第9話 処置室

 小熊はカブに乗っていて救急車に出くわした時によく、なんで信号を無視し一般車を蹴散らして走ることが公式に許された車が、あんなに緩慢な走りをするのかと疑問を抱いていた。

 いつも後ろから緊急車両が来た時は、速やかに道端に寄って譲ることにしているが、信号の多い市街地ならともかく、空いている幹線道路では、小熊の日常的な巡航速度で救急車に追いついてしまうことが多い。

 同じく緊急車両のパトカーや白バイなどは、いつも赤灯を回した途端に急加速して走り去って行く。

 文字通り救命を目的に急いでいる救急車も、パトカーが交通違反者を捕まえて得る罰金のような具体的な報酬が無いと、迅速に走れないのかと思っていた。

 実際に搬送されてみると、身を以ってその理由を知ることが出来る。

 揺らすと痛い。

 

 小熊は救急車に乗っている間ずっと、全身が冷え、締め付けられるような鈍い痛みと、右足が斧で叩き折られるような鋭い痛みに耐えていた。

 体を丸め、縮めていると鋭いほうの痛みは抑えられることがわかったが、救急車が段差を越えたり車線変更で白線を跨いだりするたびに、電流のような痛みが襲ってくる。

 救急隊員の話では命に別状無いらしい足の骨折でこれほど痛むなら、振動や衝撃が命取りになるという脳出血ならなおさらだろう。自分も当たり所やヘルメットにかけた金次第によってはそうなっていた可能性があると思いながら、小熊は車窓から外を眺めた。


 見慣れた国道の風景は車内から見ても変わりないと思っていたが、信号が連続して設置してある一帯で、普段はタイミングを調整しているのか一度も止まらず抜けることが出来ない場所をノンストップで通過している時は奇妙な万能感に浸ることが出来た。

 痛みは消えないが多少なりともコントロールできるようになったので、特に処置することも無く手持ち無沙汰な様子の救急隊員に話しかける。

「病院は家の近くがいいですね」

 救急隊員は「そういうことは出来ないから」と身も蓋も無いことを言った。

 運転席のディスプレイに受け入れ可能な救急病院が表示され、小熊はアパートのある日野春の隣、韮崎の駅近くにある公立の総合病院へと運び込まれた。


 病院は小熊が患者として行ったことの無い場所だったが、医療検査物の集配バイトをしていた時の周回ルートのうちの一つだった。

 検体回収のために訪問していた時は患者と同じ正面玄関から入っていたが、今日は救急入り口から運び込まれる。救急隊員に礼の一つも言おうとしたが、病院の職員と引継ぎか何かの話をしていた隊員は小熊のことを一顧だにせず、救急車に乗り込んで走り去ろうとしている。

 人命を救うため日々走り回り、疲労することも休むことも無いかのような逞しい男たちと、ここまで運んでくれた救急車の後姿に軽く手を振って感謝を伝えた小熊は、担架に台車のついたストレッチャーに乗せられ、病院内に運び入れられた。


 小熊はストレッチャーの上で体育座りしたまま、処置室前まで連れて行かれる。ここまでストレッチャーを引いて来た看護師の話では、処置まで少し待たされるらしい。

 痛みを和らげる姿勢がわかってきたおかげで、多少なりとも余裕が生まれてくる。自分でも意外なくらい頭の中は冷静だった。とりあえずもう一度頭の中で自分に起きた事を整理した。

 カブに乗っていて事故を起こした。右折中のタクシーにぶつけられた。骨が折れたのはおそらく、カブの車体とタクシーの前部が衝突した時ではなく、その後に転倒し地面を滑った時でもない。その中間。最初の衝突の直後、バンパーと腿が当たった時。軽くトンと押されただけという感覚だけど、急ブレーキをかけたタクシーに残る前進のエネルギーを直接受け止めることになった。一トン半の物体が動く力の前には、人間の骨などひとたまりも無いだろう。


 あの事故は回避出来たのか? たぶん出来なかった。じゃあ被害を低減することは不可能だったのか。バランスを崩す程度だった一度目の衝突はカブの車体で受けたが、二度目もカブに当たっていたら、小熊は弾き飛ばされたカブから放り落とされ、きっとそのままタクシーの下に引きずりこまれるように轢かれていただろう。

 右腿じゃない別のところに当たっていたら、たとえば腕。あるいは足でも脛や膝なら、たぶん骨が折れただけでは済まず、腕や足そのものが千切れ、失われていた。

 胸や腹、背中。そして頭。太い足の骨を叩き折るほどの衝撃を受けたのが人間の急所なら、小熊はきっと今頃ここに居ない。


 小熊の体が突然、骨折のショック症状とは違う震えに襲われる。一つ間違えば死んでいた。他人のそういう話を聞いても実感に乏しかったが、ついさっき受けたばかりの衝撃を右腿に感じていると、そのダメージが体の別の部位に来た時に起き得る状況を明瞭にイメージさせられる。

 年間数千人と言われる事故死者の一人となった自分自身が頭の中に思い浮かんだ。赤い海の中でただの物となった姿。

 さっきまで冷静に事故の分析をしていた思考が暴走し始め、体が自分でも抑えられないほど震えてきた。

 死んでいたかもしれない。今はただの骨折にしか見えないこの痛みも、もしかしてこれから自分を殺す重症の前駆なのかもしれない。死にたくない。死ぬことは無いと誰かに言って欲しい。

 蒼白な顔のまま震えていた小熊の前で、処置室のドアが開いた。

 

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