第16話 ハイエナ

 礼子はひとしきり笑った後で、真面目な顔をして言う。

「カブは?」

 小熊が警察に預かって貰っていると言うと、礼子は早速踵を返し病室を出ようとした。

「待て、カブは潰さない」

 礼子はつまらなそう顔をして振り返る。

「あの52ccエンジンを貰おうとしたのに」

 小熊は折れてないほうの足を持ち上げながら言った。

「明日世界の終わりが来ても礼子にはあげない」

 右足が固定されているせいで、左足で礼子に蹴りを入れることさえ叶わないのが何とも悔しい。


 バイクが好きで乗っている奴が事故を起こすと、バイク乗り特有の横の繋がりで、どこからか事故の報を聞きつけた仲間が集まるらしい。

 目的は全損したバイクの部品。仲間達はハイエナかハゲタカのように壊れたバイクに群らがり、使える部品を剥ぎ取って持ち去る。その部品のうちの幾つかは別の事故車から剥いたものであることも多い。

 事故の見舞いを兼ねて実費程度の礼を渡すのが慣習で、事故車を引き取り業者に売るよりずっと金になるが、バイク乗りはバカが多いらしく、現ナマを手にした途端に折れた骨も繋がらぬうちから次のバイクの頭金に回したりする。


 小熊はそこまで馬鹿になる気は無いので、あのカブは直して乗ることにした。シノさんから百基に一基の当たり物と言われた小熊のカブのエンジンが礼子に流れでもしたら、あの高回転までよく回り、必要充分なパワーの出るバランスのいいエンジンに、どんな無茶なチューニングを施されるかわかったものではない。

 小熊は病室の向かいに居る桜井を見た。自分と同じくバイクで事故を起こした桜井にも、ここまで無遠慮なバイク仲間は居なかっただろう。桜井は動画を見る片手間といった感じで言った。

「あたしなんて事故当日にチームの皆が押しかけてきたんだぞ? NSRの足回りよこせエンジンよこせツナギよこせってな。やらねーよ全部直すし」 


 最も重要な用事が空振りに終わった様子の礼子は、さっさと帰ろうとしている。病院というあまり面白いアミューズメントスポットの無い場所には長居したくないんだろう。

 小熊はさっきからベッドに座り込み、自分の体に指でのの字を繰り返し描いている椎に顎をしゃくりながら、礼子に言った。

「連れて帰って」

 椎は「え? 何でですか?」とでも言いたげな顔で小熊を見ている。マスクを着けているおかげで、目は小さめだけど黒目が大きく、虹彩の色が日本人の平均より薄い椎の瞳が強調されて見える。

 小熊はもうすぐ面会時間が終わりつつあるということを言いたかったが、椎はそんなつまんない決め事など自分のしたい事の前には何の意味も無いと言わんばかりに居座っている。

 初めて会った時の椎はこんな子じゃなかったと思っていたが、もしかしてこれが椎の本当の姿なのかもしれない。ほぼ一人で決めたという一般受験による進学もそうなんだろう。椎を自分の思う事や欲しい物に対して正直な人間にしたのは何なのかと思った小熊は、椎の腰のあたりに触れた。


 椎は「ひゃっ!」と言って飛び上がる。小熊は構わず椎の制服スカートの腰回りを探る。女子平均より手が大きく、おかげでメンズサイズのグローブが使える小熊が両手の指で輪っかを作ったら収まってしまいそうな細いウエスト。椎がいつもリトルカブで出かける時にスカートの腰にクリップで留めている、リトルカブのキーが無かった。

「どうやってここまで?」

 椎がにっこり笑ってブラウスの胸を見せ付けてくるので、小熊はポケットに手を突っ込んで中身を取り出す。カブよりも小さいキーが入っていた。

「リトルカブは慧海が乗っていっちゃたから、パパのモールトンで来たんです」

 椎が去年の冬に川に落として大破させたアレックス・モールトンの小径ロードバイク。メインフレームも変速装置も壊れ、車体を回収した礼子はもう廃車だと言っていたが、直したのか買い換えたのか。

