第20話 損傷の状態

 小熊はベッドに仰向けになったまま声をかけた。

「礼子」

 ベッドサイドの丸椅子に座っていた礼子は、小熊が同じバイク乗りの同室者、桜井から借りた雑誌に夢中になっている。

「もうちょっと」

 ここが病院の一室ではなく、教室で授業の休み時間を過ごしているような気分にさせるやりとり。小熊は同じような会話を交わした時によくそうするように、礼子の手から雑誌をひったくろうとしたが、体が重く動かない。


「シガーライター電源でお湯を沸かせるポットだって。カブでもいけるかな?」

 カブの小さなバッテリーやジェネレーターコイルで、大容量の電源が必要な湯沸しポットが稼動するわけ無い。散財するだけで使うことの無いゴミになることが決まっている。それにカブに乗れない身でカブのことを話されても腹立たしくてしょうがない。諸々の不満をぶちまけようとしたが、口が重く回らない。必要最低限の言葉を発するのがやっとだった。

「用は?」


 小熊の言葉を聞いて病院まで来た目的を思い出したらしき礼子は、雑誌を小熊のベッドに無遠慮に放り出した。足を固定する牽引器具にぶつかると思ったが、器具はもう撤去されていて、足には何の器具も付いていない。骨折した足に雑誌が当たるが、痛みは無かった。

 小熊はそこでやっと、さっきから自分を苛んでいる痛みの源は右足ではなく、体全体、特に頭から発せられていることに気づく。鎮痛剤が欲しくなるような鋭い痛みでは無いが、疲労とも風邪の高熱とも、つい数日前に経験した骨折のショック症状とも異なる類の倦怠感。ベッドをリクライニングさせる枕元のボタンを操作して、体を起こすことすら出来ない。


 礼子は小熊の状態を気遣うことなく、やはり教室や駐輪場に居る時と同じような口調で喋り始める。

「あんたのカブ、シノさんが引き取りに行ったわよ。外装はだいぶやられてたけど、エンジンとフレームは無事だってさ」

 全身麻酔のせいか重く動きの悪い体に、血が巡っていくのがわかった。痛みと倦怠感は増したが、体は動こうとしている。車体や足回りが損傷し磨耗したバイクが、エンジンだけ高回転まで回ったような状態。事故で壊れたカブと自分自身、状態が悪いのはどっちだろうかと思いながら、確認すべき事を聞いた。

「フロント」


 バイクで事故を起こした人間が真っ先に確認することの多いのは、フロントフォークの歪み。中古パーツや手持ちの予備を使った安価な修理と、外注や新品交換が必要な高額修理の分かれ目になる。修理修復と廃車の境目となるエンジンやフレームの損傷については、一目瞭然であることが多く、見たくない。

 一般的なバイクの伸縮式フォークより強度のある固定フォークのスーパーカブも例外では無く、フォークとその中に納まったサスペンションやリンクが破損変形していると、自力での修理、修正が不可能になる。交換するために中古部品を漁っても。事故車の多くは車体前部が壊れていて、多走行による廃車で解体屋送りになったバイクも、フロントに歪みが出ている物が多い。


「シノさんの話ではとりあえず目視で見た限りフロントは無事だけど、念のため測定器にかけたほうがいい、それは自分でやれって」

 外装とフロント周り。カブは部品さえ揃えれば一日で直る状態だということはわかった。車体の歪みを点検する測定器については、百均の物差しやノギスと建築用の水糸を使って自作出来ることは事故を起こす前、時間に余裕の多い三学期にカブで色々な事をやろうと思って調べていた過程で知った。

 フロントが目に見えて歪んでいるほどのダメージを受けていなければ、カブの事故やスポーツ走行で脆弱点になりがちなメインフレームの両端も無事だろう。その部分に歪みやヒビが出ていれば、エンジンや足回りを全て下ろして整備することになるので、最長で一週間ほどの時間と、相応の部品代を費やすことになる。


 そこまで考えるのに、随分時間がかかった。礼子は小熊が自分の言葉を飲み込み、目線で次の話を促すまで待った後で、言い添える。

「部品は勝沼の解体に行った時についでに聞いといた。外装とフロント周りの部品は、藍地さんが探しといてくれる。店の在庫に無くても業務用カブの廃車を扱ってる同業者から引っ張って来ることが出来るって」

 小熊と礼子が棒人間と呼んでいたバイク解体屋店長の藍地さん。小熊は彼にまつわるトラブルとも色恋沙汰ともつかぬ問題の解決に協力した経緯で、彼をよく知らぬ者には機械が蒸気を漏らす音にしか聞こえない声を聞き取れるようになったが、礼子もいつのまにか彼の言葉がわかるようになっていたらしい。


 言いたいことだけ言った礼子は席を立つ。正直なところ見舞いに来られても騒がしいだけで傷に響く奴で、現に今も小熊の血流を早くするような話題で痛みを増してくれたとことだが、今日は居座られる事よりさっさと帰ろうとしている事に不満を覚えた。

 この感情を表わす適当な単語が思い浮かばなかったので、礼子の襟首でも掴もうとしたが、ベッドに寝たままの体から伸ばした手は、だらしなく垂れ下がるだけ。

 帰ろうとしていた礼子が振り向く。作業ズボンの尻に手を伸ばし、掴み出した赤いバンダナで小熊の両頬を拭く。触れられた木綿布に感じる湿り気で、自分が涙を流していることを知った。


 バンダナを尻ポケットに戻した礼子は、何とも気まずそうな顔で小熊の顔を一瞥して言った。

「また来る」

 小熊はベッドから垂れ下がった自分の手で空を掴みながら言った。

「来るな」

 礼子の顔に笑みが浮かぶ。知り合ってからもう何度も見た、人にやめろと言われたことを進んでやろうとする表情。それで自分の意思は伝えたと言わんばかりに、何も言わず背を向けて病室を出て行く。

 昼下がりから夕方に近い時間になった病室で、小熊は窓の外を眺めながら、ベッドの外に突き出したままの自分の手を引っ込ませようとした。

 体に残る麻酔のせいか、伸ばした手を戻すのにとても時間がかかった。  

  

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