第19話 手術
学校で年に二回注射するインフルエンザの予防接種が恐かったのはいつの頃だったのか、小熊は考えていた。
「わたしたちは病院が混んでる中で何とか予約取って打ってもらうのに、学校が全部タダで用意してくれるなんていいわね!」と言っていた母のせいか、注射への苦手意識は無かった気がするが、皆の雰囲気と体育館に満たされた消毒液の匂いに呑まれて。形だけ恐がっていたことを覚えている。
先に名前を呼ばれ注射を済ませた同級生に「痛かった?」と聞いた記憶は無い。おそらく聞いても平常心を失った極端な感想や、恐がらせる目的ありきの大げさなパフォーマンスしか見られないし、無駄だということくらいわかっていたんだろう。
高校卒業を控え、思い出す事も稀になった小学生の頃の記憶が蘇ったのは、いよいよ明日に控えた外科手術ではなく、目の前に居る奴のせいだろう。
入院生活を始めて数日経った昼下がりの時間。同室者の桜井が小熊のベッドサイドに置かれた見舞い患者用の丸椅子を占領し、切れ目無く喋っていた。
「で、ストレッチャーに乗せられて手術室に運び込まれるんだよ。あのドラマとかに出てくる手術室だよ。恐いぜ。本当に恐いんだぜ。手術中の赤いランプはあったっけなー」
桜井は自分が手術を受けた時の事を、聞いてもさほど益の無さそうな主観で語っている。小熊としてはもっと客観的な、具体的に何が起きてどんな対処が必要なのかを聞きたかったところだけど、理路整然とした説明を求めても無駄な奴だということはわかっていたので、話の続きを促した。
「麻酔って恐いよな。スって意識なくして次の瞬間にはもう手術終わって病室だ。目を覚ましたらママが横に座っててあたしを見てるんだよ。黙って見てるんだよ。あたしはあぁママが来てくれたんだ。持ってきて欲しい物は何だっけ? パンツが足りなくなっていて、あとお菓子が、トゥインキーが食べたいから買ってきてほしいとか、そうだ小熊ちゃん。トゥインキーってな。切れ目入れてソーセージ挟んで、スプレーチーズをかけると凄い美味いんだぜ」
物事の説明が下手な奴はよく話を脱線させる。
桜井の頭と意識を元に戻すため、小熊は入院患者の多くがベッド横に置いていある、カーテンを閉めたり電灯やテレビのスイッチを操作したりする棒を手に取った。
棒に何を使うかは人それぞれで、中村は伸縮式の釣り竿、桜井はラジカセから引っこ抜いたアンテナ、後藤は障子紙の芯を使っている。小熊も慧海に何か長い棒を持ってきて欲しいと頼んだところ、伝え聞きしたのか自衛隊でトロンボーン奏者をしている史の父親が見舞いの時に七十cmほどあるプラスティック製の棒を持ってきてくれた。
フルートを掃除するときに使うスティックで、職場に余分なものが幾らでも転がっていると聞いたが、軽く長さもちょうどよく使い勝手は良好で、今もトゥインキーに始まり、チップスアホイやバターフィンガーなど、お菓子の話が止まらない様子になっている桜井の頭をぺしぺしと叩き、大筋から逸れた話の内容を修正することに役立っている。
一つ咳払いした桜井は、昼に室内の灯りより陽光のほうが強くなると灰色からグリーンに変わる目を細めながら言った。
「終わった後、あたしは特に辛いことも痛いことも無かった。でも涙が出てきた。何でなのかわからない。あたしは冷静だったんだ。ママが黙って頬を拭いてくれた時に、泣いてるって気づいた、ありゃ気まずいもんだぜ」
痛みも意識も無いまま自分のメスで切り刻まれ、何事も無かったかのように縫い合わされる。桜井の涙を想像した小熊の体に、まだ経験したことの無いはずの感触が伝わってきた。
それから小熊は、手術後の体調はどうなるのか、何が必要になるのかを聞いてみたが、そっちはよく覚えていないと言う。
小熊と桜井の話には加わらず、窓際で釣り雑誌を読んでいた中村が顔を上げて言った。
「全身麻酔の後は熱が出るからね。淑江くんはそれが辛そうだった」
そういう実体験に根ざした話を聞きたかったのに、言われた桜井は「そうだっけ?」と要領を得ない。簡単に忘れるくらいならその程度のものなんだろう。
小熊の隣のベッドに居る後藤が掛け布団から顔を出した。後藤はいつも昼の間は寝ているのか起きているのかわからない時間を過ごしている。横になったまま小熊に顔だけ向けて言う。
「手術、こわいの?」
小熊を心配しているというより、他人の弱みを見つけてほくそえんでいるような顔。小熊はただ、隣から聞こえてきた言葉に興味を持って後藤の顔を見ただけなのに、後藤は天敵の動物に睨まれたかのように、再び掛け布団を被って亀のように丸まった。小熊は天井を眺めながら呟く。
「恐い、のかな?」
