第7話 右直

 小熊は後になって何度も考えた。

 あの時の自分は気が緩んでいたのではないか、注意力散漫になっていたのか、勘や反応速度が鈍っていたんじゃないか。

 それは無いと自信を持って言える。何度思い返しても変わらない。

 もう一つ変わらないことがあるとすれば、起きるべきことは起きてしまい、それは覆らない。


 冬休みが明けて数日。小熊はここ最近の懸案だった引越し先の問題は、意外な人物とのコネであっさり片付き、仮契約にまで漕ぎ着けることが出来た。

 親なし身寄りなしの身では最も切実な保証人の問題も、クレジットカード払いにしたことで解決した。賃料は最安とはいかずとも想定内で、一ヶ月づつの敷金礼金を始め、新しく買わなくてはならない家具の費用なども、バイク便の仕事で積み立てた稼ぎで充分間に合う。


 さっそくLINEで報告したところ、礼子は建物や倉庫より電源のアンペアを気にしていた。二十アンペア来ていればポータブル溶接機が使えると言う、シノさん達プロの人からはあまりいい話を聞かない家庭用百ボルト溶接機も、礼子の意見もあまり当てにならないものと思い話半分に聞いておいた。

 東京の大学への進学のための受験を控えた椎は、春から暮らす予定の世田谷にある親戚所有のマンションに小熊が転がり込んでくると思っていたらしく、「せっかくペアで買ったパジャマやコーヒーカップをどうすればいいんですか?」と恨み言を述べられた。

 

 翌日の学校でも、礼子や椎、一年の教室から来た慧海と史に小熊が自分で撮った新居の画像を見せ、ちょっとした自慢気分を味わった。

 椎は普段あまり冗談を言わない彼女にしては珍しく「マッチ一本あれば綺麗に燃えちゃいそうですねぇ」と愉快そうに笑っていた。きっと受験本番まで一ヶ月を切り、不安定になってるんだろうと思った。

 東京で一人暮らしと聞いて周囲のクラスメイトまで寄ってきたが、スマホの画面に映るくたびれた木造平屋と、森ひとつ隔てたところにある広大な斎場を見てあまり羨ましそうな顔はしていなかった。


 賃貸契約についての詳しい話も、マルーンの女と仮契約していた八王子の不動産業者までカブで直接出向き、ほとんどの手続きを終わらせる。住民票や戸籍、印鑑証明、クレジットカード払いの書類など、必要なものは事前にメールで聞き、カブで走り回って揃えた。

 不動産業者と話し合い、正式な転居日は小熊の高校の春休みに合わせた日付にしたが、担当者は前住人も居ないし、電気も水道も来ていないけど見に行って好きに出入りしていいと言い、鍵を渡してくれた。


 一月から三月までの時間を目一杯使って何とかしようと思っていた住居の懸念は片付いた。進学先も既に決まっている。引越し作業も、持って行くものはさほど多くないし、シノさんのトラックでも借りてくれば簡単に終わる。

 高校三年の三学期。小熊は周囲に居る同級生の多くが味わっている、色々な義務から解放された時間を過ごすことになった。

 何をしようかと考えた。今の預金残高を見るに、引越しと新規の家具を揃える費用を払ってもまだ充分な余裕がある。バイク便の仕事も放課後限定ながら、小熊を名指しする顧客からの仕事が結構入っているので、収入は安定している。


 東京に進学した後の働き先についても、浮谷社長の知り合いの中に、都内でバイク便の仕事をしている人間が何人か居て、ぜひ小熊に来てほしいという声が複数の経営者から届いていると聞いた。

 その中にはカブに乗る女子だけで構成されたバイク便会社があるらしい。国立府中にあるという事務所は大学や自宅から近く、仕事の範囲だという東京都下も道さえ覚えれば走りやすいだろう。

 通学や遊びには自分のカブを使い、仕事では会社が貸し出すというカブ125に乗る生活もいいかもしれないと、小熊は少々甘い空想に浸りながらカブを走らせていた。

 

 その日、仕事や住居探し、買い物など、義務による走りから開放された小熊は、ただ当ても無い走行を楽しんでいた。

 幹線道路をカブで走っていると、対向車線にタクシーが停まっているのが見えた。右折したいらしく、ウインカーを点滅させながら車体を傾げ、黄色いセンターラインに寄せている。

 小熊の走っている二車線道路は、なかなか車やバイクが途切れない。小熊のカブが前の車との間に充分な車間距離を空けているのを見たらしきタクシーが、強引な右折をしようとするかのように車体を少し動かした。


