第18話 病院食
こんな刑務所みたいな飯しか食えないのなら、入院という奴は責め苦でしかないと思っていたのは、いつの頃だろうかと思いながら、小熊は病院食を頬張っていた。
今日の昼食は一合強のご飯と白身魚のカレーフライ、レタスとトマトのサラダ、高野豆腐の卵とじ。そして番茶。
釣り好きだという同室者の中村が言うにはブリらしい白身魚は、マヨネーズをちょっとつけると実にご飯と合う。メインディッシュに手をつける前に食べたサラダも、一人暮らしをしていると毎日用意するのはなかなか難しいが、やはり生野菜が一皿あると嬉しい。
カレーフライの合間に口にした高野豆腐も優しい味がして、家でも作ってみようと思ったが、家じゃ面倒で作らないだろう。
ご飯はマヨネーズ添えのカレーフライにちょうどいい量だったが、少し調整してご飯を余らせ、床頭台の引き出しを開けて取り出したワサビふりかけをかけて食べる。昨日史が慧海と長野に行ったお土産に持ってきてくれた安曇野ワサビふりかけは当たりだったらしく、乾燥した粉末ながらワサビの香気と刺激を味わうことが出来る。
カブの事故で足を骨折し、ここに入院してから三日が過ぎ、小熊は病院暮らしに馴染みつつあった。
牽引処置で足をベッドに固定されている不便は相変わらずながら、朝昼晩の食事が上げ膳据え膳で出てくる生活は悪いものではない。食事の内容も最初は質素で健康的な病院食に失望させられたが、資格を持った栄養士によってメニューを決められた食事は、実際に食べてみると栄養だけでなく味のバランスもちょうどよく、残さず綺麗に食べれば腹八分目のちょうどいい満足感を得ることが出来る。
小熊が現在の心境に至る上で最も貢献したのは、病院食を補う副食やおやつ。見舞いに来る人たちが持ってきてくれた食べ物が、ベッドの枕元に置かれた床頭台の収納部に入っていた。他の入院患者も自分の好物を床頭台やベッド下の引き出しに溜め込んでいて、よく隣や向かいのベッドに投げあったりしてる。
「小熊ちゃんマヨネーズー!」
ちょうど小熊の真向かいのベッドから声がした。小熊と同じくバイクの転倒骨折で入院している桜井。
小熊より三週間ほど早く入院し、もう骨にピンを打ち込む手術が終わり再来週に退院を控えた桜井は、まだ骨折の療養とリハビリ、手術の傷の経過観察の途中とは思えないほど健康で騒がしく、食欲もこの病室に居る面々の中で誰よりも旺盛。今も病院食を早々に平らげ、大手コンビニチェーン直営の院内売店で買った食パンに、小熊が床頭台から取り出して放り投げたマヨネーズをつけて食べている。
桜井は食事のたびに何かしら副食を食べていて、三度の食事の合間にもおやつや夜食をよく食べている。小熊にはあの体のどこに入るのか不思議だと思いながら、桜井の小柄な体と細身のウェストを眺めた。
本人は詳しく話そうとしないが、桜井はアメリカ中西部の出身らしい。染めていると思ったがそうでないらしき天然の金髪や、特に意識せずに見ていると灰色っぽい色だけど、日の当たる場で間近に見ると緑色の瞳を見るまでもなく、二~三日に一度は見舞いに来る両親はどう見てもアメリカ人で、桜井も両親との会話では英語を話していた。小熊が学校英語程度のヒアリング力で会話を盗み聞いたところ、ミシシッピの由緒ある家の娘らしい。
本人にその事を言うと怒り出す。自分の出身や人種、在籍しているらしいアメリカンスクールの生徒という身分より、バイク乗りであることこそが彼女のアイデンティティだった。
小熊との会話でも事あるごとにバイク乗りはこうあるべきと語っていて、今もマヨネーズをつけたパンを食べている桜井の姿を見た隣のベッドの中村に「よく食べるね」と言われ、「バイク乗りに最も大事なのはエネルギーだ」と自慢げに語っている。
小熊としてはバイクに乗っているということは自慢でも何でもないが、それを自慢にしている人間を山ほど見ていている。桜井もそのうちの一人なんだろう。要するに馬鹿。
旺盛な食欲に似合いの強い歯と顎で八枚切りの食パンを早々に四枚食べてしまった桜井は、小熊にマヨネーズを投げ返す。続いて四枚残った食パンの袋が飛んできた。
マヨネーズは何とか受け取ったが、投げるのがヘタな桜井のせいでパンの袋は右腿に当たる。骨折した部位が落ち着いたのか、毎日一本打っている点滴の輸液に痛み止めが入っているのか、今は捻っても引っ張っても、パンがぶつかっても特に痛みは無い。
