第24話 蘇生

 松葉杖をついた小熊は、三階の病室から一階ロビーに降りた。

 小熊と同じ大腿骨骨折ながら、もう手術から一ヶ月が経過し、松葉杖のいらない桜井は後ろからぶらぶらとついてくる。

 桜井は数日後に退院を控えている。バイクの事故で運び込まれた桜井は、愛車のホンダNSRにもう一度乗れる日を心待ちにしているらしい。

 冬至より幾らか長くなった日が暮れ、冷たいLED蛍光灯で照らされた一階ロビーは、既に外来の受付が終わり、目につくのは入院患者が大半だった。

 小熊たちと同じように夕食後のコーヒーや売店のデザートを買いに行く人たちや、面会終了時間の間際、仕事帰りに会いに来た家族と一緒に居る人、事故入院に付き物の保険会社と何やら喋っている人も居る。

 バイト高校生で身分不安定な小熊は事故相手との交渉にそれなりの労力を費やしたが、清里にある教会でシスターとして正社員採用されている桜井は通勤中の事故として労災が認められ、自損事故ながら何枚かの書類を出しただけで充分な補償が受けられるらしい。


 ロビー前通路の行き止まりにある自販機コーナーまで来た桜井は、松葉杖で両手が塞がった小熊が革のガマグチ財布を渡すと、替わりにボタンを操作しコーヒーを買ってくれた。

 小熊が頼んだ通り、微糖でクリーム控えめのコーヒーを淹れた熱い紙コップを手に取り、背もたれの無いソファの上に置いた桜井が、自分のコーヒーを買うべく財布を取り出そうとしたので、小熊は後ろから言う。

「奢る」

「Thank You!」

 こんな何気ない一言がカタカナの「サンキュー」とは違う、日本人には出せない発音。桜井は小熊のガマグチから小銭を出し、もう一杯のコーヒーを買った。砂糖もミルクも入れないブラックコーヒー。

 そのまま並ぶ自販機の灯りで煌々と照らされたソファに落ち着こうとした桜井に、小熊は言った。

「もっと、景色が綺麗なところで」

 振り向いた桜井が嬉しそうに頷く。自然光の下では強調される白い肌と蜂蜜色の髪、グリーンの瞳も蛍光灯の青白い光に照らされると全体的に灰色がかったような色になる。夜のコンビニ前に陣取っている髪を染めた連中と変わりない。

 両手に自分と小熊のコーヒーを手に取った桜井が先を歩きつつ、振り向いて小熊に行き先を尋ねるような目をしたので、小熊は松葉杖でさっき乗ってきたエレベーターを指す。二人でエレベーターに乗り込み、小熊が片方の松葉杖を脇で挟みながら四階のボタンを押した。

 

 小熊と桜井が居る病室のワンフロア上にある四階で降りた。半分は病室で半分は倉庫になっている病棟の廊下を端まで歩いた小熊は、桜井に非常階段に繋がったドアを開けさせた。

 四階の上には屋上があって、そこは施錠されている。普段は非常階段の入り口にも鍵がかかっているが、老朽化で新調したドアの発注ミスらしく、鍵だけがまだ届いておらず自由に開閉出来る状態だった。

 ナースステーションに音が聞こえぬようドアを開けた桜井は、松葉杖をつく小熊を気遣うように振り返りながらコンクリートの非常階段を登る、吹きっ晒しの外の風が冷たい。小熊は杖と片足を使い、苦労して階段を登った。桜井のように松葉杖がいらなくなる頃には、腕力がつくだろうと思った。

 四階から屋上に至る階段の中間地点にある折り返しの踊り場で、小熊は周囲の風景を見回す。

 韮崎の市街地や幹線道路に近い病院。まだ街も人も動いている時間の夜景は綺麗だった。以前小熊がまだベッドから動けなかった頃に、この場所を教えてくれた桜井が、零下に近い外気で湯気を発てるコーヒーの紙コップを渡してくれた。