「フレームはシノさんのとこに持ってって溶接とプレス修正で直したんです。ギアは中古品に交換して、メーカーに送るよりだいぶ安く直せました」


 小熊は椎のブラウスを摘み、胸ポケットにモールトンのキーを落としながら言った。

「機械はいいね。相応の機材を使えばすぐ直せる」

 椎が小熊の目を覗き込んでくる。小熊の言葉の裏にある真意や本音を見通そうとしているような瞳。マスクで口元は見えないが目だけで椎が意地悪そうに笑ってるのがわかる。

「慧海なら明日行くって言ってましたよ。小熊さんから貰ったKLIMのスキーウェアについて幾つか聞きたいことがあるそうです」


 慧海にとって足を骨折し救急車に乗って入院する事など日常の一部でしかないんだろう。今は椎のリトルカブを借りてどっかに行っている。どこなのかは察しがつく。小熊は慧海と同じクラスで、最近ホンダ・モトラに乗るようになった史の顔が思い浮かんだ。

「今日会いたい」

 椎が小熊の鼻をつつきながら言った。

「私に同じことを言ってくれたら、連れてきてあげたのに」

 小熊はバイク事故の担当者との交渉はそこそこ上手くいったと思っていたが、自分には苦手な駆け引きもあるらしい。


 退屈したらしくもう帰りたい様子の礼子に、同じ病室の桜井が声をかけた。

「お前もしかしてレーコか?ハンターカブのレーコ」

 いきなり名前を呼ばれた礼子は、桜井の顔を注視したが、思い当たる知り合いが居ないらしく首を傾げている。

 自分の顔を指差して「あたしだ!あたし!」と言っていた桜井は、ベッドの下に手を突っ込んで何かを取り出した。

 桜井が手にしたのはヘルメット。派手なペイントが施されたAGVのフルフェイス・ヘルメットだった。


 礼子はヘルメットを見た途端、桜井に駆け寄っていく。

「淑江か? NSRの淑江か? あんたヤビツで死んだって聞いたけど、こんなとこにブチこまれてたの?」

 桜井も礼子の顔ではなく、片手にブラ下げていたヘルメットを見て礼子だと気づいた様子。顔よりメットやツナギ、あるいはバイクの改造仕様で相手を覚えるのは、走る場で知り合った同士によくある事らしい。


「あたしもNSRも墓アナには入らねーよ! もうすぐ事故の金がたんまり入るから、それで直すんだ」

 小熊は最初に話した時からそう思っていたが、やっぱりこの桜井という女は頭が悪い。礼子と話が合う様子が何よりの証拠。礼子は桜井を肘でつつきながら言う。

「アルミフレームは曲がったらもう直んないわよ。金あるんなら買い替えなって、ちょうどモンキーの出物があるのよ」

 桜井は礼子の肘を払いのけながら言った。

「あたしは4ストなんか乗らねーよ。どうやって回ってるのか考えると頭がメチャクチャになる」


 あの桜井という女の頭の中はお察しだが、少なくともエンジンに関してはカブやモンキーの4ストロークエンジンのヘッドとバルブは相応の賢さが無いと動作構造が理解できない。一方2ストはただの蓋。

 とりあえず小熊は礼子が言った事の中で、聞き捨てならない話に反応した。小熊にブラウスのポケットを弄くられ気持ち良さそうに目を細めている椎は脇に放り出す。

「モンキーの出物? キャブ? 12V? フレームに溶接とかで熱は入ってない?……いくら?」

 こっちだって休業補償の交渉次第で纏まった現金が手に入る。当然カブは直すけど、仕事でVTRに乗ったことでカブ以外のバイクに視野を広げることも楽しいと知った。


 何より小熊の耳目を惹いたのは、中古バイク屋に謎のコネがある礼子が言った出物がモンキーだということ。カブと同型エンジンのレジャーバイクでアフターパーツの供給はカブ以上。ちょっといじれば百三~四〇kmは出るらしい。

 モンキーは車体の頭金さえ何とかなれば、あとは毎月の稼ぎの中からローンを払い、少しずつ部品を買い揃えてカスタマイズしていくなり、誰かモンキーで事故を起こした馬鹿からパーツを剥くなりすれば、金は全然かからないと聞いている。つまり実質タダのようなもの。

「詳しく聞かせて」

 さっそくモンキーの説明を始めようとする礼子を引っ張るように、椎は病室から出て行った。

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