第21話 自由の獲得

 手術の内容は、尻を縦に十cmほどレーザーメスで切り開き、折れた大腿骨の内部に長さ六十cm、径一センチほどの金属棒を打ち込み、切り開いた部分を縫合し閉じるものらしい。

 小熊は小学生の時に男子同士が、自分がいかに凄い怪我をしたのかを何針縫ったかで自慢するのを聞き、理解できなかった記憶がある。つい最近も中古バイク屋のシノさんが、あの頃の小学生男子と同じような顔で工具で怪我したという自分の掌を見せ、二十針縫ったと言っていた。

 小熊はその時も今までも傷口を縫うような大怪我に縁は無かったが、今となっては多少なりともわかる気がした。この痛みは後で自慢の種にでもしないことには割に合わない。

 手術は麻酔による一瞬の眠りの中で終わり、八針を縫った尻の傷はそれほど痛まなかったが、麻酔の影響による発熱が小熊を苦しめていた。


 手術が終わったというのに、六床の大部屋に一つだけのトイレ付きベッドに未だに寝かされている理由が今更ながらよくわかった。

 今まで経験した風邪の熱とは異なる、全身を痛みと倦怠感で覆うような感覚。せっかく足をベッドに縛り付ける固定具は外れたのに、立つどころか体を起こすことさえ出来ない。

 巡回に来た看護師に聞いたところ、麻酔の痛みと熱を強い薬で抑えると発熱が長引くので、一日か二日の我慢だと思って耐えるしか無いのだという。

 起き上がれないのでは食事も出来ないが、手術の後は丸一日絶食となる。手術前にも絶食はあったが、食欲も無くそれほど辛く無かった。術後の今も腹は減っていないけど、食事を取れないというだけで生きるための活動を禁止されている気分となる。

 

 手術日の夕暮れが訪れ、小熊は病室の仲間が夕食を楽しんでいる姿を眺めていた。

 やたらと魚のよく出るこの病院にしては珍しいハンバーグの夕食を見ても食欲は湧かない。いつも通り背を伸ばしベッドの端に座り、胡散臭くも上品な仕草で食べている中村や、ベッドの上にあぐらをかき動画を見ながら食べている桜井、食事中の口元を見られるのを恥じるように茶碗に顔を突っ込んで食べている後藤を見ても美味そうには見えなかったが、日が暮れたら夕飯を食べる、当たり前の生活を行っている三人が羨ましくなる。

 まだ麻酔の熱は醒めず、ひどく喉が渇いた。慧海が見舞いの時に持ってきてくれたスノーピークのチタン製マグカップを手に取り、注がれたお茶を飲み干す。今の自分はどんなひどい顔をしているんだろうと思ったが、見てくれを気にする余裕すら無い。


 麻酔は時間と共に抜けていくというが、その時間は遅々として進まなかった。

 いつもなら小熊も混ざることの多い三人のお喋りに加われない。同じく全身麻酔を経験しているはずの桜井はバイクの話題になると構わず小熊に話を振ってくるが、中村に制されてつまらなそうにしている。後藤にとって苦しむ小熊の姿は飯が美味くなるものだったらしく、まるでモニター越しに人の不幸を見物するように小熊を盗み見しながら、珍しく食事を残さず食べ、お菓子も普段より余分に食べている。

 小熊は相変わらず食べ方の汚い後藤の口元を拭いてやりたくなったが、そこまで手を伸ばすことは出来ないし、見苦しさに関しては自分もいい勝負だろう。

 普段は小熊がバイト先のバイク便会社から借りっぱなしになっているipadをいじって暇つぶしするところだけど、今はそんな気分にもなれない。


 いつもよりずっと長く感じる時間が過ぎ、病室が消灯される。

 普段は灯りが消されてもコーヒーやお茶を淹れてお喋りを続ける桜井は、中村に言われて早寝をすることにした。後藤は布団を頭から被ってタブレットを見ているらしく。変な笑い声が漏れ聞こえてくる。

