第31話 普通

 作業に夢中になっていた小熊は、背を向けながら返答した。

「凄いって?」

 小熊はカブの整備をしながら、後藤もノートPCでどこかのサイトを見ながら話している。そのせいか短い沈黙の時間が流れた。

「普通に凄い」

 小熊には意味がわからなかった。普通である事は凄い事と結びつかない。少なくとも普通という言葉を嫌う礼子は、普通のカブを凄いカブにするために馬鹿みたいな金をつぎ込んでいる。

「普通は凄いの?」

 後藤はそれまで見ていたノートPCを閉じた。起動状態なら開ければすぐ作業を再開できることは知っていたが、現実にすぐ背を向ける後藤が、モニターから目を離すのは珍しかった。

「凄いよ。ちゃんと学校行ってきちんと働いて、人と仲良く喋って健康的な趣味を楽しんで、誰にも迷惑をかけない」


 後藤は一度閉じたノートPCをもう一度開いた。先ほどまで目を見開いてモニターを注視していた後藤は、膝の上に置いたノートPCをつまらなそうに指先でいじっている。

「親も居ないお金も無いのに普通の人になれた小熊ちゃんには、私がゴミみたいに見えるんだろうね」

 小熊は壊れたパーツを交換している時に気になった、特に壊れていないチェーンやブレーキの調整をしながら答えた。

「そうだね」

 後藤はノートPCを開いていたが、ボタンを操作する音は聞こえない。

「私はバイクに乗るから、私から見ればバイクの操縦や整備がヘタな奴はゴミ。出来ない奴はゴミ以下」

 後藤は小熊の言葉に反応しない。後ろからキーを打つ音が聞こえてくる。笑ってるような音。

「小熊ちゃんは変な人だ」


 小熊は自分が善良で平凡な人間のレールから外れたことをしているとは思っていなかった。境遇は人とは違うけど、何とか普通の人間になるべく色々と努力して、それは概ね上手くいっている。

「私も、変だよ」

 後藤はそう言って、もう一度ノートPCを閉じた。本体を掌で叩く音が聞こえてくる。

「私は小学校の頃からずっとネットばかり見てた。昼も夜も、ゲームとか動画も見たけど、掲示板が一番面白かった。変な奴が一杯居て、私がちょっとからかってやるとすぐに馬鹿騒ぎしてくれるから」

 小熊は「ふぅん」と答えながら、チェーンラインを見るため地面に這いつくばっていた。バイクの整備を知らない人が見たら奇行としか思えない姿。

「面白かった、学校出て就職してもずっとそうしてきたし、ずっと面白かった。でも、私は変だ。こんなのを面白がって、友達も居ない、仕事も底辺、趣味も無い。私は普通じゃない、変だ」

 泣くことも怒ることもせず、誰か他人の失敗した人生を淡々と語るような後藤の言葉は、小熊にとって耳を貸す価値のあるものとは思えなかった。ネットに溺れて普通の道から外れたとしても、それは自分がやった事、戻る方法は幾らでもあるのにそれをやらないのは、他でもない自分自身。


「私はそこまで変じゃない」

 後藤はさっき閉じたノートPCを開くことはせず、小熊の言葉に反論して来た。ここまで積極的なのは彼女にしては珍しいと思った。

「変だよ。バイクで事故を起こして足折ってるのに、バイクを直しに来ている。友達もバイクの人ばかりで、一日中バイクの事を考えてる」

 最後の一言だけは異論があったが、確かに「普通の人」から見れば、自分は異質なのかもしれないと思った。今から少し前、カブのために色々な物を失いそうになった時、何度か考えた事がある。バイクのせいで普通の人間じゃなくなるという事。

「それがどうかした?」

 バイクでもネットでも何でも、それに熱中している人間は皆、自分は普通の人間の集団から弾かれて、普通の幸福を得られない人間になってしまったのではないかと思う事がある。こんな事を考えているのは自分だけで、周りの何かに溺れている人間は違うだろうと信じ込む事も共通している。後藤はちょうど今、その場所に、居た。

何かの趣味を持っている人間が一定のレベルに至ると一度は、あるいは何度か経験する、溜め息の時を迎えていた。


 小熊が折れた足を撫でながら作業をしていると、店の表が騒がしくなった。いつも暇そうに見える中古バイク屋に別の客が来たらしい。

 駅からタクシーに乗って来たらしき訪問者は、小熊と同じくらいの年齢に見える少年だった。車椅子に乗っている。

 両足にギプスを着けられた客は、両手で車椅子を漕ぎながらシノさんの店に入ってくる。

「シノさん!僕のカブは直ってますか!」

 この冬空に額から汗を流し、車椅子を戸口にぶつけそうな勢いでやってきた少年に、シノさんは店の隅を指す。

 店内の作業スペースには、新聞配達用のプレスカブが駐められていた。車体にアニメキャラが描かれているが、左半分はバイナル・グラフィックが削れ、美少女が首なしになっている。

