だくだく法

ポテろんぐ

その1

 その男性が交番にやってきたのは、定年間近の私の体には寒さが少し厳しい、ある夜のことであった。


「あのぉ」


 報告書を書いていた私は、その弱々しい声に少しビックリし、顔を上げた。


 私と目が合い、彼は「どうも」と口を動かし、挙動不審げに会釈をしてきた。

 長年、警官をしている癖で、ふと彼の靴に目が行ってしまう。

 もう長いこと手入れがされていない様子で、まだらに色がハゲかけている安っぽい革靴だ。

 そこから視線を上げていくと、サイズがあってない上に、くたびれたスーツを着ており、余計に彼の弱々しい雰囲気が引き立っていた。


 こんな夜中にスーツ……肌は私より一回りくらい下のようだが、例えるなら子泣き爺のような、疲れた顔をしている。


「どうかされましたか?」


「何かあるな」とは、察知していたが、何も気付いていないフリをした。


「……ちょっと、お話を聞いていただきたくて」

「はぁ」


 彼に隣の机の椅子に座ってもらい、話を聞いた。


「で、どうされましたか?」

「実は……自殺をしまして」

「自殺?」


 と、言ったところで、パトロール出ていた部下が帰ってきた。男の後ろを通り過ぎる時、部下は「え?」と言う怪訝な顔をこっちに向けてきた。

 空気を読んだ部下は「寒いですね」と普通を装いながら、開いていた交番の扉を閉めてから、奥へいってくれた。


「で、誰が自殺したんですか?」

「それは……私です」


 私は目を細めた。


「しかし、あなたは生きていますよね? こうして私とお話ししています」

「自殺に……失敗したんです」


 それから、彼は自殺に至った経緯をゆっくり弱い声で語り始めた。

 父から継いだ小さな会社を倒産させてしまったのだと言う。

 さらに、金の工面の為に友人たちに無心していたツケが祟り、次々と離れていき、ついに妻と娘とも離婚した。残ったのは借金だけになってしまったそうだ。


「もう……何にもなくなってしまって、それで……もう生きていてもしょうがないと思って、それで……自殺を決意しました」


 そういった男の瞳からこぼれた涙が、悔しさで握りしめていた拳の上に落ちた。


 その後、彼は昔に読んだミステリーの知識を使い、氷で固定したナイフの上に飛ぶ方法を選んだが、刺さりどころが悪く、結局自殺は失敗に終わったと言う。


「え、あの、じゃあ今……」

「はい」


 男は私に背中を向けた。

 ずっと彼の前だけを見ていたので解らなかったが、彼のスーツの背中には自殺に失敗した形跡のナイフが刺さったままになっていた。

 さっきの部下の表情の理由を私は察した。どうやら血は止まっているようだが、


「早く治療しないと! きゅ、救急車を呼びますね!」


 と、私が備え付けの電話の受話器に手を取ると


「いえ、違うんです!」


 と、彼が強い力で受話器を取ろうとした私の手を掴んできた。


「でも、早く、病院に行かないと! お話は、また後でも……」

「ですから、違うんです。あの……私にはもう、生きる気力も希望もありません。でも、もう一度、自殺しろって言われても、この痛さを知ってしまったから、もう怖くて、死ぬ勇気も出ません」


 男は「ですから……」と言って、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。


「『だくだく法』で私を死んだことにできないでしょうか?」

「だくだく法って? あなた、本気ですか?」


『だくだく法』とは、空気を読む事に重きを置いている日本人の為に制定された、新しい法律である。

 内容を簡単に言えば、『正論や法律よりも、その場の空気を読むことを重視することを課す』と言うもので、だくだく法の『だくだく』は、落語の『だくだく』が由来になっている。


「お願いします!」


 男は、私に深々と頭を下げてきた。

 確かに、さっき聞いた境遇を考えれば、『死んだほうがマシですね』と、私も喉の寸前のところまで出かかった。もちろん、言えるはずがないが。


「あなた、お名前は?」

「深町です」

「深町さん。良いですか、アナタが死んだら悲しむ人が大勢いますよ」

「そんな人、いません」

「いいですか……世の中には生きたくても生きることが出来ない方がたくさん……」

「そんな人だって、私のような境遇になれば死にたくなるに決まっています!」


 情に訴えても無理そうなので、私は正面突破を試みた。


「深町さん。死ぬのはよくありません。もし、生き続ければ、まだ何か良いことが起こるかもしれません……」


 我ながら、言っていて虚しくなった。だが、目の前にいる男性に向かって「死んだほうがマシだよ」というデリカシーのない発言は、私にはできない。


「ですから、深町さん。死んだらいけません。強い意志を持って生きていれば、きっと借金も返して、また奥さんと……」

「部長」


 と、私が熱弁していると、奥から部下がやってきた。


「お前、どうした?」


 すると、部下は私の質問に返事もせず、私の両腕に突然、手錠をかけてきた。


「何をするんだ!」

「部長、だくだく法違反の現行犯で逮捕します」

「え?」

「空気読んでくださいよ。奥で聞いてましたけど、こんなもう人生詰んでいるような人に向かって「生きろ」って、死んだほうがマシに決まってるじゃないですか? 正論言う前に空気よんでもらえますか?」


 部下は、深町さんを指差して言い切った。コイツ、よく正面からそんな事が言えるな。


「そのお巡りさんの言う通りです」


 そんな無礼な事を、自分の子供くらいの男に言われても、深町さんは「お願いします」と、また頭を下げてきた。


 そこまで死にたがっている人を、心無い正論で「生きろ」と宥めて、私が逮捕されていたら、それこそ馬鹿らしい話だが……


「わかった。空気を読もう。深町さんを死んだ事にして手続きする」


 法律がある以上、逮捕されるわけにはいかない。


「ありがとうございます」


 感謝をしている深町さんの横で、私は納得はしていないが、空気を読んで「男性が一人、借金苦で自殺した」と言う報告を無線で入れた。

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