第26話 看護師のカブ

 シフトペダルを操作した時に、小熊はこのカブのエンジンが交換されている事に気づいた。

 青い車体にワンサイズ大きいタイヤとサイドスタンド、そして大径のブレーキ。新聞配達専用車種のプレスカブに、小熊が乗っているスタンダードなカブのエンジンが載せられている。

 シフトギアに走行中に三速からニュートラルに入れられないようにするシフトロックがこのカブには付いていた。配達で発進停止やニュートラルでの惰性走行を行うプレスカブには付いていない。

 中古車業者が新聞屋から引き取った廃車と事故車から抜き取ったエンジンを組み合わせ、お安くでっち上げた低品質の中古カブかと思ったが、それにしては各部の状態がいい。スピードメーターを見て、プレスカブ特有の三速ランプが無いことでエンジンだけでなくメーターも交換されていることに気づいた小熊は、メーター下部の走行距離計を見た。二万kmをちょっと超えたあたり。ブレーキやワイヤー、ゴム部品等の消耗品の走行距離相応の磨耗を見ただけで、メーターの巻き戻し等が行われていないことがわかる。中古のニコイチだけど、誠実に組み上げられたカブだった。

 カブの前にしゃがみこんでいた小熊は、背後を振り返って言った。

「すぐに直りますよ」


 手術後の経過観察やリハビリが順調に進み、入院生活が落ち着いてきた小熊は、松葉杖をつきながら病院内を散歩することが多くなった。

 まだ外出許可は出ないが、敷地内なら自由に動き回れる。医者からは歩くことを推奨されているし、これもリハビリになるのかもしれない。何より病室でただ何もする事の無い時間を過ごしていると、退屈で傷の治りが遅くなりそうだった。

 最初は病院内から始め、売店やリハビリ室との往復で少し寄り道をしてみる積もりだったが、昼には院内の廊下を一通り歩き、午後には病院棟の外に出ていた。

 何だか初めてカブに乗った時みたいだと思いながら、病院の裏手を散策していると、カブのエンジンを始動させられず困っている女性を見かけた。 

 気がつくと、小熊はそのカブを見せて貰っていた。

 

 カブの持ち主はこの病院の看護師。小熊はには見覚えの無い顔。内科の病棟を担当しているらしい。

 このカブは彼女が看護学校に通っていた時、困窮し苦学をしていた彼女が通学費用を節約するべく原付を買いに行ったところ、彼女の生い立ちに感動したバイク屋の主人に廃車から状態のいい部品を選んで組み立てて貰い、それ以来看護学校への通学や、就職した今の病院への通勤に活躍してくれたという。

 彼女はいつか自分の通った看護学校や、このカブを買ったバイク屋があった地元の病院に就職し、バイク屋夫婦に恩返しをしたいと言っている。

 小熊は彼女の身の上話より、カブのあちこちに興味を惹かれた。丁寧に組まれ、大事に乗られていたことが乗り手の口より饒舌に伝わってくる。それでも、日々稼動する機械製品である限り劣化や不調は避けられない。


 折れていない足でカブのキックレバーを蹴っただけで、不調の原因は察しがついた。通用口近くに積んであったリネンを入れるプラスティックコンテナを借りてきて椅子替わりに座り、松葉杖を横に置く。

 十円玉でカブのサイドカバーを開けて車載工具を取り出した。工具の品質は必要最低限のものだったが、これで充分だと思った小熊は、さっそくカブのレッグシールドを外し、ガソリンコックを閉じ、エアクリーナーとキャブレターを手早く外す。

 自分のカブで何度もやっていて慣れた作業。まだ自分が効率的な動きを忘れるほど、事故から時間が経ったわけじゃない。後ろで心配そうに見ている女性からは、魔法でも使っているかのように見えるんだろうか、そう思った小熊の額に滲んだ汗を、女性はハンカチで拭いてくれた。

 

 キャブレターを外し、中のガソリンをこぼさないように注意しながらフロートカバーを外す。露出した燃料ジェットをプライヤーで慎重に外すと、やっぱりジェットが詰まっていた。

 フロートを見ると、ガソリンにゴミが混じっている。このフロートの中身だけでもカブは何kmか走れると思ってガソリンを捨てずにいたが、これだけ汚れていては役に立たないので、カブの後部に取り付けられた荷物ボックスに入っていた雑巾に吸わせた。

 燃料ジェットの詰まりを取るには、整備用のエアガンかオフィス機器用のエアスプレーが必要になる。針金で掃除する方法もあるが、デリケートな真鍮のジェットを鉄や銅で削るのは気が進まない。

 自宅の駐輪場なら必要なツールは幾らでもあるけど、ここにあるのは車載工具のみ。小熊は頭を捻った。バイク整備にはこういう事がよくある。正しい工具を正しく使うだけで終わる作業は無い。常に応用と創意工夫が求められる。