 中村が小熊のところまでやってきて、小熊が長い棒を使って自分で閉めることも出来るカーテンを閉めてくれた。

「何か辛いことがあったらいつでも言ってくれ。ナースコールも遠慮なく押すといい。きっと明日はもっとよくなっているよ。おやすみ」

 もしかしてこの中村という女は、何かよこしまな意図があって丁寧な態度なのではなく、本当に根は優しい女なのではないかと思いこみそうになるような笑顔。人は大病の後でよく詐欺に引っかかるらしい。小熊は中村に礼を言おうとしたが、頷くことしか出来ない。


 自分のベッドに戻ろうとする中村の横から、桜井が顔を出した。

「バイク乗りなら我慢しろよ。神様はバイク乗りが事故を起こしても、耐えられない痛みは与えないんだよ」

 事あるごとにバイク乗りの心構えのようなものを口にするが、口だけの奴だということが段々わかってきた桜井を手でしっしっと追い払う。

 後藤が被っていた布団から顔を出した。彼女が被りつくように見ていたタブレットには、ヒロインがひどい目に遭うゲームの画面が映っている。後藤は昼間よりも輝きが増しているように見える目で言った。

「夜になるといたい、いたいよ」 

 小熊がシュっと拳を突き出すと、後藤はまた布団を被りゲームの世界に戻る。各々が自分のベッドに入り、手術日の夜が始まった。


 眠れば痛みも無くなる。

 小熊は風邪くらいしか病の記憶が無い自らの経験則を自分なりに信じていたが、この苦痛には当てはまらないと思っていた。

 時間が経つに従って楽になるというが、熱は下がる気配は無い。まだ消灯前は周りの人間のせいで色々な情報入力があって、痛みも紛れていたが、暗闇の静寂で自分の痛みに向き合うと、それが時間と共に精神を削り取る。

 麻酔が抜けてくるというのは本当らしく、足が熱と痛みを発し始めた。脈動するような痛みは、足の位置を変えると少し楽になるということに気づき、足を折り曲げたり持ち上げたりしたが、すぐにその姿勢でも痛んでくる。熱を冷ますためお茶を飲もうとしたが、カップの中身は空だった。


 小熊の手はナースコールに伸びたが、昼も夜も多忙で、深夜になると疲れきった様子で仮眠を取っているという当直看護師をお茶のお替りが欲しいといって起こしていいものかと迷った。そうしているうちに足の痛みが耐え難いものになっていき、鼓動まで乱れてくる。

 迷惑をかけたとして死なれるよりましだろうと思い、小熊がナースコールを押したところ、すぐに看護師が来た。

 足が我慢できないくらい痛むと伝えた。正直なところ、他人にこんな泣き言を垂れるのがイヤだったというのが、ナースコールを押すことをためらう最大の理由だったが、看護師はあっさりと鎮痛の筋肉注射を用意し。肩に打ってくれた。

 注射の中で最も痛い部類に属すると聞いていた筋肉注射も、この足の痛みの中では大した事は無かった。看護師はお茶のお替りも注いでくれた。

 注射を打っても痛みはあまり消えることが無かったが、眠ることに集中しているうちに何とか眠りに落ちることが出来た。


 翌朝も状況は大して変わらず、体が重かった。

 朝の検診で聞いてみたところ、自由に動けるようになるまでには最低でも術後二四時間は必要で、絶食もそれまで続くらしい。

 日課となった点滴を打たれながら、おそらく骨折当日より辛い時間がもう少し続くという事実を前に、小熊は憂鬱な気分にさせられた。

 小熊以外の三人に朝食が配膳される。相変わらず病院での時間は遅々として進まないが、昨日よりは幾らか苦痛との付き合い方がわかってきた。

 痛む足は位置や姿勢を変えることで誤魔化せることを知った。今はベッド横の転落防止柵に足裏を突っ張り、片膝を立てるような格好になっている。

 暇を潰すには読み物で気を紛らすしか無いが、タブレットやスマホをベッドテーブルに置き、体を起こして見る事は出来ず、寝転がったまま手で持つ体力も無い。小熊は隣のベッドの後藤を真似て、ベッドに置いたタブレットをうつぶせや横向きの姿勢で見ることを覚えた。この格好でも長時間見ることは出来ないが、以前より体感経過時間をコントロール出来るようになった。

 小熊は今になってようやく、牽引措置の固定具が取れて足を好きなように動かせるようになった事を思い知らされたが、どうやら人間の自由は一括ではなくローンで支払われるらしく、まだ自分の体を意のままに扱える状態には程遠かった。