中村が釣竿をいじくりながら言った。
「何も案じることは無いよ。その忌々しい金具が取れる喜ばしい事態だと思えばいいことだ」
小熊は自分をベッドに縛り付けている牽引処置の器具を撫でた。着けられた直後は拷問でも受けている気分だったが、諸々の不便に慣れた今となっては愛着すら湧いてくる。だからといっていつまでも膝にピンを通し、足を錘で引っ張ったままではいられない。骨折の治療が順序に従って進むのなら、滞りなく次の段階に進まなくてはいけないし、そろそろ自分で歩いてトイレに行ったり、清拭スプレーや無水シャンプーじゃなく熱い湯の風呂に入りたい。
とりあえず小熊は、あのインフルエンザの注射の時、クラスに友達など居なかった自分には聞けなかったことを聞いた。
「痛かった?」
単刀直入な言葉に圧された様子の桜井は、少し考えてから言った。
「あぁ痛かったぜ~。麻酔で痛くないってのはウソだから。あれホントは意識があってよ。メスでブツ切りにされる時はもう死ぬほど痛かったぜ~」
中村が釣竿を振りながらくすくすと笑っている。後藤はまた布団から顔を出し、小熊が恐がる姿を見物しようとしている。小熊はさっき桜井の頭を叩くのに使い、ベッド脇に放り出したカーテン開閉用の棒を再び手に取り、桜井の鼻の穴に突っ込みながら言った。
「痛くないんでしょ?」
鼻の穴を塞がれながら笑う変顔の桜井が答えた。
「どうかな?」
棒を握る手に力をこめ、アングロサクソン特有の細く薄い鼻に似合いの小さな穴を広げてやったところ、桜井は白い頬を紅潮させながら言った。
「痛い! 痛くないって! 痛くないから! 痛い! やめて! 痛くないって! いや痛いぞ!やめ、やめないで!」
鼻の穴から始まり、体のあちこちを棒でいじくられながらも小熊のベッド横を離れようとしない桜井の相手をしている内に日が暮れ、夕食の時間がやってきた。既にいつもどおりの日常となった食事の後は、病院特有の早い消灯時間。
もしかしたら眠れないかもと思いながらベッドのリクライニングを倒し寝転んだ小熊は、案外すぐに寝入ることが出来た。明日は全て医者に任せ何もしない身ながら体力が必要だということをわかっていたのかもしれない。
翌朝。病室までやってきた主治医から慌しい説明を受ける。聞けば今日は午後に脳外科の手術を控えていて、小熊の手術等の諸々の用事を午前中に済ませてしまいたいらしい。大腿骨に金属棒を打ち込む手術なんて、手術する側にしてみればノルマを消化するだけの流れ作業なんだろうけど、雑事扱いされるのは気に入らない。
カブだって人の脳のように複雑なエンジン内部を整備するより、足回りのメンテナンスのほうが作業時間は短いが、だからといって手を抜くことはしない。とりあえず相手は今から少しの間、小熊の生殺与奪を握る身。緊張感の感じられない物言いもまた、患者の不安を軽減させる医者の話術なのかもしれないと好意的に捉えることにした。
固定具を外され術衣を着せられ、ベッドからストレッチャーに移された小熊を勇気づけるように、中村が側に来てストレッチャーの枕を三回叩く。中村自身が毎晩やっている、悪夢を食べる獏を呼ぶおまじないらしい。
後藤は病室に何人もの人間が入ってくる雰囲気を恐れ布団を被っていたが、端をちょっと持ち上げて目だけで小熊を見ている。
桜井は昨日の遊びのせいでまだ少し赤い鼻をいじりながら、小熊に「痛いぞ~ 痛いぞ~」と呪いをかけるような言葉を繰り返している。
ストレッチャーに乗った小熊が病室から運び出される間際、それまで小熊を恐がらせることに熱心だった桜井はシャツの胸元から銀鎖で吊られたロザリオを出し、窓に向かって何かを祈っていた。
乗り心地の悪いストレッチャーで廊下を移動し、エレベーターを経由して手術室前に運ばれる。やっぱりドラマや映画に出てきたような赤い手術中のランプがあったことに妙な感心をする。やはりドラマに出てくるような照明の下で手術台の上に乗せられた小熊の左腕を、青緑色の手術服を着た医師がいじくり始める。毎日点滴を打つため針を刺しっぱなしのまま腕にテープで留められたコネクターに見慣れない点滴のボトルが繋がれ、医者がストッパーを操作した。
次の瞬間、小熊は体が今の姿勢を保っていられない感覚に襲われ、そのまま眠り、起きた。
何かが起きた実感が無いまま、眠った次の瞬間にはもう昼下がりの病室に居た。
ベッド横の椅子には礼子が座っていて、自分で持って来たらしきバイク雑誌を読んでいる。
小熊の頬に涙が一筋落ちた。礼子はまだ雑誌を読んでいる。
気づけ、と思った。
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