第10話 鎮痛剤

 処置室の中で看護師にデニムパンツを脱がされ、への字に折れ曲がった自分の腿を見た時、小熊は以前礼子がハンターカブのエンジンを壊した時のことを思い出した。

 礼子が言うには、カブはたとえマフラーが白煙を吹いてもシリンダーから異音がしても、高回転まで回らなくなっても、エンジンを開けてみるまでは焼きついていないらしい。

 確かその時の礼子はいずれもバイク好きで知られる片岡義男と花村萬月の小説を続けざまに読んでいたと聞いた。たぶん礼子の脳は理系ではなく文系の思考になっていたんだろう。


 バイクに乗るためには物事を理論的に考えなくてはいけない。実際に焼きついたピストンを見る前に、客観的な状態から焼きつきを起こしている可能性が高いなら、エンジンを分解し焼きつきが明らかになる以前に、必要な部品を発注しておかないといけない。

 理知的な思考と判断を怠って意味の無い思考ゲームに逃げていると、礼子のように、もしかして焼きついていないかもしれないという希望的観測を抱いたままエンジンを開け、結局焼きついていたシリンダーとピストンをありあわせの手持ち部品で安直に修理した結果、今度はクランクシャフトのベアリングを焼きつかせ、シュレディンガーの箱の中の猫ならぬクランクケースの左右に付いた、生きているベアリングと死んでいるベアリングに対面することになる。


 異音を発していた片側のベアリングを破棄した後、礼子の馬鹿が見た目はまだ生きているように見えるもう片方のベアリングを再利用しようとしたので、エンジンをほぼ全分解する修理作業を手伝った小熊が、どうせこうなるだろうと思って事前に注文しておいた新品に替えさせた。

 カブであんな走り方をしている礼子が今の今まで五体満足で、自分は今つまらない右直事故で足を折っている。世の中はバイクに乗る人間にとって不公平だと思った。礼子に対する逆恨みの感情で苛立った小熊は、痛みが意識の外に押しやられていることに気づく。とにかくどんなに苦痛を伴う方法でもいいから、早くこの足を繋ぎ直して、今の自分が感じている怒りを礼子に叩き付けに行きたい。

 どうやら逆境において人間を動かし、困難を乗り越えさせてくれるのは、誰かを慈しむのではなくブン殴りたくなる感情らしい。


 小熊の右腿を見て、レントゲンを撮るまでもなく見た目からヒビや脱臼ではなく完全に折れていると判断したらしき処置室の医師は、骨折の処置に必要な機具や薬剤の準備を指示している。さすが医学は理系の窮極と言うべきか。

 色んな注射を打たれ、やっと痛みが落ち着いたあたりで腿をレントゲン撮影する。映像を見た医者は笑いを噛み殺すような声で言った。

「右大腿骨の単純骨折ですね」

 笑い話じゃないと思いながら小熊も自分の足の骨が映されたレントゲン画像を見たが、漫画に出てくるような骨が漫画に出てくるような感じでボッキリと折れているのを見るに、他人事なら笑うしかないのはわかる。それとも患者を不必要に不安な気持ちにさせないための正しい対応として、この半笑いも医学書に書いてあるのかもしれない。


 色々な骨が複雑に組みあわさった下肢に比べ、太い骨が一本通っているだけの太腿がいつ折れたのか、小熊は思い返した。タクシーのバンパーに腿を軽くトンと押されたような感触が蘇ってくる。

 医者は昔のマンガに出てくる骨付き肉から突き出た骨のような小熊の大腿骨に指を触れながら言った。

「良かったですね、これほどの衝撃を胸部か頭部に受けてたら、即死でしたよ」

 だからそういう笑えないような話を笑いながら言うなと小熊は思った。


 救急搬送された患者が運び込まれる処置室。後がつかえているらしく、医者はてきぱきと治療方針の説明を始めた。

「まず右足を牽引して、骨を通常の形に戻します。それから髄内釘、金属の棒ですね、それを骨の中に打ち込む手術を行い、以後はリハビリとなります。ギプスは使いません」

 幾つか小熊にはわからない単語が出てきたが、それは追々聞けばいいと思い、とりあえず今気になっていることを尋ねた。

「どれくらいかかりますか? 退院まで」

 医者は車やバイクを修理か何かで入庫させた時の整備業者と変わらない口調で答えた。

「五~六週間くらいですね」


 まだ高校生活も残っている時期に一ヶ月半。せっかく推薦で大学入学も決まり、引越し先まで見つけたのに、高校を卒業出来なくなるかもしれない。小熊は自分が明るい未来のために今まで積み重ねてきた努力があっさり崩れ去って行く様が見えた気がした。

 日頃の行いが悪かった記憶は無い。カブに乗っている時だって、礼子みたいな危険な走りをした覚えも無いし、あの事故に自分の落ち度があったとは思えない。それなのに、なぜこんな不幸に見舞われないといけないのか。


 医者は小熊の表情など気にも留めず、カルテを書きながら言った。

「まぁ命が助かったんですから。後遺症も無いでしょうし」

 一通りの処置が終わり、ストレッチャーで病室へと運ばれた小熊は、看護師が牽引措置の準備を行っている様を眺めていた。

 処置室で打たれた鎮痛剤のせいなのか、さっきまでの怒りを伴った感情が薄れていき、頭が働かない。

 これからどうすればいいのか、全くわからない。

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