第5話 住処

 大手不動産会社のものらしき物件情報は、小熊にとって興味を惹かれるものだった。

 春から通う八王子市南大沢の大学からまっすぐ南下した先にある、町田市の賃貸住宅。

 家賃は最安とまでいかずとも小熊の収入で無理なく支払える範囲で、学校からの距離はカブなら数分、以前大学とその周辺を見学した時の記憶に従うなら、坂道だけど歩きや自転車でもそれほど時間はかからない。

 何より周囲に人家が見当たらないのが気に入った。東京とは思えない緑豊かな環境で、隣は畑で逆隣は公園。

 バイクという音や臭いを発する物を維持する上で、ご近所問題というものは常に付きまとう。都会への引越しを機にバイクや車を手放したり、自分で整備することを諦めたりする理由は面積だけが理由ではない。


 小熊は基本的に自分のカブのメンテナンスを今住んでいる日野春の集合住宅で行っているが、大きな音を発てる電動工具を使う作業や、臭気を発する塗装等の時はシノさんの中古バイク屋の裏にある作業場を借りている。これが都内になると金を払ってレンタルガレージでも使わなくてはいけないらしい。

 無論深夜にカブを出し入れする時は音にも気を使う。暖機した後はあまりエンジン回転を上げたりタイヤを鳴らしたりすることはせず、そっと出て静かに帰ることを心がけていて、おかげで苦情の類を受けたことは無いが、これから住む場所で同じことが出来るとは限らない。

 

 小熊が数枚の周辺画像を見てみると、その場所は整備作業どころかドラッグレースをしても周囲の木々が騒音を吸収してくれそうな住環境。ここ数日の間、大学近辺の不動産情報を端から端まで見ていた小熊が、なぜこの物件を見逃したのかはすぐにわかった。賃貸されているのは集合住宅ではなく一戸建て。アパートやマンションばかり探していて、貸し家というのは盲点だった。

 都営住宅や農地改良住宅によく見られた木造の平屋は少し古びているようにも見えたが、添付されている内装の画像を見る限りバストイレは真新しいユニット式で、畳も壁も劣化は見られない。

 平屋の横には貨物列車に使われるISO規格コンテナの物置までついている。小熊は盗難リスクの高いカブを通行人から見える場所に駐めたくなかったが、分厚い鉄板のコンテナはカブの保管や整備を行う場所として理想的だと思った。


 ディスプレイを食い入るように見ていた小熊が顔を上げると、マルーンの女が小熊を見ていた。さぞ自慢げな顔をしているのかと思いきや、何やら複雑な、言いにくいことを言おうとしているような顔で口を開く。

「気に入った?」

 小熊は少し温くなった澄まし汁を飲み干しながら言った。

「ここに出ている情報を見る限りは。実際はもっと調べてみないとわかりません」

 自分でも知らないうちに気分が高揚していたらしく、腹が減ってきた。店員を呼び鍋焼きうどんを追加注文する。マルーンの女に目で尋ねたが、まだ最初に頼んだもつとすじの煮込み定食を残しているマルーンの女は首を振る。

 

 さっきまで小熊は、日曜にいきなり呼び出されお惚気話を聞かされたんだから、昼飯代は金をたんまり持っているマルーンの女に奢らせようとしていたが、今はこっちが払ってもいいと思っていた。届いた鍋焼きうどんが食べられるくらいまで冷めるまでの間、もう一度物件の画像を見ようとした小熊の前で、マルーンの女はノートPCを回して自分に向ける。 

 マルーンの女はさっきから奥歯に何か挟まったような表情をしている。小熊には人の感情の機敏、特に目の前の女のようにあまり好感を抱けない相手の気持ちなどわからなかったが、鍋焼きうどんにたっぷり入っている豚肉を一口食べた後で、頭のどこかがピンと音を発てた。

「事故物件、ですか?」

 不自然に良好な条件と安価な賃料とくれば、真っ先に思い当たるものはそれしか無い。


 ちょうど豚のモツを頬張ったところだったマルーンの女は、少し顔を歪めながらモツをあまり噛まず飲み込み、言った。

「やっぱり小熊さんは慎重ね。でもそうじゃない。そんなものは問題じゃないわ」

 小熊は目の前の女が民俗学を専攻していることを思い出した。病院や住宅、あるいは道の上など、人は日々色々な場所で死んでいて、その蓄積を研究の素材として日々扱っている。

 マルーンの女はノートPCを操作しながら話し続けた。

「この不動産はね、わたしと藍地くんの新居にしようとしていたの。平屋を潰して更地にすればいい家が建てられるわ。でもいらなくなった。一つは小熊さんのおかげで勝沼の藍地くんのお店に住むようになったから。もう一つ理由があるの、今から見せるわ」

 確かに場所は小熊の通う南大沢の大学に近いが、マルーンの女が在籍し、彼女が藍地くんと呼ぶ解体屋店主が居た成城の大学にも通える範囲で、大学の関係者と不意に鉢合わせしたり無用な干渉を受けるほど近所ではない、程よい距離。


「これはわたしが実際に現地まで行って撮ってきた。不動産サイトには出ていない画像よ」

 マルーンの女はノートPCを回して小熊に向けた。小熊も鍋焼きうどんを脇にどけてディスプレイを見る。見せられたのは画像フォルダで、普段から専攻分野のフィールドワークに慣れた者らしく、風景画像だけでなく現地の地図や動画、航空写真やパノラマ映像まで保存されていた。

 数枚の画像を見ただけで、マルーンの女が言わんとしていることを察した。東京郊外の大学に近い場所にしては、緑豊かすぎる場所。不動産サイトに映っていなかった木造平屋周辺の風景。木々に覆われた土地のすぐ近くには、大規模な公共施設があった。

 灰色の石が隙間無く設置された広大な土地。コンクリート造りの建物と、煙突のついた別棟。

 バイクの維持や静謐な暮らしに理想的な家のすぐ近くには、大型の葬祭場があった。 

 

 霊園に半ば囲まれるような形の貸し家は、職員向けなのか葬祭場設立に反対し土地を売らなかった意固地な地主でも居たのか、どっちにせよ、陽気とはいいかねる住環境。

 民俗学者として人の死を日々取り扱っているマルーンの女も、現在進行形で死が続々と運ばれる場は勘弁願いたかったのか。その土地に漂う陰の気は、彼女が藍地くんと呼ぶ棒人間との甘い暮らしでも塗りつぶせないと思ったのだろうか。

 一通り画像を見た小熊は、物件を紹介しておきながら申し訳無さそうな顔をしているマルーンの女に言った。

「わかりました。それで問題は賃料の支払い方法ですが」

 墓場と火葬場。バイクとの暮らしという問題の前には些細すぎる。

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