質、量ともにちょうどいい病院食で満たされた気分を味わっていたのに、今から食パンというのは、ただでさえ運動不足な入院生活でダイエット的な意味でも気が進まないと思ったが、桜井があまり美味そうに食べていたので、一枚取り出しマヨネーズをつけて食べてみた。
悪くない味ながらちょっと物足りないと思った小熊は、床頭台のテーブルに出しっぱなしにしていたワサビふりかけの瓶を手に取り、マヨネーズつきの食パンに振った。海苔と粉ワサビで刺激的な味になったマヨネーズパンは、なかなかの美味。
小熊を見ていた桜井が自分のベッドを降り、ベッド脇に置かれた松葉杖をつきながら駆け寄ってきた。
「いいなそれ!」
小熊はもう一枚マヨネーズパンを作り、わさびふりかけを振った。桜井を無視して隣のベッドの後藤に薦めた。貧相な体格や表情に似合って食の細い後藤は、ご飯をお茶漬けにして、突き崩しフレーク状にした白身魚と共にゆっくりと食べている。サラダと高野豆腐には手もつけていない。きっと今日も食べ残し、残りご飯は桜井と小熊で頂戴することになるんだろう。
三度の食事をろくに食べず、病人っぽい見た目に拍車をかけているように見える後藤は、お菓子をよく食べていて、それで栄養を賄っているらしい。小熊たち同室者から貰ったり、院内の売店で買ったり、お菓子の入手には困ることが無い。
偏食の癖があってマヨネーズが苦手な中村は、ゲテ物を見るような目で見ている。
小熊は後藤に遠慮されたわさびマヨネーズパンを桜井に渡した。欧米人にワサビの味は理解できないと聞いたが、桜井は一口食べるたびに美味いと言っている。あっという間に一枚平らげた桜井は、満足した表情で言った。
「やっぱりバイク乗りは食べる物も刺激が無くちゃ物足りないな」
だからその何にでもバイク乗りがどうのって付け加えるのをやめろと思いながら床頭台の引き出しを開けた小熊は、コンデンスミルクのチューブを取り出してパンに塗った。
小熊が入院した翌日に、買い物のついでといった感じでふらりとやってきた慧海が教えてくれた食べ方。数日に渡り山で過ごす時には、これをよく間食にしているらしい。
後藤が興味を持っている感じだったので、後藤が苦手なパンの耳を自宅アパートから持って来たカミラスのポケットナイフで切り落とし、後藤に差し出した。
「ご飯、食べた後で」
後藤はご褒美の甘いコンデンスミルクつき食パンを大事そうにベッドテーブルに置き、あまり手をつけていなかった高野豆腐やサラダをもぐもぐと食べ始めた。
桜井が羨ましそうな顔で見ているので、残ったパンの耳にコンデンスミルクをつけて、アーンと口を開けて待つ桜井に食べさせてやった。
桜井は小熊と同じような部位を骨折し、同じような治療を行っている。あまり賢そうには見えない言動も、二週間後の自分の姿だと思えば、悪い気はしない。
「私にも一枚くれないかな」
あまり間食を口にしない中村が珍しいことを言ったので、小熊は床頭台の引き出しテーブルに並べられたマヨネーズやコンデンスミルクを指しながら言った。
「どれにしますか?」
後藤も自分の床頭台を開け、オレンジ・マーマレードの瓶を取り出した。後藤はよくマーマレードをパンやお菓子につけたり、直接舐めたりしている。
「何もいらないよ」
偏食の中村はマヨネーズだけでなく甘味も苦手らしい。小熊は一枚だけ残ったパンの袋を中村に向かって投げた。受け取った中村は何もつけない食パンを満足そうに食べ始めている。
栄養的にバランスの取れた病院の昼食に加え、四人で食パンを一斤食べてしまった。満たされた時間がゆっくりと流れていく。
小熊は今ごろクラスの同級生は何をしているのかと考えた。教室の硬い椅子に座り、ほぼ進路の決まった今となっては何の意味があるのかもわからぬ授業を受けているんだろう。
もしかして自分は、バイトとボランティア、それから引越し先探しに忙殺された年末年始に替わり、ちょっと遅れた冬休みを貰えたのかもしれないと思い始めていた。
小熊は今の暮らしを楽しんでいた。
数日後に控えた手術のことは考えないようにしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます