第25話 一日

 小熊が入院生活を始めて一つ知ったことがあるとすれば、静養に勝る治療は無く、規則正しい生活こそ最良の薬だということだろうか。

 今日も朝の日差しと共に病院は動き始め、夜勤を引き継いだ日勤の看護師や、起き出してくる入院患者が廊下を動き回る気配がする。

 小熊もベッドから体を起こし、もう扱いに慣れた松葉杖を手に取って片足で立ち上がる。


 そろそろ朝食が配られる頃なので、その前に洗面所に行くことにした。片手で杖をつきながらもう片方の手に持った杖でベッド周りのカーテンを開け、隣のベッドに回る。

 小熊の隣に入院している後藤は相変わらず夜行性らしく、全身に被り体の下に引き込んだ掛け布団で陽の光を避けていた。

 後藤を揺り起こしたが反応が無い。小熊は半ば強引に布団を引っぺがし、昆虫のように体を丸めている後藤の体を起こす。

「顔、洗いに行くよ」

 後藤は病院支給パジャマの替わりに着ている私物の旅館浴衣を体に巻きつけながら、起きるのをいやがっていたが、小熊が小さい声で「汚い」と言うと、渋々ながら体を起こす。

 立ち上がった後藤の着崩れている浴衣を剥ぎ取った小熊は、ベッドサイドに架けてある別の浴衣を手に取った。他にも何枚かの浴衣が壁際にぶら下がっている。いずれもどこかの温泉旅館から盗んで来たような浴衣を、後藤は時々自分で洗濯している。見舞いや身の回りの面倒を見に来てくれるような身寄りは居ない。


 今時の言葉で言えばセルフネグレクトではないかというくらい身辺に無頓着な後藤も、自分の療養患者っぽいファッションを気に入っているらしく、その奇妙な自尊心をくすぐると素直に言う事を聞くことがわかってきた。

 後藤の想像する自分自身の姿は、不治の病に冒されたサナトリウムの娘で、自分の中の美意識が汚い格好を許せないらしい。

 実際の後藤は肋骨の骨折で入院している外科患者。ソーシャルネットワーク内で文字を介して行われる喧嘩に参加している途中、自宅にあるノートPCを全て駆使して相手を攻撃すべく、棚の上にしまっていた予備機を出そうとして、床に置きっぱなしにしていたコンビニ弁当を踏んで転び、複数の肋骨と胸骨の剣状突起を折った。

 それでもネットで互いの顔も見ることなく行われる言い争いを続けようとした彼女の自宅に救急車を呼んだのは、それまで口汚く罵り合っていたネットの喧嘩相手。

 彼女を攻撃する手札として保存していた住所と本名の情報を使い、半ばイタズラ気分で通報してくれたらしい。


 小熊と同様に両親の居ない彼女は、一応社会人としての生計を立てているらしく、壁には甲府のIT企業系製造業者のネームが入ったネズミ色の作業着が架けられている。自宅での事故で労災も出ない彼女の入院費用は、不正規雇用の職場で雇用保険の替わりに加入させられたという生活障害保険で賄われているが、給付金は月に数百円だという掛け金に相応の額。

 入院患者の中でも最も金回りのいい生保加入者、その次に支払いがいいという労災認定者ほどの金が出るわけではないが、入院中の娯楽や暇つぶしがパソコン一つで間に合い、後はお菓子とジャンクフードを食べるくらいしか趣味の無い後藤は、入院生活に不自由は無い様子。


 ここに入院する以前から他人の不幸が大好きで、他者を安全な場所から攻撃することに熱中している後藤は、入院後も変わることなく趣味に勤しんでいる様子で、夜になると布団を被り、小熊や桜井が使っているタブレットに比べれば時代遅れなノートPCに張り付いていた。昼は寝たり起きたり時々PCを見たりしながら、特に何もすることなくお菓子やジャンクフードを食べている。

 それらの事を教えてくれたのは、普段は後藤の面倒を見ている、この病室で最古参の入院患者、中村。彼女は今、病室に居ない。

 釣り好きな中村は外出許可を取り、県内の山中湖で行われるバスフィッシングのイベントに行っている。職場の事故で入院する以前は、休みを取るのもままならない暮らしをしていた中村にとって、痛みさえ訴えれば幾らでも伸ばせる入院生活は満たされたものらしい。


 小熊が入院して間もない頃、後藤は自分と同じく親の居ない小熊に興味を持ったらしく、隣のベッドから両親を失った経緯やクラスでの孤立などの不躾な質問を繰り返してきたが、後に小熊がバイク便ライダーとして高給を得る生活をしていて、都内の公立大学への入学も内定し、何より見舞い客がひっきりなしに来るのを見て、小熊のことを自分とは別種の人間だと気づいたらしく、あまり喋ることが無くなった。