 小熊はオリジナルブレンドのコーヒーを一口飲んでから、口を開く。

「バイクはどう?」

 桜井もコーヒーを飲みながら答える。

「換えなきゃいけないパーツが多くてよ、調べてるとこだ」

 小熊は口から出た言葉より、桜井の反応に注目しながら言う。

「95のSPでしょ? 部品はまだ手に入る」

 レーサーレプリカとしては人気の高いNSR250Rは製造中止後二十年が経過した今でも、新品、中古ともに部品は流通していて、先日もホンダが欠品部品の再生産を発表したばかり。

 小熊が聞いた話では桜井は崖から落ちたがNSRはフェンスに当たって止まり、外装と足回り部品の幾つかを破損させただけ。それほど修理に時間がかかるとは思えない。エンジンやフレーム等にダメージを受けて修復不能だったとしても、桜井から聞いた事故補償金の額面が本当なら、程度のいい中古車に買い換えることも可能だろう。


 桜井は熱いブラックコーヒーを一気に飲み、少しむせながら声を荒げた。

「あのバイクはカブと違って色々難しいんだよ! 今あたしは色々とやってる、やってるんだ!」

 小熊は「へー」と言いながら松葉杖を横に置く。折れた足を地面につけ、体重をかける事は担当医から禁じられていたが、ダメだと言われたからといって出来ないわけではない。

 そのまま小熊は桜井の首に手を伸ばす。もう片方の手を腰に回した。顔を赤らめ、グリーンの瞳を微かに潤ませた桜井を、そのまま持ち上げ、踊り場の低い壁から外に突き出した。

「何するんだよ! 落ちる! 落ちるって!」

 悲鳴を上げる桜井に、小熊は今夜ここに来る前から思っていたことを告げる。

「あんたは何もしていない」


 手すりの上に背を乗せられ、微妙なバランスを取る桜井は声を上ずらせて叫ぶ。

「小熊ちゃん何でこんなことするんだ? やめろ! てめぇ尼さんヤったら地獄行きだぞ!」

 小熊は鉄パイプの手すりと自分の腕で桜井をシメ上げながら言った。

「私はまだ前科が無い。だから講習を受ければ一日で終わりだ」

 小熊は桜井の首根っ子を押さえつける。あと少し押せば、桜井は四階下のコンクリートに落ちる。

「あんたはもうバイクに乗ろうとしていない。そんな奴がバイク乗りを名乗っている事を、私は許せない」   

 桜井は赤子のように泣き叫ぶ。首から銀鎖でぶら下がってた十字架がこぼれ出る。

「助けてママ! 死にたくない! 神様お救いください! わたしの小熊ちゃんが悪魔にウインクしています!」


 この事故でタクシー会社と交渉した経験に従い、話し合いを少し有利に進める必要があると思った小熊は、今までより積極的な働きかけを試みることにした。片手で桜井の細い腰を掴み、もう片方の手で首をねじ曲げ、下の地面を拝ませてやった。シスターなら祈らせてやったと言うべきか。

「あんたのママには私から最期の言葉を伝えてやる。あたしの墓に名前はいらない。ただ一人のバイク乗りが生き、そしてバイク乗りとして立派に死んだと刻んで欲しいと言っていたと」

 桜井が恐怖のあまり、聖職者の端くれとして信じているらしき神様にもうすぐ会えそうな顔をしているのを見た小熊は、腕に力を入れた。桜井は手すりの内側に落ち、小熊の足元に転がる。

 桜井は胎児のように体を丸めて泣いている。桜井が普段から説いていたバイク乗りのあるべき姿にも、彼女が着ているバンソンのレザージャケットにも顔向け出来ぬような無様な姿。


 恐怖で漏らしそうになったのか、桜井が自分のショートパンツの中を気にする余裕が生まれたのを確かめた後、小熊は桜井の前にしゃがみこみ、話し始める。

「バイクを直せないなら私が部品を手配する。修理出来る人間も紹介するし費用は払える範囲で何とかなるよう話をつける。もうバイクを降りるというなら、新しい趣味のためにNSRを高値で買ってくれる相手を見つけてやる。だから少なくとも私の前では、口で言うだけで乗ろうとしないニセモノになるな」 

