第15話 お見舞い

 担任教師とタクシー会社の事故担当者、続けざまの来客で小熊は少し疲れを意識していた。

 話し合いの結果はいずれも満額回答とまで行かずともそこそこ良好と言えるもので、少なくともこの大怪我がもたらす被害を最小に留められる目処はついたが、小熊はさっきからこちらを見るでもなく見ている中村の視線が気になった。

 六床のベッドがある大部屋とはいえ、会話の内容が丸聞こえの病室。これまでの応対で図らずも自分自身がどういう人間かを多少なりとも披露してしまった。

 地味な見た目と女子高生という立場に相反する物言い。いわゆる交渉能力とかいう物を垣間見せたことで一目置かれているのかもしれない。それとも、人当たりが悪く攻撃的で、自分の地位と安寧を脅かす人間だと誤解され警戒されているのかもしれない。 

 向かいのベッドの桜井は何も考えていないだろう。ずっとタブレットをいじっている様を見るまでもなく、見た目が既にアホの顔をしている。隣のベッドでずっと寝ている後藤も然り。


 小熊は両親を失い色々な交渉事を自分でやるようになってから、対人関係の構築スキルというものを身に付けたような気がする。その技術を最も伸ばしてくれたのはバイクに乗るという行動。

 今まで小熊は人間関係というものは、他者から自分の利益を引き出すことで、その継続は相手にも満足できるだけの利を供与することだと思っていた。

 例えばマルーンの女は、小熊が自分に必要な物を手に入れることだけを考え、そのために最善となる行動の一環として関係を維持している。マルーンの女もまた同じ気分で繋がりをキープした結果、今回の引越しでも双方が納得できるだけの利を得ることとなった。 


 特に問題や改善点があるとは思えない小熊の人間関係。小熊はカブに乗っていて時々同じ気持ちになることがある。エンジンも車体も快調そのもので、整備の必要な部分が見当たらない。そういう時によく、日常点検の範囲外に重大な不調が隠れていて、予想外のトラブルを起こす。そんなことは無いという願望の混じった思い込みによって、カブは完調であるという錯覚を起こす。

 今回の事故もそうだったんだろう。カブのメンテナンスには何の落ち度も無かった。どんなに完璧な整備を行っても、あれ以上の旋回能力やブレーキ性能を発揮することは出来なかっただろう。でも、乗っている自分自身はどうだっただろう。もっと体調のいい状態を心がけ、疲労や集中力低下を起こしている時はそれに合わせた速度で走るということが守れていれば、せめて自分の足の骨より先にカブの車体をタクシーに当てるくらいの事は出来たかもしれない。


 ただ何もせず寝転がっていると、考え事が多くなる。もしかして自分は、双方の利益や見返りの無い人間関係を構築できない人間なのかもしれない。たとえば、年齢も身分も違う四人の女が、強制的に同じ部屋で生活させられる入院という環境で、うまくやっていけず孤立することになるかもしれない。

 もう一度小熊は病室を見回した。隣の後藤は昼寝から目を覚ましたらしく、もぞもぞと体を動かしている。桜井は今まで見ていた動画が終わったのか、何か別の動画を探している。中村は、さっきまで小熊とは極力視線を合わせないようにしていたが、今は小熊を見ている。小熊が次にやろうとしていることを知っているかのように、その行動の始まりを静かに待っている。


 小熊も大したことをする積もりはない。ただ、せっかく同じ部屋で暮らすことになったんだから、自分の主導でお喋りの一つもしてみようかと思っただけ。話題の持ち弾は少しくらいならある。自分が人間関係から利を得る機械ではなく、損得抜きでただ人との付き合いを楽しむ感情を有していることを確かめたかった。

 小熊は口を開き、何か話の取っ掛かりになることを言おうとした。中村も小熊という人間のスペックじゃなくパーソナルの部分を見られる事への期待を宿した目をしている。桜井と後藤も、小熊が声を発する以前の空気で、これから何か起きるのかと反応している。

 小熊が「あの」と言おうとしたその時、廊下から足音が聞こえた。早歩きにも小走りにも聞こえる。あるいは一生懸命走っているんだけど、普通の人間にとっては早歩きの速度。それだけで小熊には誰が来るのかわかった。

「小熊さん!」

 恵庭椎が、水色がかった髪をふり乱しながら病室に駆け込んできた。


 椎はそのまま小熊のベッドに走り寄り、ベッドの上に飛び乗ってくる。揺れて痛いが小熊は表情に表わさなかった。

「小熊さん!何でこんなことになっちゃったんですか?生きててよかった。本当に生きていてくれてよかったです」

 小熊の胸に顔を押し付け、椎は声を上げて泣いている。さっきまで小熊を見ていた中村は肩を震わせて笑いながら言った。

「モテモテだね」


 桜井は目を丸くして小熊と椎を見ている。身長140cmに満たぬ、街にある規格品の郵便ポストとほぼ同じ身長の椎は、見た目からして小熊と同じ高校生には見えない。

 小熊の妹か、それともこの依存っぷりを見るに、小熊は高校生だけど留年しまくっているとかで意外と年上で、椎は小熊が産んだ娘なんじゃないかと思っているような顔。どちらにせよあまり賢い事を考えているようには見えない。

