第27話 充足

「沸いたみたいだ」

 小熊は中村の声に反応し、自分のベッドを降りた。

 真向かいにある中村のベッド横に置かれ、サイドテーブル替わりになっている木の丸椅子の上で、ティファールの湯沸しポットが湯気を発てている。

 小熊が今回の事故で知ったことが幾つかある。入院生活で最も必要になる物の一つは小銭の現金。

 病院は衣食住を賄われているようでいて、少々物足りない食事を補う副食やおやつ、ちょっとした生活用品などで金はどんどん無くなる。その中でも決して小さい出費ではないのがコーヒー代。


 小熊は一日一杯、活動的な時間を過ごした時には二杯から三杯のコーヒーを飲むことが習慣になっていたが、家に居れば買い置きのインスタントコーヒーがあって、椎と慧海の家が営んでいるイートイン・ベーカリーのBEURREに行けば、以前椎の命を救った時に貰った無料券を駆使してタダで飲める。ここでは一杯のコーヒーを飲むたびに自販機に金を吸い取られる。

 それなら家に居たように、病室でコーヒー飲めるようにすれば節約になる。何より松葉杖をつきながら一階まで降りなくていいと思うのは当然の帰結。

 二度目の入院で足に固定具を嵌められ、ベッドから離れられない桜井が「小熊ちゃん缶じゃないコーヒーが飲みてえよぉ」とうるさかったが、それは関係無い。 


 病室でコーヒーを淹れることを可能とする湯沸しポットは、後藤が以前使っていたが壊れてしまい、ベッド下の引き出し収納に入れっぱなしの物があるというので見せて貰った。

 桜井がシスターの仕事をしている時に肌身離さず持ち歩いているというガーバーのマルチプライヤーを借り、分解してみたところ、故障の原因は接触不良。東洋人より耳のデリケートな桜井が耳掃除に使っているという綿棒とベビーオイルを巻き上げ、接点を清掃した後、電気接点の導通回復材として優秀な鉛筆の芯を擦りつけたら、問題なく湯沸し機能が回復した。

 後藤の物を桜井の道具を使って小熊が直したポットは、なぜか中村のベッドサイドに置かれた。


 病院というものは数多くの禁止事項と実務の現場に置ける見逃しで出来ていて、入院生活にはおおっぴらには許されていないが禁止を言い渡されることも無いグレーゾーンが数多く存在する。中村は「学校みたいだ」と言っていたが、現役高校生の小熊にも思い当たることはある。

 音と匂いを発し、スマホの充電や読書灯より大容量の電気を食い、ひっくり返して火傷を起こすリスクも存在する、衛生的な問題もあるかもしれない湯沸しポットを置いても、この病室で最古参の中村なら何となくナァナァで見逃されそうだという決め付けで、ポットの置き場所は決められた。

 今も小熊は、沸かされたお湯を目当てに、カップとインスタントコーヒーの瓶を持って中村のベッドまでやって来た。昼間は昆虫のようにベッドから動かない後藤も、早速買ったらしきカップラーメンを片手に中村のベッドに歩み寄っている。桜井が足の牽引具をガチャガチャ鳴らしているが無視した。

 

 世の中には恒星のような人間が居るらしい。動かずとも人が惑星のように集まり、勝手に周囲を回ってその人を中心に据える。小熊もここに入院して以来、結果的に中村の指示や意図の通り動いていたことが多かった気がする。後藤もきっとそうなんだろう。

 桜井は、たぶん彼女は惑星じゃなく準惑星に格下げされた冥王星。

 ともあれ、小熊は湯沸しポットのおかげで、病室から出ることなく熱いコーヒーにありつくことが出来た。後藤もカップラーメンに重しを乗せ、出来上がりを楽しみにしている。大容量の湯沸しカップはコーヒーよりお茶が好きだという中村のミルクティを淹れるのに足りるだけの湯を供給してくれた。沸かし直してもそれほど時間はかからないらしい。


 湯気を発てる小熊のマグカップを羨ましそうに見ていた桜井が、病室の出入り口を一瞥し看護師が居ないことを確かめた後、床頭台の奥からサントリーオールドのダルマ瓶を取り出し「これでお湯割りが飲める」と言ったので、中村が手でバツを作る。小熊より桜井と付き合いの長い中村の話では、桜井は飲むと体温が上がりやすく、アレルギーも少し出るので、まだ鎮痛剤と抗生物質の点滴を受けている身には危ないらしい。 