 小熊には自己評価は低いのに自己愛が強い後藤の性格が理解出来なかった。彼女がノートPCで夜通し見ているネット掲示板やソーシャルネット、コミュニケーションアプリがそんな人格を作ったんだろうか。

 ただ小熊がスーパーカブで得るような娯楽を、後藤の話ではネット通販で五千円で買ったというノートPC一つで手に入れられるのは、安上がりで羨ましいと思わないことも無い。


 手術を終えベッドから離れられるようになり、間もなく外出許可が出る小熊は既に事故で壊した自分のスーパーカブを修復する準備を始めているが、シノさんが撮ってLINEに送ってくれたカブの画像を見ながら交換部品を注文するたび、金に羽根が生えたように小熊の口座から飛んでいく。

 後藤がが自分で着替えるのを待っていると朝食の時間が始まってしまいそうなので、小熊が後藤の浴衣を着付け、三つ編みの髪を最低限見苦しくないくらいに整えた。逆隣に入院している桜井が羨ましそうな顔で見ている。


 事故で右足を骨折し、治療を終えて退院した直後に左足を折って担ぎ込まれてきた桜井は、相変わらずショートパンツにランニングという格好だった。左右に見苦しいのが揃ったと思いながら、小熊は自分の姿を見る。

 病院支給の青いパジャマズボンに工具メーカーのプリントが入ったTシャツ姿。病院パジャマのままで居ると、別病棟に長期入院している老人たちと自分が同種になってしまいそうな気がしたので、礼子に家の鍵を渡し、自分の部屋にあるTシャツをまとめて持ってきて貰った。

 趣味でバイクに乗っていると、Tシャツが意外と溜まる。ライディングウェアとの相性がいい、出入りしているショップの販促品を貰える、協賛しているレーシングチームの活動を援助すべく買う、整備に使う雑巾は糸くずの出るタオルより着古したTシャツが適している等、言い訳は色々あるが、最大の理由は単にバイクに乗る人間は総じて服に使う金が無く、お洒落なインナーとも縁遠いズボラな奴が多いからだろう。


 床頭台の引き出しを開け、自分の歯磨きセットを手に取った小熊は、後藤にも歯ブラシを持たせて病室を出ようとした。 

 桜井が足に固定された牽引具をガチャガチャ鳴らしながら騒いでいる。

「小熊ちゃ~ん」  

 ベッドに固定された桜井は、一日四回やっていたという歯磨きが出来ない不便を訴えている。それくらいの事は言われずともわかるようになったが、だからと言って面倒を見る義理は無い。桜井のようなベッドに固定されている患者も、洗面器を持った看護師が朝晩二回歯磨きを手伝ってくれる。


 手早く効率的で、患者が痛いと訴えても無視するスキルに優れた看護師に歯を磨かれている自分を思い出したらしく、桜井は自分の歯ブラシを差し出しながら言う。

「小熊ちゃんにしてもらうほうがいい」

 人格最低で、しかも頭が悪いということはわかっているのに、グリーンの瞳で上目遣いに見つめられると断りにくい。とはいえ中村不在の病室で、後藤と桜井、二人の世話をするわけにもいかない。小熊は床頭台を探り、中身を桜井に投げつけた。

「ガムだ!」


 桜井が嬉しそうな声を上げて手に取ったのは、小熊がベッドに寝たきりの頃、慧海が持って来た見舞い品の一つ。歯磨き替わりになるだけでなく、不安定な気持ちを落ち着かせる効果もあることは大戦時から証明されているらしい。その頃から今に至るまで、ガムは米軍携帯食糧に必須のアクセサリーとして加えられている。

 慧海がくれたプレゼントを大事に消費する積もりだったけど、隣で歯も磨けず困っている奴に分け与えたと言ったら、慧海は自分の行動を褒めてくれると思った。

 さっそく板ガムの包み紙を剥き、口に放り込んだ桜井が声を上げる。

「梅ガムじゃねぇか!」

 苦手な味だったからではない。


 小熊は立って歩いていると浴衣姿が病院に似合っている後藤と縦に連なって歩きながら、洗面所に向かう。

 横並びになることが無いのは複数台のカブで走る時と同じ。公道では速度域の違う車が横を抜いて行く。こっちが追い抜くこともある。病院の廊下もまた、まだ眠気が残ったまま漫然と歩く入院患者が居る一方で、看護師が早歩き、時に小走りで追い抜いていく。

