第8話 救急車
道の端に寄せられ、何とか轢かれることを回避した小熊は、今さら全身が痛むことに気づいた。
どうやら手足も命も失っていないらしいが、腕も足も背中も痛い。小指を工具箱にぶつけた時のような鋭い痛みではなく、肉体が痛みを感じる神経ごと壊れているような、恐怖と悪寒を伴う痛み。
かろうじて上半身と両腕を動かせることはわかったので、ライディングジャケットのジッパーを苦労して下ろし、内ポケットからスマホを取り出す。
誰かが小熊の手をスマホごと押さえた。
「大丈夫だ。さっき救急車を呼んだから、今は動かないほうがいい」
小熊はただ自分の持ち物の中でカブの次に、もしかしたら今のカブより高価なiphoneXが壊れていないか確かめたかっただけ。カブの損傷については小熊の居る位置から見えなかったし、見たくない気持ちもあった。
背後から聞こえる人の声で、倒れていたカブが通行人によって引き起こされ、小熊の背後まで転がされてきたのがわかる。異音は聞こえないが、今は自分の聴覚に自信が無い。サイドスタンドを立てる気配がした。
振り返れば自分のすぐ後ろにカブがある。しかし今は体を捻ろうとすると電流が走るような痛みに襲われる。
後ろで誰かが言った「やっぱりカブは丈夫だな」という言葉を信じ、今は安静を心がけた。
普段カブで飛ばしている幹線道路を、地べたに座りこんだ低い位置で眺めるという珍しい体験をしているうちに、赤灯を回したパトカーがやってきた。
いつもなら原付ライダーから現金を徴収する憎き敵にしか見えないパトカーが今日は心強い。一度小熊の前を通り過ぎたパトカーが停まり、ドアが開いて中から二人の警察官が出てきた。
一人がてきぱきと交通規制を始め、もう一人が小熊に近づいてきて小腰をかがめながら言った。
「大丈夫ですか?」
小熊が頷くと、警官は小熊の名前と住所、誕生日などを聞いてくる。
脳と意識に異常が無いか確かめる質問については知っていたので、機械的に答えた。続いて警官が検問や職務質問と同じ口調で「免許証はお持ちですか?」と聞いてきた。
小熊は動かすたびに痛みの走る右足に苦労しつつ、デニムパンツのポケットから革のガマグチ財布を取り出し、中に入っている免許証を差し出す。
「あら女の子でしたか」
失礼極まりない警官だと思ったが、自分の命が助かるのかさえ不安な状況では、こんなふうに日常業務の一環で接してくれる人間のほうがありがたい。
さっきからずっと自分の車の横で携帯に向かって喋っていた事故当事者のタクシードライバーが、小熊に近づいてきた。こっちが生きて動いていることをやっと思い出してくれたらしい。
見るからに貧相な初老の男性が、小熊に話しかけてくる。
「あの、す、すみません、大丈夫ですか?」
声がよく聞き取れない。小熊は自分がヘルメットを被ったままだということに気づく。両手を肩から上に持ち上げると足が強烈に痛むが、何とかヘルメットを脱いだ。季節は真冬で、体は熱っぽいどころか嫌な感じに冷えているのに、汗が飛び散った。
「あの、君、危ないよ、原付であんなふうに走ったら」
相手が自分のことを女で、まだ子供といっていい年齢だということに気づいた気配がする。何とか丸めこんで双方が悪いということで押し切ろうとしているんだろうか。とりあえず返答だけはしておく。
「喋ると痛むので」
それだけ言って小熊は顔をそらし、頭を垂れた。
背を丸め、首を縮め、体全体を収縮させると痛みが幾らかましになることに気づいたので、その姿勢のまま救急車を待った。
一方的に話を打ち切った小熊に困惑した様子のタクシードライバーは、話す相手を警官に切り替え、まくしたてるように喋り始める。
「原付がこっちに突っ込んできたんです、向こうからぶつかってきたんです」
食ってかかろうにも今は立ち上がることも出来ない。冬とはいえ陽光暖かい昼間なのに、さっきから寒気と震えが止まらない。小熊が不安に苛まれていると、ようやく救急車がやってきた。
小熊の横にやってきた救急隊員が、さっきの警官と同じような質問をする。小熊が答えると、救急隊員は小熊の右腿を指差して言った。
「折れてますね」
見ると痛みがひどくなりそうなので目をそらしていた右腿は、デニム越しにもわかるくらい見事なくの字に折れ曲がっていた。
担架に乗ることも出来ない状況だったが、左右二つに分かれ、体の下に差し込むタイプの担架で小熊は持ち上げられる。小熊は何とか声を張り上げ。近くに居た警官に聞いた。
「私のカブはどこですか?」
警官は何かの書類に記入する作業をしながら答えた。
「警察で保管しておきますので、後でご家族の方が取りに来てください」
カブの現状はどうあれ、奪われたり失ったりすることが無いという事実だけは確かめた。あいにく家族とかいうものは居ないが、礼子かシノさんに頼めば取りに行ってくれるだろう。
救急車の中に運び込まれた小熊は、とりあえず安堵の吐息をつく。息をしただけで痛いことに気づいた。
後ろのゲートが閉められ、サイレンを鳴らしながら救急車が発進した。
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