娘細胞 - 聖夜の夢

 ボルボックスの直径は二十メートルを超えた。その大きさに距離感が狂いそうになる。


 空を泳ぐそれはさながら緑の月だ。


 駅ビル内を襲撃し、よりの高いものに引き寄せられ──ツリーにケーキにクリスマスソング──あらゆるクリスマス用品を取り込んではその体積を大きくしていった。

 ついにただ泳ぐだけで触れたものを食らうボルボックスは真なる『魔物』、ただそこに存在するだけで脅威の存在となる。


 ボルボックスはクリスマス要素を持つものに引き寄せられているのだろうが──その過程で家屋や道路を抉っていき、マフラーを二人で分け合う恋人達やプレゼントの袋を提げたサンタクロースの正体たちを取り込んだ。


 全てを侵食するボルボックスに、清水はもう、世界の終わりを感じた。

 その責任は──自分にある。


 死のう。


 短絡な思考だろうか。

 けれどもうこの被害は、彼が一人で抱え切れるものではなくなっていた。

 全てのしがらみを捨て、義務を放棄し、無責任に死んだ方が心は軽くなる。


 けれど最後に、最期にやれることはやろうと清水は決心した。

 顔は真っ赤ではなを垂らしている。理由は寒さだけではない。

 とても覚悟を決めた男の顔ではなかったが、彼の意志は固まっていた。


 ボルボックスはあらゆる質量を取り込んで増大する。ならば、ならばだ。それが物質ではなくエネルギーであれば?


 清水が手に持つのは灯油タンクである。もう一方の手には何度もピンセットの消毒に使ってきたライターを構えた。


 ボルボックスは清水には近付かなかった──それもそうだ。独り身の彼にクリスマス要素はない。だから清水はクリスマスリースを一つ、首にかけた。

 ちくちくと葉が首に刺さりかゆく、ベルの安っぽい音がうるさい。


 けれどもう、そんなことを気にする必要はなかった。


 人々の逃げる反対方向、ボルボックスのいる方へと走り、そしてクリスマス要素を受容感知したボルボックスも清水の方へと泳ぐ。


 果たして彼の特攻は──実を結んだ。


 しゅぼ、と灯油の化学エネルギーが熱エネルギーへと変わる音。それが最期に知覚した情報だった。

 大好きなボルボックスと共に死ねて満足とはとても思えない。

 けれど、一夜の面白おかしく素敵な夢を見ることができたと思えば、悪くない聖夜の過ごし方だったかもしれない。

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