 後藤は隣で始まった騒がしいやりとりを見て、さっきまで寝ていたのに、またふて寝してしまった。もしかして小熊のことを病室に見舞いに来るような友達の居ない自分の同属と勝手に思い込み、椎を見て勝手に裏切られたと思っているのかもしれない。


 小熊は自分の体を抱きしめて離さない椎の頭を押し、自分から離した。椎は子犬のような顔で小熊を見上げる。

「何で来たの?」

 潤んだ目で小熊を見つめていた椎の顔がふにゃぁと歪む。もう一度泣き出しそうな顔で言った。

「だって小熊さんが大怪我したって聞いて、私もう何も考えられなくなって、気がついたら来ちゃったんです」

 小熊は椎の肩に手を置きながら、落ち着いた口調で話す。

「来てくれたことは嬉しいけど、何でマスクを着けてないの?」


 間もなく受験を控えた椎は、今はもうするべき勉強を終えて試験本番のために体調を整える時期。病院は病気を治す場所であると同時に、病気への感染リスクが高い場でもある。今インフルエンザでも貰ったら東京で行われる入試に行くことさえ出来なくなるかもしれない。

 体を左右に振りながら「だってだってだって」と言う椎の髪を撫でて落ち着かせながら、小熊はナースコールを目で探したが、思い直して斜め向かいのベッドに向けて声を上げた。

「あの、中村さん、大変申し訳無いのですが」

 中村はくすくす笑いながら床頭台の扉を開け、中身を取り出しつつ言った。

「あぁ、持っているとも。良かったら使ってくれ」


 小熊は中村が放り投げたマスクを受け取った。封を切り、甘えるように口を突き出す椎にマスクを着けてあげた。最近は生放送配信者などがファッションで着けることも多いというマスクは、椎にあまり似合わない。

 椎はマスクを着けたことで、おおっぴらに病院に来られる許可証を得たかのように、喉を鳴らしながら小熊に頭をこすりつけて来る。

 小熊はマスクの袋をひっくり返し、裏に貼られた値段シールを見た。街の薬局より安い院内の売店で買ったらしく、自販機のコーヒー一杯分くらいの値段。中村に視線を向けた。

「気にしないでくれ。これから共に暮らす小熊くんへのプレゼントだ」

 小熊は頭を下げ、椎に着けられたマスクに指で触れた。椎は子犬が耳の後ろを撫でられたように目を細めている。このマスクはもしかして、小熊が先ほど考えていた見返りを求めぬ人間関係というものの一部かもしれない。


 小熊のおめでたい考えを打ち消すように、桜井が呟いた。

「ヒヒヒ、後で高くつくぜ」

 小熊は早くこの足の牽引装置を外してもらい、杖をつきながらでもベッドから離れられるようになることを願った。マスク一つの元金に付いた利息で首が回らなくなる前に、早くコーヒーの一杯も奢って借りを完済しなくてはいけない。

 中村だけでない。小熊には借りや貸しを残している人間が何人も居て、退院したら借りを返したり貸しを取り立てたり、あるは更に借り足さなくてはいけない。

 人間関係というものはそういう貸し借りの残債なのかもしれない。

 小熊の元を離れた椎が中村のところまで歩いて行き、深々と頭を下げた。

「マスク、ありがとうございます。あと、これからわたしの小熊さんがお世話になります。よろしくおねがいします」

 小熊に貸しを与えたことで、ほくそ笑むような顔をしていた中村が、子供にお年玉の礼を言われた親戚のように照れくさそうにしている。少なくとも椎は、小熊ほど貸し借りに関してだらしない性格では無いらしい。


 面会終了時間一杯まで長居し、かいがいしくお世話をすることに決めたらしき椎が、ベッドサイドの丸椅子を無視して小熊のベッドに座り込んでいると、再び足音が近づいてきた。

 歩調は早くも遅くも無いが、レッドウイング・ベックマンのごつい足音を聞いただけでイヤな予感しかしない。

「ぶっひゃっひゃっひゃっひゃ!ほんとに足折ってんの!バカね!あんた今すっごいバカよ!ぶっひゃっひゃっひゃっひゃ!」

 小熊が少なくとも対人コミュニケーション能力においては何一つ学ぶものが無いと思っている、人間関係の貸借における借金王がやってきた。

「何しに来た? 礼子」

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