 ドラマに出てくる看護師と現実の最も違うところ。ドラマの画面映えのため廊下に広がってだらだらと歩く看護師は現実の病院には居ない。みんな急いでいる。

 二人で洗面所に並び、顔を洗い歯を磨いていると、同じ病棟に入院している他の患者から話しかけられる。小熊の病室は若い女性が集められたらしいが、病院全体の入院患者は高齢者が多いらしく、売店やロビーで隣り合うと話しかけてくる。

 小熊はバイトをしている時の対人スキルを駆使して当たり障りの無い受け答えをする。時に興味深い話や有益な情報を聞けることもある。後藤は小熊の影に隠れるようにしていて、お婆ちゃんたちも後藤の性格は知っているらしく無理に喋らせるような事はしない。

 

 洗面と歯磨きが終わり、病室に戻ると朝食の配膳が始まっていた。ご飯と大根の桜漬けと鯵の干物、焼き麩の味噌汁、ポテトサラダ。いつも通り栄養のバランスがよく品数豊富で、相変わらず刑務所みたな飯。

 最初は好きなものを好きなだけ食べられない病院食を悲観していたが、今ではこの病院を退院した後、自分で作る食事に戻れるかどうか不安になる。

 隣の桜井は足を折り、色々な鎮痛剤を打たれて間もないというのに鯵を頭からバリバリ食べ、味噌汁を啜っている。食べ方は非常に汚い。

 後藤はベッドテーブルに置いたノートPCのキーを片手で叩きながら、テーブルに置いた丼に鯵や漬物を乗せ、顔を突っ込むように食べている。半ば強制的に洗面に行かせたことで、廊下を歩く運動をしたためか、いつもは半分以上残す病院食を八割五分ほど食べた。 

 小熊は両隣の奴らみたいになるまいと思うまでもなく、背を伸ばして食事が出来る有難さをかみしめながら、時間をかけて残さず食べた。後藤が食べ残したポテトサラダを小熊のテーブル越しに桜井に渡し、桜井が小熊の頭越しにポテトチップの袋を後藤に投げているのを無視した。


 食事が終わり、小熊は横になる。そんなだらけた事をしたいわけではないが、骨折の入院患者に必須の点滴を打たなくてはならない。この生理食塩水と抗生物質の点滴が落ちきるまではベッドを離れることも出来ない。

 小熊と後藤、桜井に点滴を打った看護師が、時計を見ながらチューブの途中にあるストッパーを操作し、点滴の落ちる速度を調整した後、病室を去る。

 点滴を打たれている間ずっと寝ていた後藤は今も寝ている。ノートPCは閉じられていた。後藤が始終見ているネットコミュニティは平日午前は余り人が集まらず動きが悪い。だから後藤も夜通し起きて昼まで寝る生活に馴染んでしまった。


 小熊は寝たまま片手でタブレットを操作し、溜まっていたメッセージをチェックする。相変わらず椎から会いに行っていいか尋ねてくる。小熊が特に返事する必要も無いと思って放置していると何度も聞いてくる。正攻法では駄目だと思ったのか、慧海を連れて来るというメッセージが入っていたので、お茶とお菓子を用意して待っていると返答しておいた。礼子は相変わらずバイクの話ばかりで、申し訳程度に小熊のカブについて報告したら、後は自分のハンターカブについての自慢話を延々と送ってくる。カブに乗れない身にはそっちのほうが辛い。浮谷社長からのメッセージは、主に客先で起きた困り事の相談。社長がそれでいいのかと思ったが、お金の困り事が無い様子なのはいいことなんだろう。

 結局、情報の入力経路が違うだけで、自分のやってる事も後藤と大して変わりないのかもしれない思った。少なくとも既に社会に出て自立自活している人間より自分が賢いなんて思うほど愚かじゃない。


 隣では桜井が点滴の遅さに痺れを切らせたらしく、ストッパーを勝手に操作して点滴のスピードを最速にしている。たぶん先月NSRで、そしてついこの間フュージョン改で事故を起こしたのも、こんな馬鹿なことをやってバイクのアクセル・スロットルを開けすぎたからなんじゃないかと思う。

「ヤバい、小熊ちゃんこれヤバいぞ!なんか心臓がヒヤっとしてホントにヤバいぞこれ!」

 桜井が胸を押さえて、苦しそうというより何か未知の感覚を面白がっているような顔をしているので、多忙な看護師に申し訳ない思いをしつつナースコールを押した。

 桜井はすぐにやってきた看護師にきついお叱りを受け、ついでにストッパーも戻された。

 小熊は自分がこの中で特に頭がいいとは思わなかったが、世のあちこちに居る規格外の馬鹿よりはマシだと思った。当然というか礼子の顔が思い浮かぶ。


 点滴を終えた小熊は、リハビリ室でジムトレーニングらしき物に勤しむ。理学療法士は小熊の膝を曲げながら、回復の早さに驚いていた。やはり十代の筋肉は素晴らしいと連呼され、気をよくした小熊は、癒着した筋肉が引き剥がされる痛みも忘れ、もっと曲げても大丈夫だと言う。

