第32話 退院
カブの部品交換が順調に終わり、小熊は満ち足りた気分で病院へと戻った。
小熊からの奢るという約束を病院地下食堂のカレーライスで済ませられた後藤は少々不本意な様子だったが、食事しながらもネットを見ている彼女はどうせ何を食べても同じだろう。
小熊も入院して以来始めて来た職員、来訪者兼用の食堂で出されたビーフカレーは、周囲の客が交わす会話が総じて重苦しい事を除けば悪くない味だった。後藤は味よりノートPCを操作しながら片手で食べられる事を気にいっている様子。
何か些細な忘れ物をしていた気がしたが、それが何だったのかは病室に帰ってから判明した。桜井に頼まれた修理中のフュージョンの画像。
小熊が病室で眺めるため自分のスマホで撮ったカブの画像の片隅に映っていたので、それを見せたところ、桜井は悲鳴を上げた。
納車当日にアクセルの開けすぎによるホイルスピンで横一回転し、その後路上でバウンドし縦に一回転して、振り落とされた桜井を踏み潰したフュージョンは、既にシノさんの手で概ね修理を終えていた。
小熊は自分の操縦するバイクに自分で轢かれた桜井の懐具合に気を回し、中古部品で出来るだけ安く仕上げて欲しいと頼んでいたが、シノさんは珍しく小熊のオファーに忠実な仕事をしてくれた。
前オーナーの浮谷社長が白いカラスと付けた名の通り、純白で揃えた外装のあちこちが割れ、吹っ飛んだフュージョンは、解体屋にエンジン焼きつきの廃車として入庫したフュージョンの部品を流用して修理した結果、白い車体のあちこちに黒い外装パーツが取り付けられ、白と黒が混じりあった姿になっていた。
小熊としては柄にもなくかっこつけた白いフュージョンが、白黒のパンダみたいな間抜けな姿になっているのを見るたび笑いが止まらなかったが、純白のフュージョンが自分の清里のシスターとしてのイメージに似合っていると思っていた桜井は泣きそうな顔をしている。
足に嵌った牽引具をガチャガチャ鳴らしながら「なんだよこれ、なんだよこれ」と繰り返す桜井には「文句があるなら自分で塗れ」と言っておいた。
小熊は桜井の醜態を見物しながら思った。彼女は気づくんだろうか、中古部品の寄せ集めで走るのが恥ずかしいバイクは、新品部品の高額な見積もりで直せる見込みの無いバイクよりましだという事を。それに白と黒のバイクは、穢れなき修道服を身に纏いつつ、中身は人格品性共に最低な桜井のイメージによく似合っている。
とりあえず、もうすぐ牽引処置が終わり二度目の手術を控えていて、不安から治療に対し消極的になっていた桜井が、何としてもフュージョンを白く塗り直し、再び走り出すために絶対退院してやるいという決意を固めた事を確かめた小熊は、夕食のワゴンが運ばれていく音を聞き、自分の腹が鳴ることに気づいた。
最初は何て不味い飯だと思っていた病院食が、今では旅行や外出から帰ってきた時、やっぱりこれが一番美味しいという安心感と共に食べる物になっていた。
翌日からは再び何もしない、何もしなくていい日々が続いた。
手術の傷口も塞がり、リハビリによる機能回復もほぼ終わり、事故の手続きやカブの整備も全部やってしまった。授業の休みを取り戻す補習や追試は退院後に行うことになっていて、入院中に出来る事は済ませたいという小熊の希望は通らなかった。
入院患者の何人かが、死なず無事に辿り着けたと感謝する朝を、当たり前に来る物として迎え、ベッドに居ながらにして運ばれて来る朝食を頂き、朝の診断と血液検査、入院直後に比べれば量も時間も少なくなった点滴を終え、何となく時間を過ごしているうちに、昼食の時間がやってくる。
午後も大した事はしていない。手術の前後も不安定になり、小熊に近くに居てほしがる桜井の相手をしたり、相変わらずネット内での揉め事を見物し、時に参加している後藤に加勢を求められたり、入院中もバーチャルキャラクターをプロデュースする仕事を積極的に行っている中村に頼まれ、小熊自身がモデリング素材になるという珍妙な体験もした。
それなりにやる事があるような、やるべき事未満の暇つぶしをしているような時間が流れていくうちに、夕食の時間が訪れ、消灯と共に深い眠りにつく。
幾つもの朝とと夜が小熊の頭上を通過していく中で、節目となる時はあっさりとやってきた。
「明後日に退院になります、準備してください」
看護師の言葉を聞いた時も、色々な物に対し無感動になっていた小熊は、そうか、としか思わなかった。
いつの間にか松葉杖のいらなくなった足で歩き回り、入院費用の清算や、さほど多くない私物の纏め、退院後に必要となる通院の予約など、諸々の雑事を済ませているうちに退院の日がやってきた。
主治医の先生や看護師、理学療法士の人に礼を言って回ったが、それほど仰々しい物にはならなかった。みんな受け持っている患者は多く、今日も何人かの退院者が居て、何人かの入院者が居る。
病室に戻った小熊は、今まで世話なった中村に挨拶をした。
「お世話になりました。バーチャルアイドルの案件が上手くいくことを願っています」
中村はベッドから降り、小熊を抱きしめながら言った。
「小熊君のおかげで、私は永久に出られない病室から出ることが出来た。バーチャルじゃない病室から出るには、もう少し時間がかかるがね」
後藤にもお別れを言ったが、後藤は目をそらしたままノートPCに向かってキーを打っている。小熊がポケットに入れていたスマホから、続けざまにメール着信音が聞こえた。きっとこれが後藤の方法なんだろう。きちんと挨拶をする事が社会人として正しいルールならば、後藤はもう自分が正しいと信じるルールを持っている。
桜井にも何か言わなきゃと思っていた小熊の腰に、いつの間にか歩行能力を取り戻していた桜井がしがみついてきた。
「離せ」
「イヤだ」
桜井は小熊の体を捕まえて離さない。顔は小熊のシャツに押し付けられていて見えなかった。
「神様が言ってるんだ。あたしと小熊ちゃんは離れちゃいけないって」
小熊は桜井の蜂蜜色の髪を撫でながら言った。
「遠いよ。今のあんたは私からすごく遠い」
桜井が顔を離し、見上げて来る。泣き顔は汚いが、濡れたグリーンの瞳だけは宝石のように輝いている。
「でも、フュージョンに乗ったあんたは、どこに居ようと息が触れ合うほど近い」
桜井は小熊を突き飛ばした。それから小熊の指差して言う。
「あたしが白と黒のフュージョンに乗ったらな!お前のカブなんてミラーの端っこにしか映らねぇよ!」
小熊は桜井を抱きしめ、言った。
「道の上で待ってる」
一月初旬に起こした交通事故で足を骨折し入院した小熊は、二月半ばにさしかかる頃、無事退院した。
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