鞭毛 - クリスマス・イヴ

 それは十二月二十四日の夜、つまりはクリスマス・イヴのこと。

 大学院生の清水しみずは研究室で一人、緑色のフラスコを眺めていた。


「クリスマスに一緒に過ごす相手な……うん、いないけど俺にはお前たちがいるから寂しくないよ……」


 言葉とは裏腹に清水は寂しそうに呟いた。

 彼の机の上には緑のフラスコと緑のブッシュ・ド・ノエルがある。


 フラスコの中身は彼が愛してやまない研究対象──ボルボックスだった。


 和名をオオヒゲマワリ。

 ここでいうボルボックスは学名をVolvoxボルボックス carteriカルテリという最も一般的な種類だった。


 恋人の代わりにはならないけれど、清水にとっては大事な心の拠り所の一つではあった。彼の感性ではボルボックスは『かわいいもの』に分類されるのだ。


 光合成するために緑なのがかわいい。見た目が球体なのがかわいい。左回りに回転しながら遊泳するのがかわいい。


 かわいい要素だらけだ。


 加えてボルボックスははかない。寿命はたったの四十八時間。日周期で二日を過ぎればそのライフサイクルは終了し、母ボルボックスの体を破って娘ボルボックスたちが放出される。

 そんな諸行無常を感じさせるところも清水は気に入っていた。



 清水はボルボックスが好きだ。けれど十二月二十四日があと数分で終わろうとしているこの時間に、彼がボルボックスを眺めているのは好き好んでのことではない。


 研究が行き詰まっているのである。


 来月に学会を控えており、その結果は奨学金や博士課程にも響いてくる。けれど研究に熱心に取り組みすぎたせいか、めぼしいテーマのほとんどを学部生のうちにやりきってしまっていたのだった。


 新規性。研究において重要な一要素である。に気付くことこそがその一歩。そのためボルボックスをつぶさに観察し、四六時中頭の中は緑の球体で一杯になっていた。


 とにもかくにもボルボックスのこと以外考えられなかった。クリスマスという一大行事イベントに浮かれる世間から離れて研究に没頭するしかない──というわけでもなかったが。


 むしろ清水はこのイベントから新しい研究の手掛かりが掴めればとさえ思っている。


 それ故にクリスマスらしさを求めブッシュ・ド・ノエルを用意していた──緑色の。


 手作りである。


 市販のロールケーキに緑の食用色素を混ぜた生クリームでデコレーションをしたものを二本用意し、それを直角に交差させている。


 なぜそんな食欲を減衰させる見た目にしているのかといえば彼はダイエット中だから、というわけでもなく、ブッシュ・ド・ノエルを『中心体』に見立てているのだ。


 中心体。これは細胞小器官の一種で、ボルボックスの遊泳手段である『鞭毛』の構造と微小管という器官において密接な関わりがある。


 つまりは彼の中でボルボックスとクリスマスを関連付けさせるための一種の儀式的行為なのだった。


「……とはいえこの量を一人じゃ食べ切れないよなあ」


 目の前にあるブッシュ・ド・ノエルのクリスマスケーキには一切手がつけられていない。

 清水は緑色を見ても別段食欲の減衰を感じたりはしないが、作っただけでお腹いっぱいになってしまった感はあった。それにボルボックスのことを考えていると自然満たされた気分になるのだ。


 気分は満たされるが──けれど新たなアイデアは湧かず、研究室の出席時間コアタイムを過ぎる。日付が変わるまでとうとうケーキは食べられることなく、清水とボルボックスは十二月二十五日──クリスマスを迎えた。


 深夜、本来ならばボルボックスも活動を停止している時間帯。けれど光合成によってエネルギーをまかなっているため、一緒に夜更かしを強制されていた。


「お前たちが食べていいよ……なんて言っても無理だよなぁ……」


 深夜に生クリームは厳しい。清水はボルボックスとケーキを分け合えないことを悲しみながらフラスコを覗く。

 『せい光走性ひかりそうせい』と呼ばれる光に対して引き寄せられる性質があるため、活きの良いボルボックスたちが水面近くに集まって泳ぎ廻っていた。


 ふと、彼はフラスコの中に違和感を感じる。


 一匹。一匹だけちょっと大きい。


 本来ボルボックスの大きさは五百マイクロメートル程度で、大きいものだと一ミリメートルを超え肉眼でも観察できる。


 一ミリでも大きい方なのだ。


 けれど、けれど清水が見つけたのは今までの常識を打ち破る異常個体。


「……サンタさんありがとう……!」


 フラスコの中にいたボルボックスは、直径五ミリの超巨大ボルボックスだった。

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