 初めての保育園で母親から引き離された幼児のように泣いていた桜井は、小熊が少し大人びた園児のように背を叩き落ち着かせていると、泣きながらも口を開いた。

「夢を、夢を見るんだよぉ」

 小熊が自分の胸に顔を預けた桜井の髪を撫で続けていると、桜井は一つ一つ言葉を絞り出した。


「夜になると夢に出てくるんだ。あたしのNSRがチェーンとスプロケットであたしの体を引きちぎる夢を。痛くて血が一杯でて、あたしの腕が足が、頭が無くなって。バイクを降りたくねぇ。でも歯車の夢が消えねぇんだ」

 自分のバイクが自分を殺す夢。小熊にはそういう経験が無いので理解できなかったが、礼子は何度かあったという。もっとも馬鹿な奴には心理学的でいうところの潜在意識のもたらす警告も効かないようで、そんな夢を見させるくらい私のことが大好きなハンターカブは本当にしょうがない奴だと言って、妙に嬉しそうな顔をしていた。気持ち悪い。

「その歯車の夢を消したら、バイクに乗るの?」

 桜井は返事をせず、小熊に抱きついて顔を押し付けた。


 翌々日、予定通り桜井の退院の日がやってきた。

 日々色々な人が入退院している大型の病院。ドラマで見たようなナースからの花束贈呈は無く、桜井は清算や退院後も必要になる通院の手続きなどで慌しい。

 最後に同室者の中村に挨拶をした桜井は言った。

「姐さんには世話になりました。見舞いに来ます」

 この病室の最古参として、何人もの入退院を見てきた中村は「体に気をつけて」とだけ言って握手を交わす。

 桜井は入院という奇妙な経験を経て、退院し日常の生活へと戻っていく。中村はまた来るという言葉は決してそうならない事を知っていた。

 入院中は桜井と肌が合わない様子で、桜井の居ないところでは退院が楽しみだと言っていた後藤は、朝から布団を被って出てこようとしない。肩を竦めた桜井は掛け布団越しに後藤を撫でながら言う。

「退院後、道に迷ったらウチの教会に来いよ。金の稼ぎ方くらい教えてやる」

 最後に一ヶ月半を暮らした病室を一瞥した桜井は、彼女に最も似合わない言葉を残して病室を去った。

「皆さんに神のご加護を」


 小熊とは何も言葉を交わさなかった。桜井が病室を出ると、小熊は黙ってついていく。もう桜井に気遣ってゆっくり歩いて貰わずとも、松葉杖を使いながらついていけるようになった。一階に降り、病院の正門を出た桜井が、周囲を見回す。小熊は桜井の背を松葉杖を突きながら言った。

「裏に届いている」

 踵を返した桜井が駆け出そうとする。さすがに片足の使えぬ小熊がまだ走る速さには追いつけないことに気づいた桜井は小熊の横に来て、急かすように腕を引く。

 病院の裏手にある関係者駐車場の隅に、小熊が桜井のため手配した物があった。

 ホンダ・フュージョン

 純白の二百五十ccスクーター。かつて小熊の雇い主である浮谷社長が、仕事用のフュージョンとは別に遊び用として所有し、高度なチューニングを施したバイク。相変わらずバイクに名前をつけるという恥ずかしい習慣を持つ社長は、純白の車体から白いカラスと呼んでいた。


 退院の荷物と一緒に持っていたヘルメットとグローブを身に付けた桜井は、白い車体にそっと触れ、小熊が差し出したキーで始動させる。

 バイクの歯車に引き裂かれる悪夢に囚われ、もう一度NSRに乗ることを拒んだ桜井。バイクを愛し、それゆえバイクを恐れ、それでもバイクに乗りたくて泣いている桜井ために、小熊は歯車の無いスクータータイプのバイクを用意した。

 小熊は浮谷社長がこのフュージョンを作らせてみたものの、数回乗っただけで持て余していたことを知っていた。チューニングをしてみたけど、ノーマルのパワーとバランスが一番って結論に落ち着く人間は多いらしく、買い足したパーツの値段程度の額で譲ってくれた。

 桜井は2stレーサーレプリカの最高性能を誇るNSRから4stのビッグスクーターに乗り換えることを「それはあたしをバイク乗りとしてダウングレードさせる、デチューンされるのはイヤだ」と拒んでいたが、小熊が囁いた一言で支払いのハンコを押してしまった。

