第14話 事故担当者

 退去した担任教師と入れ違いのような形で、初老の男性が病室にやってきた。

 くたびれたスーツ姿で風采の上がらぬ印象だが、病室入り口のプレートを一瞥しただけで迷わず入ってくる様や、中を見回すことをせず小熊のベッドまでやってきた動きを見るに、充分な下調べをしてから来たことがわかる。

 自己紹介した男性は、小熊が察した通りタクシー会社の事故担当だった。


 小熊の姿を認めた男性はベッドの横に膝をつき、深々と頭を下げる。

「このたびは弊社のドライバーが大変なご迷惑をおかけいたしました。誠にお詫びのしようもございません」

 小熊は処置の時に打った痛み止めがようやく体に馴染んできたらしく、幾分頭がはっきりしてきたが、疲れていることは変わらない。平身低頭な姿を見せるパフォーマンスに付き合う義理も無いので、ベッドサイドに置かれた丸椅子を勧めた。


 そうすることがマニュアルに書かれているのか、一度は形だけ遠慮した事故担当者は、小熊が少し不機嫌な態度を示しつつもう一度椅子に座るよう促すと立ち上がり、膝をつく姿勢に随分馴染んだと思わしきズボンの皺を伸ばしてから、遠慮がちに着席した。

 事故担当者は県内の大手タクシー会社の社名が入った名刺を差し出した。小熊が受け取って体を伸ばし、床頭台に置こうとしたが、手が届かない。事故担当者は慣れた仕草で床頭台についた引き出し式のテーブルを出した。


 ベッドのヘッドボードに付けられたネームプレートに目を走らせた事故担当者が、小熊の姓を目で追って読み方に迷っている様子だったので、小熊は短く言った。

「小熊で構いません」

 ついさっき中村も読めなかった、やや難読な小熊の苗字。もう見知った人間は皆ファーストネームで呼ぶし、この事故担当官から皆とは異なる特別な呼び名で呼ばれる気にもならなかった。

「では小熊さん。先ほど事故の詳細及びドライブレコーダーの映像を調べさせて頂きました。今回の事故については、全面的にこちら側に非があるということを認め、入院加療の費用および車両の損害を弊社が全額補償させて頂きます」


 小熊は心中の安堵が表情に表れないよう意識した。先ほどから小熊が心配だったのはこの病院での入院にかかる費用。事故の状況からいって相手が責を追うべきなのは明白だが、それらの帰属がスムーズに進むとは限らない。

 過失相殺で相手の落ち度が決まっても、それに伴う賠償が正式決定するまでの費用を自腹で立て替えなくてはいけないこともある。相手がゴネればもっと大変になる。補償費用が高額になれば、刑事罰を回避するために調子のいいことを言って示談で賠償を約束しつつ、いざ支払う段になると資力が無いと言って逃げられることもある。

 

 どうやら金銭的な損失は負わなくていいらしいことだけはわかった。カブの損傷についても転んだ時の感触から察するに、エンジンとフレームは無事で、外装部品を幾つか換えれば直りそう。もしも車体が予想外のダメージを受けて全損になっていたとしても、中古のカブ一台。タクシー会社や保険会社からしてみれば、同等の中古車と交換したとしても、車ならバンパー一つ換える程度の出費を渋ることもないだろう。

 こちらに非があるかのように警察に説明していたタクシー運転手の反応から、話がこじれる可能性を憂慮していた小熊にとって、思いがけぬ良好な条件提示。向こうもおそらくお高い給料をもらってる身。もっと高級な車や被害者を相手にする事故処理で忙しい身にしてみれば、満額の賠償よりも時間の浪費のほうが損失なんだろう。

 もしかして、この後に待っているであろう示談交渉に応じても損は無いのかもしれない。


 相手の言葉が自分の利害に直結する時には、いかなる理由があろうと即答してはいけない、という浮谷社長の役に立つか立たぬかわからぬうんちくに従い、小熊は相手の言葉をもう一度自分の中で噛み砕いた。とはいえ目の前の男性は人畜無害に見えるし、特に怪しむべき部分は無い。善良な人間にすら見える。

 小熊は病室を見回した。隣のベッドで他人の話に聞き耳を立てていたらしき後藤は、食後の眠気が来たらしく体格に似合わぬイビキをかきながら眠っている。向かいのベッドの桜井はベッドの上であぐらをかき、ベッドテーブルに置かれた私物らしきノートパソコンで何かの動画を見るのに夢中になっている。

 

 中村はベッドに寝転がり、窓の外を見ながら口笛を吹いていた。曲はオリーブの首飾り。フランスの有名なポップスだが、日本では特定のイメージがついている、マジックショーのBGM。

 意外と達者な口笛で奏でられるオリーブの首飾りを聞いた小熊は、礼子の言葉を思い出した。バイクの事故とは関係ない、あるニュース報道を見た時に言ったこと。 

「手品師は右手を派手に動かして左手のタネを隠す」

 この低姿勢な事故担当者が手品師なら、右手に何があって左手に何を隠しているのか。そう思った時に小熊は閃いた。目の前の男性が手厚い事故補償を振り回しつつ、一度も言及しない事について。

「休業の補償はどうなりますか?」


 事故担当者は困ったような顔をした。対等な交渉相手ではなく大人が子供に説いて聞かせるような口調で返答する。

「小熊さんはまだ高校生ですよね? 卒業に支障が無いということは先ほど担任の先生からお伺いしましたが」

 この狸め、と思った。普通は事故後真っ先に駆けつけて、相手がまだ事故で混乱しているうちに自分たちのペースで交渉を進めるというタクシー会社の事故担当者が、事故後二時間以上経ってから来た理由がわかった。高校生活において金銭に繋がる損害が発生していないという言質を取り付けるために違いない。社会人の休業と異なり、学生は留年等の実害が無いと損害の認定が難しい。

 そこで小熊が大人しく引き下がるかといえば、そうも出来ない事情がある。


「私は甲府のバイク便会社に勤務しています。そこで得る収入は重要な学資です。今はもうそれが出来ません」

 小熊は自分の右足を示しながら言った。入院だけでなく、卒業式後の補習もバイク便の仕事をする時間を根こそぎ奪っていく。小熊の給与明細が示す今までの実績を見る限り、得られたであろう金額はそこらのバイト学生とは桁が違う。

 事故担当者の顔つきが変わる。ただの高校生で、親が出てくる心配も無い相手だと思ってたいが、どうやら一筋縄でいかない人間であることを知ったのか。


 それがこの男性の見立て通りかどうか小熊にはわからなかったが。少なくとも小熊は、他人が思うほど平穏な高校生活を送っていない。

「もう一度、本社と相談させていただいてよろしいですか?」

 小熊としても事故当日に性急な決め事をするのは好まない。了承を伝えると、事故担当者は土産の菓子折りを置いて病室から退去した。

 面倒な話を終えた小熊は一つため息をつく。入院というのは自分の怪我や苦痛を相手にするだけでなく、これほどまで人と会い、話さなくてはいけないものだとは思わなかった。

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