 小熊が昨日より曲がるようになった足をマッサージしていると、理学療法士は別の患者の足首を曲げながら、七十代の筋肉とは思えない!素晴らしいと繰り返していた。

 リハビリが終わり、外科の処置室で手術の縫合傷を消毒したらもう昼食の時間だった。コッペパンとコンソメスープ、ツナサラダ、デザートのフルーツ杏仁。

 後藤はパンとデザートだけを食べながらノートPCにかじりついていた。勤め人が昼休みを迎える時間は、ネット内でも人が動き出すらしく、後藤は休み時間を終えたら仕事に戻らなくてはいけない労働者を貶すようなことを呟きながら、データ入力のバイトでも出来そうな速度でキーを叩いている。

 桜井は時差で今頃中継されるアメリカンフットボールの試合を見ながら、ワイドレシーバーのミスに文句を言っている。


 昼食を終えた午後は、何もしなかった。

 ただ寝転がってたまにタブレットを見たり、昼寝をしているうちに日が暮れていく。退院後に始まる補習と追試の予習や、春から住む木造平屋の引越し準備、カブの部品手配など、やらなくてはいけない事は色々あったが、病院全体の雰囲気に呑まれたのか、明日でいいやという気分になる。

 まだ足の骨は完全に繋がっていないし、手術の傷も癒えてない。今は静養が自分の仕事だと言い聞かせて、ここしばらく縁の無かった空位の時間を過ごす。後藤は午後の間ずっと寝ていて、桜井はシスターの仕事をあれこれ残しているらしく、タブレットで経理の書類と格闘している。


 夕食の時間が近づく頃、外出許可を得て釣りに行っていた中村が帰ってきた。お土産だと言って皆に鱒の缶詰を配る。

 普段から魚ばかり食わされるこの病院で、後藤はあまり嬉しそうな顔をしていなかったが、桜井は「これ酒が進むんだ!」と大喜びしている。小熊もオイルサーディンのように油漬けになった鱒は、醤油とレモンで味付けすればご飯の供になると思い、ありがたく頂戴した。

 中村は自分のベッドに座り込み、すっかり落ち着いた様子。きっと彼女はこの病院をホテルか何かだと思っている。


 ほどなくして夕食が届く。もしもこの病院がホテルなら、充実したルームサービスが受けられるランクのものらしい。メニューは鱒のオイル焼きをメインに、インゲンとニンジン、卵スープ、ご飯、漬物、オレンジ。

 偶然の一致に桜井は大笑いし、小熊も釣られて笑う。中村も思わず苦笑していた。笑いを抑えていた後藤も耐え切れずぐふぐふと笑っている。

 夕食を終え、中村が病棟の各階にある談話室のテレビで野球を見るというので、小熊も物珍しさで付き合う。

 桜井は足に嵌められた牽引器具をガチャガチャ鳴らしながら、外に出て飲みに行きたいと訴えていたが、無視して病室に置いていく。後藤は夜になって動き出したネットの各所に文字を打ち込むことに熱中していた。


 野球のナイター試合は小熊にとってさほど楽しい物では無かったが、談話室に集まる入院患者たちの雰囲気は興味深かった。

 選手が球を打ったり捕ったりするたびに患者たちが歓声を上げ、互いに声の出しすぎを諌めたり、今のプレイについて話し合ったり、年長者が過去の名試合について語ったりしている。

 試合が終わり、小熊は何かの義務かノルマを消化したような気分で談話室を後にした。もう野球を見に来ることは無いだろうと思った小熊に、中村が言う。

「明日はプロレスの試合を皆で見るらしい」

 プロレスなら野球よりルールも明快でわかりやすい。何より見る観客も盛り上がるだろう。プロレスには興味無くとも、この雰囲気を味わうために行くのも悪くないと思った。


 野球観戦から帰ると、ちょうど消灯時間で病院全体が薄暗くなる。ベッドに入った小熊は、タブレットやノートPCをいじる同室者たちを尻目に、早寝することにした。

 こんなに寝床に入るのは。小学生の時以来かもしれない。

 これほど深く、心地よく眠るのも久しぶりな気がする。

 退院まで、あと一ヶ月弱。

 

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