「仕事でも乗れる」

 スクータータイプのバイクを求める顧客の中には、神職者と呼ばれる人たちが居る。僧衣や袈裟を着て葬儀の場に駆けつけるにはスクーターは便利な乗り物らしい。当然、修道服を着たシスターにも。

 シスター姿でバイクに乗って葬式やミサの場に乗りつける、NSRでは出来なかったことをしている自分の姿を想像した桜井は、NSRが直るまでの繋ぎとか足代わりのセカンドバイクだと言いつつ、NSRで事故を起こし救急車で担ぎこまれた病院をフュージョンで退院することを希望し、小熊はそれに合わせて納車を手配した。


 荷物をフュージョンのラゲージボックスに仕舞った桜井は、目を爛々と輝かせてフュージョンのエンジンを始動させる。250改320ccの高圧縮エンジンが発する振動と吸排気音に包まれた桜井のグリーンの瞳から、涙が一筋落ちる。一度死んで、たった今もう一度生まれたような涙。

 いつもバイクに乗る時にやっていた儀式なのか、ハンドルに両手を伸ばす前に、レザージャケットの上から胸のロザリオを押さえた桜井は、一瞬、小熊を見た後、黙ってフュージョンを発進させる。

 小熊も何も言わなかった。この音を邪魔するような声を発するほど無粋じゃない積もりだし、桜井とは今ここで別れても、きっと道の上で会い、互いの走りという何よりも濃密な言葉を交わすことになる。

 桜井淑江はもう一度走り出した。いつかまた転んで泣くかもしれない。バイクに乗る人間というのは、バイク乗りとしての死を何度も経験する。事故、借金、家族の圧迫、何より本人の心が折れた時、バイク乗りは口先だけの自称バイク乗りになる。それは死に等しい。


 その日から、外科病棟の女子大部屋は小熊、中村、後藤の三人になった。

 あんな小さくて色の薄い奴が居なくなっただけで、病室が随分静かになった気がする。

 あれだけ桜井が居なくなることを楽しみにしていた後藤は布団を被って出てこない。まるでもう居ない桜井が自分をからかいに来るのを待っているように見える。

 ベッドテーブルにバスフィッシングのルアーを並べて眺めていた中村が言った。

「そういえば、さっき急患で入ってきた子が、ここに来るって言っていた」

 小熊たちの居る大部屋は三人しか居ないが、この病院はそれほど空いているわけではない。救急病院なら入院患者は途切れなくやってくるだろう。人見知りをこじらせて自分の周囲に居る人間に敵意に似た恐怖を抱いている後藤は、布団の中で体を丸めている。


 ほどなくして、中村の言う通りストレッチャーで患者が運び込まれてくる。

 痛い痛いと子供のように泣いている女の子。小熊は見ていたタブレットを落とした。忘れるわけも無い声。

 急患としてやってきたのは桜井淑江。清里のシスターを自称していた金髪翠眼の少女は、小熊が知り合って以来初めて見る修道服を着ていた。

 何が起きたのかは察しがついた。膝と肘のあたりが破れた服、そしてくの字に曲がった腿。つい六週間前に左足を折った桜井が、今度は右足を折って運び込まれてきた。


 バイクに乗る人間が事故を起こしやすいタイミングは色々ある。心身の体調が悪い時。天候の悪い時、そして事故を起こした直後。

 事故前の身体能力のまま乗った結果、勘が狂ったのか、自分が事故を恐れていないことを証明したくて無理をしたのか、やっぱり事故を恐れて反応が遅れたのか、事故を起こしたすぐ後に事故のお替りをしてしまったバイク乗りはごく少数ながら居るという。実際はもっと居るけど皆恥ずかしがってあまり口にしたがらない。だから桜井みたいな馬鹿が一度シャバに出てすぐに再収監されたりする。

 小熊が運び込まれた時にそうしたように、膝にドリルで固定具を嵌める穴を開けられると、桜井は無様に泣き叫び、看護師に「二度目でしょ! 我慢しなさい」と押さえつけられている。

 バイク乗りとしては一度死んだ桜井。しかしバイクに乗る人間というものは、何度死んでも棺を引っ剥がし、自分を墓に埋めたバイクに乗る上での逆境という土を掘り返し、しぶとく蘇る。

 小熊が桜井に言うべき言葉は一つしか思い浮かばなかった。

「死ね」

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る