基部 - サンタクロースの贈り物
一般に微生物の定義とは『肉眼で判別できず、顕微鏡によって観察できる生物の総称』である。
つまり肉眼で完全に判別・観察のできるこのボルボックスは、清水の持つ『微生物』の常識を遥かに超えていた。
「すごいぞこれは……聖夜の奇跡だ……毎日良い子にしてた日頃の行いはこういうところに出るんだ……!」
目の前にいる五ミリの超巨大ボルボックスに清水は興奮する。クリスマスにわざわざ研究室にきて良かったと、心の底から報われた気持ちになった。
「最高のプレゼントだ!
興奮のあまり誰もいない研究棟に響くほど喜びの声を上げた──しかしこうしてはいられない。特殊なボルボックスであるとしたらこのまま他の個体と混ざったフラスコ内に放置するわけにはいかない。単離させなければ。
詳しい理由は不明だがおそらくは突然変異だろう、と推測する。
ならばその遺伝子は解析のためにもできる限り純粋な状態で手に入れたい。ボルボックスは通常無性生殖で増えるが何か間違って有性生殖をされては遺伝子が混ざって台無しになってしまう可能性がある。
ああ、体長を五倍にするほどの巨大化遺伝子なんて! なんてすごい変異だろう!
興奮は冷めやらない。変異した塩基の推察・特定だけで論文が書ける。畜産に活かせるものだとしたらノーベル賞ものかもしれない。
うきうきとした気分でボルボックスを単離させようとしたが──体長五ミリ、通常のピペットでは詰まらせて殺してしまう危険がある。太いストローの空気圧で吸い出そうと、一瞬目を離したときだった。
ふわり、とボルボックスは浮き出した。
水面の表面張力を振り切り、フラスコの中で空中へと、ヘリウムの詰まった風船のように宙へと浮かぶ。
「な……え?」
そして気付けば密閉されたフラスコを通り抜け、清水のすぐ目の前で、くるくるくるくると左回りに回転をしながら泳いでいた。
ボルボックスは彼の前を通り過ぎ──手の付けられていなかった緑のブッシュ・ド・ノエルへと向かう。
ケーキを分け合いたいという願いが通じた、わけではないだろう。
しかしボルボックスは確実にケーキへと向かい──そして緑の生クリームへとめり込んだ。
ずぶ、ずぶり。
ケーキの中に沈んでいく様子をただ眺めることしかできない。一体何が起きているのか、あまりの出来事に彼は目を見張った。
「うわあ……ボルボックスってブッシュ・ド・ノエル食べるんだ……初めて知ったなあ……」
そんなわけがない。
中心体の見た目をしたケーキに親近感が湧いた、ということもない。
眼前の光景に清水の中の常識ががらがらと崩れていく。信じてきた現実が侵食されていく。けれど──これを『科学的にありえない』と断ずることこそありえない。
現実にありえているのだから、それを解明してこその科学である。
そんなことに一瞬思考を逸らしたうちにボルボックスはケーキを食べ尽くしていた。
完食。もはやそこにクリスマスの面影はない。そして、
「気のせいか……? やけに大きく……」
気のせいではない。確実にボルボックスは大きくなっていた。
宙を泳ぎケーキを食べるボルボックスは常識ではないが質量保存の法則は常識である。取り込んだケーキを圧縮しそのまま自分の細胞に変換したかのごとく、ソフトボール大──直径十センチにまで成長していた。
これが気のせいであってたまるか。
うわぁ細胞小器官が細かく観察できるなぁ、と驚きつつも喜んでいる清水を尻目にボルボックスは泳ぎだす。ここにもう用はないとばかりに部屋の外へと向かった。
「あっ、ちょ、待って!」
ボルボックスが研究室の扉にぶつかりそうになり、
「
労わるがあまり自由を許してしまった。ボルボックスは廊下へ出て、どこか遠くへと向かおうとしている。
速度は一秒で体長の十倍ほど──つまりは秒速で一メートル、時速にして四キロ弱である。人の歩きで十分追いつける速さ。
「これだけ大きければ潰さないように……できると信じたい」
隣の研究室は水生生物の研究をしているグループだ。外の傘立てには、いくつものタモ網が立ててある。
そのうちの一本を引き抜くと清水はボルボックスにゆっくりと近付き、下から
インドア派の細腕が空を切る──が、ボルボックスは依然悠々と宙を泳いでいた。
「な……」
運動音痴な彼のコントロールが悪かったわけではない。狙いは正確だった。
避けられたわけでもない。変わらず時速四キロメートルで遊泳を続けている。
では何が起きたのか──ボルボックスは網をすり抜けた。否、網をもっていった。
ごっそりと、ネットの部分に限らずフレームも含めて。
触れたと思しき部分は全て、熱したナイフでバターを
もしも直に触れていたら一大事であった。論文を書くどころではない。手指がなくなっては病院行き──タッチパネルを触れられなければ救急車を呼ぶのもままならないだろう。
その非現実性を見てやっと、やっと清水は愚かにもこのボルボックスの異常性をはっきりと認識したのである。
これはもう『生物』の領域にはいない。
現実を侵食する『魔物』である。
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