 桜井が小熊のコーヒーと、後藤が見せびらかすように啜るカップヌードルを交互に見て、何とか匂いだけでも吸い込もうとする浅ましい姿が、いい加減面倒臭くなった小熊はマグカップを持ったまま桜井のベッドに座り、体格に似合いの小さな頭を掴んで自分の胸に乗せ、コーヒーを飲ませてやった。

 桜井は目を細め、喉を鳴らしながら、ほどよく温くなったコーヒーを美味そうに飲んでいる。二~三口でカップを取り上げると、グリーンの瞳で上目遣いに小熊のことを見つめてくる。見た目だけは天使なのが憎たらしい。

 カフェインの悪影響を考えた小熊は、心を鬼にして自分のベッドに戻る。病院では神様の目を盗めるのをいい事に好き勝手やっている桜井にはこれくらいでちょうどいい。

 

 中村はお茶を飲みながら、自分の周囲を満足げに眺めていた。趣味の釣りグッズで飾られたベッドサイドが、お茶を淹れられるようになったことでまた快適さを増した。

 彼女は高齢ドライバーによる人身事故の被害者で、腰椎骨折で運び込まれて来たが、示談が良好な条件で決着した事に加え、入院補償の手厚い生命保険に加入していたため、入院していればいるほど金が溜まるらしい。

 自己申告で痛みを訴えれば幾らでも入院を伸ばせる。言い方を変えれば僅かでも痛みが残る限り決して油断出来ない症状の中村は、見た目は既に健康体と変わらないように見えるのに、入院期間を延ばしに延ばしている。

 小熊は幾ら金を積まれようとも、自由にカブに乗れない生活など願い下げだと思っていた。事実つい最近そんな好条件の学生寮入居を、バイク禁止という理由のみで蹴り、自力とコネで新生活先を見つけ出した。

 

 快適な入院環境を作り、患者としての生活を楽しんでいる様子の中村も、事故に遭う前は一人の勤め人で、テレビ局下請けの映像製作会社に勤めていたという。

 小熊は会社員だった頃の中村のスケジュールをスマホで見せて貰った。分刻みの予定で埋め尽くされ、睡眠時間は僅か。その前後に通勤時間が入っていない理由は聞くまでもない。仕事の予定が立て込むと事務所に並べた椅子の上やデスクの下で眠っていた。

 事故の過失相殺的では加害者が全面的に悪いということになっているが、中村も事故に遭った時は、普段なら歩かない歩道の端、車道スレスレのところをふらついていたらしい。中村自身も職場のタイムテーブルの自身のスケジュールから、その時間は夜食の買出しに行ったということはわかっているが、ほぼ無意識の状態で、どこをどう歩いていたのか記憶に無いと言う。

 中村は事故を機に、それなりに憧れて入ったテレビの仕事をあっさりと辞めた。実務経験を買われ他社の人間が何度か病院まで引き抜きに来たが、もうテレビの仕事をする気は無く、退院したら実家に帰って家業を手伝いながら趣味の釣りに勤しむ生活をしたいらしい。


 事実、小熊が見る限り病室の中村は、ネットで素人が配信している釣り動画や、彼女がテレビスタッフだった頃に担当していたアイドルジャンルの投稿動画を見ることはあっても、テレビには興味を示さない。

 たまに小熊と一緒に院内を歩いている時に、談話室や待合室のテレビが視界に入ることはあるが、中村はテレビの画面を見るたび、編集の継ぎ目や放送終了時の切り方を見て舌打ちをしている。

 今日の中村は、テレビの仕事をしている時には決して無かった、ゆっくりお茶を飲みながら趣味の動画を見る時間を過ごしている。

 小熊はコーヒーカップを弄びながら自分の隣を見た。カップヌードルを平らげた後藤は体を丸めて眠っている、二つ隣のベッドの桜井はシスターとしての職務を思い出したのか、寝っころがったままの不精な姿勢で十字架を持ち、礼拝をしている。

 お喋りの相手に飢えたというわけでもないが、小熊は同じ病室でもあまり多くは話さなかった中村に声をかけた。 

 中村はさっきからタブレットに向かい、ただ動画を見ているにしては不自然なまでに忙しい様子でワイヤレスのキーボードを打っている。

「何をしているんですか?」

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