです」
「彼女……?」
「彼女ネージュは、聖剣であり、私の大事なパートナーでした。
彼女が私を神の左手として選び、その時に言ったのです。
『私以外の武器は持たないで』と。
……私はヒト堕ちし、もう神の左手ではない。
それでもネージュとの約束を果たしたかった。
ですが先ほど棍棒も使ってしまいましたし、あなたを守る義務がある。
この約束はもう守れそうにありませんね……」
アレッタは草刈り鎌を手に取った。柄が長く、刃も長い。死神が持つ鎌と同じ形だ。
持って構えてみるが、彼女の身長には大きすぎる。
だが聖剣の彼女であればこんなことにはならない。
魂の宿る聖剣は、アレッタと意思の疎通ができのはもちろん、何より剣の形、長さまでも変えることができるのだ。
「……会いたいよ、ネージュ…」
アレッタは優しく呟いたあと、顔を引き締めた。
彼女は彼の盾に少しでもなれるよう前に立ち、鎌を構える。
血の滲む足に力を込め、いつ来るかわからない薄い扉を睨む。
アレッタが息を止めた次の瞬間、薄い扉が粉々に砕け散った。
土煙を割るように、入り込もうとするオークの姿が現れる。
「捕まえろっ」
埃が舞う納屋へオークが踏みこもうと、足が、腕が、伸ばされる。
だが小さな戸枠のため、彼らが自由に動けないことを逆手に取り、アレッタが一歩踏み込む。
その肉壁が一瞬にして消えた意味を、彼女は気づいていなかった。
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