 タクシーの無茶な走りは何度か経験している。こっちは鉄箱の中に居るタクシー運転手と違って、ぶつけられればただではすまない生身のバイク。小熊は減速するなりしてタクシーを右折させようかと思ったが、一瞬見たミラーに、カブの後方で車間を詰めていているトラックが映った。

 今減速するのは危険。のろい原付だと思われて更に煽られるリスクもある。タクシーがスムーズに右折なりUターンなり出来ればいいが、こっちの車線でもたついたら、カブは急減速をすることになる。


 ブレーキはこまめにメンテナンスしているし、大型バイクに比べ利きの弱い前後ドラムブレーキの制動距離も体で熟知している。でも、後ろのトラックも同じとは限らない。

 道路上では他車を信用していては生き残れない。自分自身の乗っているバイクも、その限界性能に安全を託すことをしてはいけない。機械である限りいつかは壊れる。最悪のタイミングを選んでくるというジンクス以前に、負担の大きい使用で故障や破損のリスクが跳ね上がるという物理法則がある。


 小熊は今の速度を維持しつつ、タクシーに視線を送った。高齢らしきタクシードライバーと目が合う。学校の視力検査では1.8だった視力が役に立つこともある。

 一秒の何分の一かの間に交わされたアイコンタクトが通じたのか、タクシーは右折しようとする動きを止めた、小熊にはそう見えた。

 次の瞬間、信じられないことが起きた。

 一度停まったタクシーは、対向車線の小熊が接近するタイミングで急発進し、もう一度右折行動を始めた。小熊の目の前に横向きになったタクシーの車体が立ちふさがる。

 後で聞いたところ、対向車線で手を上げる客が居たのでUターンして横付けしようとしたが、その対向車線に別の空車タクシーが近づき、客を拾うべく車線をセンターライン寄りから歩道寄りへと変更する様が見えたので、咄嗟に原付バイクの存在が頭から消え、ついターンしてしまったという。

 

 悪意を持っているかのように小熊の進路を妨害しているタクシー。背後のトラックが急ブレーキをかけているのがわかる。自分のカブが今から全力でブレーキをかけても間に合わないことも。

 小熊は自分の頭が膨れるように回転するのがわかった。右に逃げれば対向車線。ちょうど二台の車が並行するような感じで走ってきている。あの中に飛び込むのは自殺行為。

 左が空いている。後ろから来る車を見る余裕は無かった。小熊はカブのタイヤ能力を全て使い、車体を倒して急転回の切り返しでタクシーの鼻先を抜けようとした。

 タクシーの車体をレッグシールドが掠める。ギリギリだけど何とかかわせたと思った瞬間。タクシーが再び動き出した。前へ。小熊から見て右へ、小熊自身に向かって動いたタクシーのバンパーが、小熊の右腿をトンと押した。


 車体の前端に引っかけられるようにぶつけられた小熊は、そのままカブごと転倒し路面を滑った。体を丸めてカブを蹴る。後ろから車が来たらお終い、ガードレールの支柱にぶつかったらお終い。跳ねて転がって首か背骨を折ったらお終い。

 幾つもの死の罠をくぐりぬけた小熊は、幹線道路の真ん中で仰向けに転がった。立ち上がれない。このままでは轢き殺される。事故のショックで朦朧とした意識のまま、何とか道の端に行くべく、慌てて車から降りているタクシー運転手に手を振る。

 タクシーも横転しているらしく。出てきた運転手は空に足を突き出し、頭が地面にある。そう思った時、小熊は自分の視界が逆さまになっていることに気づいた。


 道の端まで引きずっていってほしい。そう言いたいのに言葉が出ない。何とか意思を伝えるべく左右の手を動かすが、きっと傍目には断末魔の呻きにしか見えないだろう。タクシー運転手は狼狽した様子で車の横を動かない。

 他人が当てにならないなら自分の力で生き延びるしか無い。足を使って這った。逆さまの視界の中では、道端がどちらかわからない。とにかく今は這い続けなくてはいけない。それなのに体は背を中心に回るだけで進まない。動くのは片足だけで、もう片方の足が脳の命令を聞いてくれない。


 ここで死ぬのかと思った時、誰かが小熊の両脇を掴む。そのまま地面を引きずり、今の小熊にとって何よりも居心地良く見える道端の安全圏まで連れてってくれた。

 歩道の植え込みにでも置かれたのか、背と尻に柔らかい感触が伝わってくる。誰かが小熊の顔を覗き込む、逆さまの顔が見えた。

「しっかりしろ、今救急車を呼ぶからな」

 まだ頭が働かない。とりあえず小熊は、最も聞きたいことを尋ねた。

「私のカブは無事ですか?」

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