 周囲を見回した小熊は、落ちている木の枝を拾った。プライヤーとマイナスドライバーで木を割ったり潰したりして、細い筋の中からちょうどいい太さと固さの物を取り出す。

 木の繊維を使ってジェットを清掃した後、キャブを組み立ててエンジンに組み付け、エアクリーナーを取り付けた。

 ガソリンコックを戻した小熊は片足と松葉杖を使って立ち上がり。カブに跨る。

 気持ちが落ち着き、今の不自由無い入院生活で溜まっていたフラストレーションが晴れていくのがわかる。それが他人のカブで、片足が使えない状況でも変わらない。

 折れてない足で何度かキックすると、最初は燻っていたカブのエンジンが息を吹き返す。

 スロットルを煽って始動に成功した事を確かめた小熊は、レッグシールドを取り付けた。さっきガソリンを吸わせた雑巾で車載工具を拭いていた小熊は、ガソリンにゴミが混入した原因に思い当たりがあり、シートを上げた。

 予想通り、給油口の後ろにある燃料ゲージが外されていた。畳んだ雑巾で蓋をしている。


 カブの給油口キャップはエンジンキーと共通の鍵を差し込んでから開ける構造になっているが、中古でニコイチのカブや盗難被害暦のあるカブは、エンジンキーとキャップのキーが別々なことがある。キーを紛失すれば給油口は開かなくなるが、給油口の後ろにある燃料ゲージが四つのネジを外すだけで取れる構造になっている。外した後の穴はガソリンスタンドの給油ノズルを突っ込むのに充分な大きさがあるので、そのまま燃料ゲージの穴から給油している人間がたまに居る。

 メインキーのシリンダーとタンクキャップ、ハンドルロックやヘルメットロック等、キーを使う部品がひとまとめになったキーセットはホンダから供給されているが、値段はそれなり。取り付けも専門業者に依頼すれば、作業部位が広範囲に分散していることもあって、工賃だけで結構な金が飛ぶ。

 だからといって燃料ゲージの穴からの給油は当然、引火等の危険が伴うし、今のようにガソリンタンクにゴミが入ることもある。タオル雑巾の繊維は機関部の色々な場所に詰まるので、小熊を含めある程度整備経験のある人間や、プロのメカニックはタオルを洗車には使っても作業には使わない。このカブも今キャブレターを分解し清掃しても、また近いうちに始動不能に陥るだろう。

 小熊はエンジンが始動可能な状態にすることが出来ると言った。しかすぐに止まるようなら、小熊が納得できない不完全な作業となる。小熊は一度収納袋に戻した工具を取り出した。


 持ち主に燃料キャップの鍵を紛失している事を確かめた小熊は、車載工具を使って鍵を破壊し、キーシリンダーを強引に回してタンクキャップを外す。それからキャップに少々の加工を施して、鍵無しでも開くようにした。

 外された燃料ゲージは、幸い後部の荷物ボックスに入っていた。取り付けネジと共にジップロック袋に入れられた燃料ゲージを取り出して元通り取り付け、持ち主に言った。

「これで給油出来ます。鍵つきのキャップは通販で安く売っているから、それに換えたほうがいいですよ」

 ネジの締め忘れが無いか確認し、車載工具を元通りの場所に仕舞った小熊は、腕時計を見る。キャブ清掃とタンクキャップ周りのちょっとした作業で二十分弱。しばらくカブをいじってないにしては、まぁまぁの手際。自宅で愛用の工具を使っていれば、もっと短い時間で綺麗な作業が出来ただろう。


 カブの持ち主は小熊に何度も頭を下げた。

「助けて頂いてありがとうございます。何かお礼をさせてほしいわ」

 小熊は自分の手を雑巾で拭きながら答えた。

「礼を言うのはこちらです。しばらくこういう事をしていなかったから」

 持ち主の看護師は首を傾げる。扱いに少し問題はあったとはいえ、このカブを大切にしている女性、でもきっと彼女にはわからない事がある。小熊はそう思いながら、拭いても取れない黒い痕を見つめた。

 バイクをいじると手にはオイルとスラッジが混じりあった黒い汚れがつく。どんなに洗っても爪の隅や指紋の間に残る黒い汚れは、事故でしばらくバイクの整備から離れていたた小熊の手から消えていた。最初は汚く見苦しいと思っていた痕が入院生活で失われ、綺麗な手になっていくに従い、自分が培った物まで無くなってしまうのではないかと不安を抱いていた。


 看護師が「いつかあなたが胃潰瘍か腸炎でぶっ倒れたら私に任せて」と、あまり歓迎したくない事を言うので、それより幾らか縁起のいい報酬を要求することにした。

「次に会ったらコーヒーとドーナツでも奢ってください」  

 彼女はプっと吹き出し、それから小熊に手を差し出した。

「ええ、約束よ」

 まだ整備の汚れが残る小熊の手をしっかりと握った看護師はカブに跨り、軽快な音と共に走り去った。

 小熊の体が羨望で熱くなる。あと数日すれば外出許可が下り、自分のカブを自分の工具でメンテナンス出来る。

 あと少しの時間が小熊には長かった。


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