「さっき終わったとこだ。もう走れるけど、もう乗れるのか?」

 車椅子の少年はシノさんの言葉を前半だけ聞き、それで充分と言わんばかりに両手で車椅子から立ち上がる。

 小熊のようにステンレスの棒で骨を固定する単純骨折ではなく、下肢の複雑骨折。しかも両方折れているらしき車椅子の少年は、足に力が入れられないらしく、腕だけで車椅子から立ち上がり、カブまで這っていこうとしている。


「ちょっとそこのお姉さん! 手伝って!」

 少年に呼ばれた小熊は呆れたように首を振り、雑巾で手を拭いた後、顎をしゃくって後藤を呼んだ。二人で店内に入り、女の小熊より背が低く手足も細い少年を持ち上げてプレスカブに乗せてやった。

 シノさんは特に何もしない。バイクの事故で殺されかけて、自力でバイクに乗ることさえ出来ないのに、皆に担いでもらってでも乗ろうとする。バイクレースのピットではごく当たり前の風景。 

 無事カブに跨り、何とかスタンドを上げた少年は、それ以上の手助けを断るように手を振る。よく見るとアニメキャラの描かれたスタジャンの下は病院のパジャマ。小熊や後藤のように真っ当な方法で外出許可を取って出てきたのではないのかもしれない。

 折れた両足を地面につき、何とかバランスを取る事だけは出来るのを確かめた少年が、プレスカブごと倒れないよう手を添える小熊を、走るのを邪魔するなと言わんばかりの目で睨むので、小熊は言った。

「キック出来るの?」

 さっきまで走る事しか考えていない様子だった少年が、今にも泣きそうな情けない顔をしたので、後藤に車体を押さえさせながら、小熊は少年のプレスカブをキック始動してあげた。大排気量のエンジンに乗せ替えているらしきカブのマフラーが、太く重い音を発する。

 まだ両足で自分の体重すら支えられない少年は、最良の杖を得たといった顔でカブを撫でている。


「どこでやったの?」

「昇仙峡で前後のタイヤが同時にパンクして落ちました。なんか変な人に足回りの整備は自分でやれって言われたから、そうしたのに」

 この少年には以前どこかで会ったことがあるような気がしたが、思い出せない。目の前の少年は会ったことがあろうが無かろうがどうでもいいといった顔をしている。

 これ以上お喋りで引き止めると蹴り倒されそうだと思った小熊は、無事を祈るように少年の肩をポンと叩く。

 車椅子からプレスカブに乗り換えた少年は、シノさんに向かって言った。

「請求書はあとで御殿場に送ってください、あと車椅子も預かっといて」

 シノさんは「おー」と言うだけで少年を送り出す。この人は無理をするな、危ない事はしちゃいけないと言う普通の大人じゃない。見た目は年取っているが、無理をするダチをもっとやれやれと囃し立てる側。大人の説く無理や無茶など、ずっと少年のまま成長しない馬鹿には聞こえない。


 少年が慌しく走り去った後、店裏での作業に戻った小熊は、後藤に言った。

「変な奴だね」

 後藤は生返事をするだけでノートPCを開き、なにやらあちこちのサイトを見ている。

 小熊は正直なところ、修復を終えたカブであちこち走り回りたい気分だったが、なにやら変な男の子との出会いで冷静になり、少なくとも転んでも自分で起き上がれるようになるまでは、試走を我慢することにした。自分はあれほど変な人間ではない。否定すればするほど嘘になるのはわかってる。


 自分が変であることに気づき、それを思い悩んだ人間の多くが、世を知り人との出会いを重ねた結果、思い至る思考がある。

 確かに変かもしれないが、それは世に幾らでも居る変な人たちの中では、ありふれた小物に過ぎないという事。

 後藤は病院のベッドに居る時と何ら変わらない様子で、ネット越しの終わらないゲームを繰り返している。きっと入院する前からそうで、これからも当分は変わらない。それが後藤にとって最も居心地がいい時間。そんな奴は広い世の中に幾らでも居る。

 ネット内で何か腹の立つことを言われたらしき後藤が、独り言を呟きながらキーを打ち込んだ。

「これが私の普通だ」

 

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