第6話 契約

 その話を持って来た人間に反比例するような、魅力的とも言える物件。場所も住環境も理想的だったが、小熊は手放しで喜べなかった。

 今までの情報収集で、ここより大学に近く、集合住宅ながら家賃の安い場所を見つけたことは何度かある。その度にただ一つの要件が障害として立ち塞がっていた。


 賃貸住宅に必須の保証人。親の居ない小熊には当然保証人など存在せず、有償で保証人会社を利用しようにも、未成年では契約出来ないことが多い。

 当然、保証費用を上乗せすれば賃料は実質的に値上げになる。今はバイク便の仕事でそこそこ稼いでいるが、東京に引っ越した後もそうなるとは限らない。

 何の保護も保証も無い人間が一人で生きていくというのはこんなにも大変なものなのかと、複雑化しすぎた世間の逆風を感じることもあったけど、とりあえず目の前に壁があるならば、何らかのセキュリティホールを見つけて蹴破らないことには、生きることすら許されない。


 折角の好条件だけど小熊は今回も見送るしか無いかと思った。保証人が居ないという体裁の悪い理由を吐露するより、見栄の一つも張って核シェルターが付いていないのが気に入らないとでも言おうとしたところ、マルーンの女は小熊の腹の内を見透かしたかのように言った。

「家賃はクレジットカード払いでもいいように話をつけてあげるわよ」

 小熊も不動産物件情報で何度か見たことのある支払い形態。どういう層の人間が利用するのかは知らないが、支払い能力の保証や取り立てをカード会社が代行してくれる。小熊もカブのパーツを通販で購入する時の支払いを簡略化するために、審査項目の少ないネットバンク系のカードを持っていた。

「言っとくけどカード払いだからって、もしも滞納したら追い出されるだけじゃ済まないわよ」 

「紹介してくれたあなたの顔を潰す、ということですね? そうならないようにしますよ」


 ちょうど二人の食事が終わるタイミングが重なったので、小熊がお茶でも飲みながら具体的な話をしようと思ったところで、マルーンの女は唐突に席を立つ。

「じゃあ一緒に見に行きましょうか? 原付はお店に預かって貰えばいいから」 

「今からですか?」

 マルーンの女はレクサスのキーレスエントリーを手にしながら笑う。普段は大学で生徒相手に講義をしているというマルーンの女を見ながら思った。教師という職業は気に食わないというか相性が悪いが、この女はその中でも例外と認めてもいいと思った。 

「じゃあお勘定ね、今割り勘計算するから」

 このクソ野郎、と思った。


 会計を済ませて店を出た小熊とマルーンの女は、レクサスSUVに乗って店を出た。カブはマルーンの女が言った通り店に頼んで置かせて貰った。

 服も車もマルーンカラーの女は、もしかして内装までマルーン一色なんじゃないかと思ったが、シートは落ち着いたベージュの革で、トヨタ特有のセミアニリンはしっとりとした感触。

 シートヒーターもついているらしく、小熊が普段よく借りて乗るシノさんのサニートラックとは、乗り心地という点に限れば雲泥の差だった。

 シノさんがソレックスにタコ足、スーパートラップを付けていると言っていた、やたらと足回りの固いサニートラックのビニールレザーのシートを思い出し、頬が緩む。最近どこからかバケットシートを手に入れてきたシノさんは、自分が腰痛持ちだということを忘れ、仕事車のサニートラックをもっと乗りにくくなる方向にカスタマイズするらしい。


 マルーンの女はレクサスを運転しながら、道端にある社や石碑を指差し、民俗学的な観点から見た甲州街道について説明するので、小熊も物流に従事する人間の視点で答える。会話が弾んでいるようなそうでないような奇妙な雰囲気のまま、レクサスは韮崎で中央道に乗り、二時間ほど走った後、国立府中で高速を降りた。

 国道二十号と紛らわしい都道二十号線を三十分ほど走った後、堀の内で多摩ニュータウン通りに入り、南大沢で左に折れて少し坂を登った先。

 近未来的な南大沢の風景が国境を越えたかのように鬱蒼とした森へと変わってすぐのところに、マルーンの女が教えてくれた木造平屋はあった。

 

 物件は実際に見てみると、ノートPCの画像よりも住み心地良く見えた。

 至近にあるという大規模な斎場とは木々で隔てられていて、東京でありながらどこか山梨のあちこちにある別荘保養地のように見える。

 既に仮契約をしているというマルーンの女に鍵を借り、中に入ってみると、見た目は少々くたびれた木造平屋の内部は意外と状態がよく。コンテナ倉庫も設置してそれほど時間がたっていないらしく、錆びは見当たらない。

 マルーンの女は食料品や生活物資を買うスーパーが近くに無いと言っていたが、カブがあれば問題にならない。どっちにせよ買い物をする場所は大学のある南大沢の駅前にいくらでもある。


 敷地に面した道路に出た小熊は、ここからカブで走り出す自分を想像した。もしも将来カブに大音量の騒音を発するカスタマイズを施したとしても、苦情を言うような近隣住民は居ない。

 見られるところを一通り見た小熊が頷くと、マルーンの女はノートPCとスマホを取り出しながら言った。

「ここに決めた?」

「もし先ほど伺った条件で借りられるなら」

「わかった、ちょっと待ってて」

 マルーンの女はノートPCとスマホを取り出し、レクサスのボンネットに置いたノートPCを操作しながら、スマホで何か喋っていた。


 通話を終えたマルーンの女は小熊に言う。

「身分証明、免許証は持ってる? それからクレジットカードの番号」

 個人情報を渡すのは気が進まないが、まぁ今さら盗られるようなものも無いので、言われた通りの物を差し出す。マルーンの女は小熊の免許証をスマホで撮り、クレジットカードを手にしながらノートPCに打ち込んでいる。

 ディスプレイを見て一つ頷いたマルーンの女は、小熊のクレジットカードと免許証を返しながら言った。

「おめでとう。これで正式にこの物件を小熊さんが借りることになったわ。具体的な契約開始は引越し作業が始まる時期に合わせてくれるけど、これはもう持ってていいって」

 マルーンの女は、小熊が手にしていたカードの上に鍵を置いた。


 小熊は自分に何が起きたのか全ては理解できなかった。

 秋からずっと探していた転居先が、まるでネット通販サイトで買い物をするかのように決まってしまった。

 とりあえず、マルーンの女がその恩人ということになるんだろうかと思いながら、随分と上機嫌な女の顔を見た。

「よかった~、これでキャンセル料を払わないで済むわ」

 いい人だと思ったら、とんでもない悪党だ、でも、善良な人間より一緒に居て得るものの大きい悪辣な奴は嫌いではない。

 小熊はマルーンの女に握手の手を差し出した。

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