 進まない時計の針と戦いながら何とか午前中を過ごし。正午頃に小熊は病室の壁に取り付けられた時計を見た。もうすぐ手術を終えてから二四時間が経つ。人間の体がそんなふうに時間で区切られるわけ無いが、気分は変わる。風邪で頭が痛い時に大体三十分くらいで効くという鎮痛剤を飲み、三十分が経過するのを待つ気分。

 時間は何事も無く過ぎ、体が楽になる様子は無い。やっぱりそんなものかと思い、熱を冷ます効果があるような気がするお茶をガブ飲みして昼寝した。

 目覚めると時刻は夕方過ぎ。匂いで夕食のワゴンが近づいてくるのがわかる。今日一杯絶食は続き、食事の再開は翌日の朝食かららしい。鯵フライとコールスローサラダ、豆腐の味噌汁の夕食が自分以外に配膳されるのを見ながら、いつのまにか注がれたお茶を飲んでいた小熊は、自分に空腹感が戻っているのを感じた。


 病室の三人が、口の中が痛くなりそうにカリっと揚げられたフライを皆は食べている。中村は塩だけを振り、桜井は添えられたタルタルソースとウスターソースを両方つけている。後藤はフライを何もつけず半分だけ食べ、タルタルソースを袋から絞り出して舐めている。どうせ食べ残すならくれと言いそうになる。中村がやはり塩だけで食べているコールスローサラダのシャキシャキした味が口の中で広がる。桜井がご飯にかけているわさびふりかけの辛味が過去の記憶の中から口腔内に再生される。小熊の腹が鳴った。

 飯を食えないということがこれほど辛いとは思えなかった。飢餓問題の深刻な国に生まれなくて良かったと思ったが、今はこの飽食の日本で飢えている。気を紛らわすためにお茶を飲んだが、後藤が味噌汁を啜るのを間近で見せられ、これがお茶でなくスープならいけないのかと思った。今すぐベッドを飛び出して地下のコンビニ売店に駆けて行き、弁当とパンをあるだけ買いたくなる。


 看護師の話では胃腸が活動することで傷に悪影響が起きる可能性があるとの事だが、今のところ痛む様子も無い。体力や回復力に関しては自信があるし、一晩くらい少々の誤差だと言い張って、今から食べたいものを食べてもいいのではないかと思い始めたが、プロレスラーの力道山が諸説ありつつも同じような経緯で死亡したという話を思い出し、何とか我慢することにした。

 明確なリスクがあるにも係わらずそれを無視、軽視するのは愚か者のやる事だとカブで学んだ。

 夕食後に皆がおやつを食べながら喋る中。小熊はお茶だけを頼りに我慢した。いつのまにか短時間なら会話に加われるくらいには体調が回復したことに気づいたが、それで明朝の食事再開までの長い夜が短くなるわけでもない。

 小熊はひどく空腹な思いをしながら眠りについた、夜半過ぎにまた足が痛み始め、鎮痛剤注射の世話になったことで、夕食を我慢して良かったと思ったが、相変わらずひもじい腹を抱えながら、寝たり起きたりの浅い眠りを繰り返しながら朝を待った。


 翌朝、小熊は食事を再開した。

 ハムエッグとトースト、サラダの平凡な朝食で、飢えてる時に思ったほどたっぷりは食べられなかったが、久しぶりにベッドを起こし、食事という行動を取る自由を噛み締めた。食後に理学療法士の人に松葉杖の使い方を教わり、看護師の助けを借りつつ自分の足でトイレに行き、風呂に入った。

 突然の災難で体の自由を奪われて一週間少々。ようやく人間の尊厳を取り戻すことが出来た。そう思いながら窓の外を見た小熊の目に、病院の日常風景の一部が映った。

 通院している患者や職員など、出入りする人々の中に、仕事で病院に来ている人たちも居た、リネン屋や医療器具会社、そして新聞配達。

 スーパーカブが病院に入ってきて、敷地内のポストに夕刊を差し込み、また走り去った。

「まだ自由じゃない」

 小熊にはもう一つ、自分にとって必要な物、取り戻さなくてはいけない事があった。

 

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