第33話 機能の回復

 退院してから数日間、小熊はひたすらカブを乗り回した。

 一ヶ月少々の入院で休んだ授業を取り戻す補習や追試、常に整頓された病院に慣れた体には貨物船の底のように散らかっていると感じた部屋の片付け、冷蔵庫の中身の処分や一ヶ月放っておいた諸々の支払い手続きなど、何かと忙しかったが、暇を見つけてはカブに乗った。

 最初は慣れ親しんだカブのシートと、原付の移動速度に違和感を覚え、近所を回るだけで帰りたくなったが、少しずつ距離を伸ばし、何とか事故前の勘を取り戻す事が出来た。

 椎の両親からは退院祝いの食事会を催したいという誘いが来ていたが、今は椎の受験直前という事を考えて遠慮した。

 

 退院から数日が経過した午後。

 授業と補習を終えた小熊はカブに乗っていた。

 バイクの事故で足を折ったのに、何事も無かったかのようにバイクで通学して来る小熊に呆れた様子の担任教師からは、卒業単位を稼ぐべくたっぷりと宿題を出されが、それは夜にやればいいと思った。睡眠時間は短くなるけど、入院中に充分寝た。

 昼下がりの幹線道路で、車体の動力機関には事故の影響を微塵も感じないカブを走らせていると、背後から不穏な音が聞こえてくる。改造バイク特有の低く連続した破裂音。

 バックミラーに赤い影が映った時は、スロットルを回して振り切ろうとしたが、赤い改造バイクは小熊のカブに追いつき、危険なまでの幅寄せをしてきた。

「おかえり」


 ハンターカブで小熊のカブを追い抜きながら言った礼子は。それからハンドサインでUターンすることを伝えてきた。

 礼子の後ろについていくような形で幹線道路を転回した小熊は、しばらく走った後に道路を曲がり、間道に入った。

 再び小熊のカブに横付けしてきた礼子が、ワークブーツの爪先で小熊をつつきながら言った。

「椎ちゃんのパパが、来て欲しいって」

 食事の誘いなら丁重に断ったはず。それなのにあえて来て欲しいと言うなら、何か理由がある。それが面倒な内容だったとしても、健康的で質素な病院食よりボリュームのある、椎の両親の作る料理の魅力には抗えなかった。

 小熊は手で了解を伝え、礼子と共にBEURREへと向かった。 

 

 店に着くと、椎の両親は全身で喜びを表した。

「退院おめでとう! 我が友人と再びこうして食事が出来る事を心より嬉しく思う」

 小熊はライディングジャケットのジッパーを下ろしながら答える。

「入院中は色々と世話になりました。今日は快気祝いを用意できなくて申し訳ありません」   

 いつの間にか小熊の背後に立っていた慧海が、生まれながらに身に付いたスマートで優雅な仕草で小熊のジャケットを脱がし、丁寧な手つきでハンガーに架けた。

 椎の母は小熊の遠慮を打ち消すような陽気な口調で言う。

「病院で不味いご飯ばかり食べてたんでしょ? 今日からは毎日でも食べに来て」


 小熊は慧海の引いてくれた椅子に着席しながら答える。   

「病院の食事は悪くなかったですよ。でもこの店の料理とコーヒーはずっと恋しかった」

 レストランでも誰かに椅子を引かれるのを嫌う礼子は、それを承知している慧海に目だけで礼を言い、自分で引いた椅子に無遠慮に腰掛けながら言った。

「わたしはあんな刑務所みたいな飯を食わされたら、その日のうちに脱獄してるわ」

 小熊は礼子の頬に拳を当てながら言った。

「不健康な食事で体が汚れきっている。事故でも起こしてしばらく入院したほうがいい」 

 椎の両親は小熊と礼子のやりとりを見て微笑んでいた。

 

 BEURREのディナーは、いつもながら見事なものだった。今日は椎の母がメインシェフになったらしく、アメリカントラディショナルな内容。T字の骨が入った分厚いポーターハウスステーキは噛むと肉汁が口内に迸り、サワークリームとオニオン、ベーコンクリスプがたっぷり挟まれたベイクド・ポテトは、普段の小熊ならこれがメインディッシュになるほどの量と質。添えられたポークアンドビーンズも缶詰物とは違う味がした。

 ロックフォールというピリっと刺激的な味のブルーチーズがかかったサラダは、家でも真似して作りたいと思ったが、チーズとビップ・レタスの材料費だけで、小熊の数日分の食費になるだろう。

 椎の父が受け持ったデザートのカイザーシュマーレンと呼ばれる、細く千切ってプラムソースを絡めた濃厚なパンケーキと、小熊には苦味が強すぎたが礼子が大喜びしていたドングリのコーヒーを味わった小熊は、椎の父に言った。

「で、お話は何ですか?」

 椎の両親はいつも小熊たちが訪問するたび自慢の料理で歓待してくれるが、今日は幾つか不自然な事があった、一度断ったのに頼み込まれるように誘われた事。普段は小熊たちが居る時はビールやワイン等のソフトリカーを飲んでいる椎の父母が、今日はフォアローゼスのバーボンと、ジャガイモ蒸留酒のシュナップスを出しているが、全然進んでいない。何より小熊が来ると真っ先に胸に飛び込んで来るはずの椎が姿を見せなかった。

 少しの間逡巡していた椎の父は、重い口を開いた。 

 

 椎の父の話では、椎と今、受験の事について意見が分かれているらしい。

 志望校も入学後の住まいも既に決まっているが、数日後に受験を控えた椎は、自分のリトルカブで試験会場に行くと言い出している。

 山梨の北杜市から試験の行われる東京の紀尾井町まで百五十km。原付で行けなくもない距離だけど、リスクも大きい。

 悪天候や交通障害。何より事故の危険性を案じた椎の両親は、列車で行くか、自分たちが車で送ることを提案したが、椎はリトルカブで行くと言って聞かない。椎の話では、その日の試験はテスト用紙に答えを書くだけでなく、この大学で自分が生きていけるかどうかを試すものだという。

 小熊さんも礼子ちゃんも居ない場所で、リトルカブと自分だけでどこまでの事が出来るのか、それがわからないうちは先に進めないと言われ、困り果てた椎の両親は、説得のため小熊と礼子を呼んだ。


 小熊はどんぐりコーヒーの苦みを味わいながら椎の両親の話を聞いていた。礼子は慧海に冷蔵庫から出してもらった練乳をコーヒーに入れ、ベトナム風コーヒーにして飲んでいる。礼子は卒業後にハンターカブでアジアを旅したいと言っていた事を思い出した。

 小熊は慧海を見た。コーヒーにフォアローゼスを注ぎ、ボトルから垂れる雫を見事な仕草で切っていた慧海は小熊の視線に気づき、バーボンコーヒーを一口飲んでから言った。

「姉さんは子供じゃない。自分で決めること」

 それを聞いた小熊は、椎の両親に言った。

「行かせたらいいと思います。私に考えがあります」

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