第29話 外出許可

 「もう大丈夫ですね」

 手術の時にレーザーメスで切り開かれ、八針ほど縫って閉じ合わされた小熊の尻の傷は、予定より二日ほど早く抜糸が行われることとなった。

 午前中の処置室で一針ずつ結紮された縫い糸を鋏で切られ、無造作に糸を抜かれた小熊は、もっと大雑把にイソジン消毒され、今日も多忙らしき外科医に早々に追い出された。

 傷口が癒着し、抜糸が終われば入院生活における自由度が向上する。病院の風呂で傷口を濡らさぬため、曲芸のように体を曲げてシャワーを浴びなくても良くなった。時間がかかって面倒な抗生物質の点滴も終わる。そして、外出許可が出る。


 抜糸された痛みの残る尻を押さえつつ、足取り軽く松葉杖をついた小熊は、ナースステーションに直行して外出許可の書類を提出した。

「今日抜糸したばかりですけど、明日出ますか?」と言う看護師に対し、小熊は答えた「今日の午後」

 許可証に必要な外出の理由については、最も当たり障り無く相手からの文句も出ない「進学手続きのため」と書いておいた。実際の進学手続きはもう終わっている。それも小熊が補習と追試のノルマを消化し、まだ卒業見込みの立たぬ高校を無事出られればの話だが。


 病室に戻り、いそいそと出かける準備を始めている小熊に、珍しく午前中に起きていた後藤が話しかけてきた。

「どこに行くの?」

 後藤がネットの向こうではなく、生身の人間に興味を持つのは珍しいと思いつつ、小熊は答えた。

「カブのあるところ」

 高校卒業後の大学生活で最も必要となる物を、壊れたまま放置できない。これも立派な進学準備。

 

 既に小熊が真っ先に行くであろう場所を承知しているらしき桜井は、暇つぶしの相手が一人減ってふてくされているのか、枕を顔に乗せて寝ている。中島は本格的に始めたというバーチャルアイドルの製作支援をすべく、タブレットに向ってキーを打っている。

 見栄えのしない病院パジャマのズボンとバイク屋で貰ったTシャツを脱ぎ捨てた小熊は、事故の時以来身に付けていなかったデニム上下を着込む。思った通りベルトが少しきつくなっていた。またカブを押して歩くダイエットをしなくてはいけないだろう。

 冬季に着ているウールライナー付きのライディングジャケットが無かった。事故を起こした時にヘルメットはカブの後部ボックスに入れ、一緒に預かって貰ったが、その時にジャケットも一緒に入れてしまったのかもしれない。


 デニムだけではさすがに寒いが、行きたい熱意が抑えきれず、まぁいいやと思った小熊は、スマホや財布をポケットに突っ込み、出かけようとした。小熊の顔面に何かが飛んでくる。

 重く分厚い上着。革の匂いに混じって、小熊の知っている香りがする。

 ベッドに固定されながら必死で体を伸ばして掴んだらしき愛用のバンソン製レザージャケットを投げてきた桜井は言う。

「あたしのフュージョンもシノさんのとこに預けてる、見てきて欲しい。あと画像も」

 桜井の少しきついレザージャケットを着込んだ小熊は、スマホを取り出しながら言った。

「カメラには慣れてない」

 桜井はまたグリーンの瞳で小熊を見つめる。

「あたしはこれ以上バイクから引き離されたら悪魔になっちまうよ」

 

 一応は聖職者の端くれである桜井がどこに転職しようと知ったことではないが、同じ病室で流す音楽が賛美歌からサタニックメタルになるのは勘弁願いたいと思った小熊は、カメラの付属品を持っていくことにした。

「あんたも来なさい。外出許可はもう取れるんでしょ?」

 今まで小熊と桜井が、自分の頭越しに交わす会話を眺めていた後藤が、いきなり小熊に話しかけられ、タニシのように掛け布団の下にもぐりこもうとしたので、素早く捕まえる。

「いやだ」

 小熊は明るい場所に出る事を拒む後藤を力任せに引きずり出しながら言った。

「あんたは私に恩とか借りがあるはずだ。返す当てが無いなら役に立て。外で何か奢るから」


 小熊より背は高いが腕も足も細い後藤は、意外なほどのしぶとさで小熊に抗う。巣の中に引き込む力だけは強いのは、外に出たがらない人間も穴居の小動物も変わらない。

 少し強引すぎたかと思い、小熊が腕の力を緩めると、布団の中に引っ込んだ後藤は、顔だけ外に出しながら言った。

「外に出る服が無い」

 小熊が知る限り、後藤が持っている服は何枚かの浴衣と、仕事先で着ている作業着上下のみで、彼女はそれだけで不自由して居なかった。いつか来る退院の時まではそうなんだろう。

 後藤が小熊に助けを求めるような目を向けるが、小熊も外に出かけられる服はこのデニム上下しか無い。また桜井の服を分捕ろうかと思っていたところへ、綺麗に畳まれた服が差し出された。


「よかったら使ってくれ。洗濯したばかりだ」

 いつの間にか小熊の前に居た中村が、小奇麗なジャージ上下を差し出した。後藤も目玉だけ動かしてジャージを見ている。

 問題はあっさり解決した。小熊が引っ張ると楊枝でつついたサザエみたいにあっさり布団の中から出てきた後藤に、ジャージを着させる。中村はジャージ上下だけでは肌寒い屋外の気温を考え、毛糸織りのカーディガンまで貸してくれた。

 ジャージの上にカウチンセーターと呼ばれる、カナダの猟師が愛用している白地にグレーの模様が入ったセータージャケットを着込んだ後藤は、中村が三つ編みの髪を手早く解いて、きちんと編み直してくれたせいか、外を出歩いていても違和感が無い格好になった。どこか冬休み中の高校生を思わせる姿。


 準備を終えた後藤を後ろから押すように、小熊は病室を出た。ナースステーションで後藤の外出許可を取った後、エレベーターを使って一階に下りる。

 入院中何度もコーヒーを買いに来たロビーを通り、外に出てよく散歩した前庭を歩いた小熊は、遂に正門を通って病院の敷地から外に出た。

 小熊がようやく手に入れた自由を胸に深く吸い込もうとしたら、後藤が小熊のレザージャケットの裾を引き、病院の中に連れ戻そうとする。

「バス乗り場、こっち」 

 少し浮かれていた小熊は慌てて病院内へと引き返した。

  

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