3 フィオン

 その日の空は一日中、どんよりと曇っていた。夕刻へと向かう時間、眩しいほど西日の差すはずの校庭も今日は薄暗い。

 正門を抜けて、車一台通れるだけの細い道を急ぎながら、貴一は傘を持って来なかったことを後悔していた。

「辿り着くまで降らないでくれよ」


 今日はバイト先に直行する日だ。幸い学校からは、自宅に帰るより近い。

 貴一は真貴の彼氏が管理している菜園の雑用と料理教室講師のアシスタントを、週4日勤めている。近所の人や貴一の友人たちは、彼のバイト先のことを、公園かなにかだと思っているらしい。


 確かに外見はそう見えるであろう、その広さ約2万平方メートルという敷地内には、会員たちが耕す野菜畑の他に、見事な庭園、ガラス張りの温室、各種カルチャースクール等のイベントに使用されるヨーロッパの洋館を彷彿させる建物があった。管理人氏の住居も兼ねているのだろう。

 回りをぐるりと背の高い木に囲まれ、更にその外には煉瓦の壁と鉄製の門があり、一見したところではどういう物件なのか当初謎ではあった。


 今では美形で人当たりのすこぶる良い管理人ウェスペルのおかげで、ご近所の理解も得てつつがなく運営されているようで、会員は急増中だ。

 ウェスペル氏にこんなことを言えば、「何を言いますやら」などと奇妙な日本語でたしなめられそうだが、貴一としてはこう願わずにはいられないのだった。

「繁盛しろ。そしてバイト代アップだ」


              *


 民家の道なりに面した細い道を抜けると、広い道路に行き当たる。

 時間帯によっては車通りの多い道路の左手にはもう、煉瓦の壁に囲まれたバイト先が見えた。空はいよいよ鉛色だが、雨足には勝てそうだ。

 信号を渡り、長く連なっている壁に沿って正門に向かう。

 門は中世の建築物を思わせる重厚な作りで、錆止めのために黒く塗られた鉄柵で閉じられている。物々しい。周囲が思いっきり普通の住宅街なだけに。


「もうちょっとデザイン的になあ……あ?」


 自分の背丈より目測約20センチ高い鉄柵を見上げた貴一は、そこに今まで見たことのない奇妙な物体を発見し、3秒間程釘付けになる。

 もったりしていて白い。よく見ると、うごうご蠢いていた。

 真下からでは全体が把握できない。

 貴一は急いで正門に面した通りを渡り、改めてその白い物体を凝視する。

 人間だ。さっき下から見たのは尻だったのだ。目を疑うような光景だが、確かに白い服の人物が、細い四肢を使って懸命に鉄柵を登っているのが見える。


「正気か!?」


 何かあろうものなら色々とまずい。即刻止めさせねば、と貴一は走り戻った。

 白い人物は貴一が真下に来ても気づかないくらい必死の形相だ。


「おい、あんた! 泥棒だかなんだか知らんけど、とにかく降りろ! ケーサツ呼ぶぞ!」


 貴一も必死だ。通行人が、見て見ぬふりをするのが、今は有り難い。


 しかし貴一の呼びかけ虚しく、とうとうそいつは無事、柵の登頂を成し遂げてしまった。

 てっぺんのとんがりを避けて、もぞもぞと体勢を整える。

 そして、そいつは叫んだ。


「開かぬなら、越えるまで!!」


 言うが早いか、柵を蹴ってジャンプ。

 その姿はさながら白いカエルだった。

 白い大きなカエルが落ちていく一部始終を、貴一は大口を開けて、ただ見ていた。それはスローモーション映像のように鮮明な一瞬だった。


 どん、と鈍い音がする。


 かろうじて着地は成功したようだ。だが、丸まったそのままの状態で固まっている。

 対して貴一の方は、金縛りから解けたように動きだしていた。

 門の右横の壁に取り付けられた呼び鈴を押し、インターフォンに叫ぶ。


「月波っす! 今、正門にカエ……いや泥棒が!」

「どろぼう、ですかね?」気が抜けた管理人の声が応答する。


 インターフォンの側に設置された、通用口の鍵が開くのと同時に、貴一は構内に飛び込んだ。


 閃光が走る。続いて天をつんざく雷鳴。


 思わず足を止めてしまった貴一の目前で、不審者がゆっくりと立ち上がった。

 とうとう降り始めた雨の中、凛としてたたずむ、白いロングコートの少女の姿を、今初めてはっきりと認識する。

 貴一は息を呑んだ。


 肩よりも短い薄金色の髪から、細い顎に、華奢な首すじに、次々と雨粒が滴り落ちる。

 稲妻が閃くたび、少女の白い横顔がより白く、際立つ。

 戦場に立つヴァルキリーのようだなどという例えを貴一が思いつくわけはないのだが、そういう雰囲気を纏った少女だった。

 由緒正しい清廉さと気品は、近寄り難ささえある。

 その顔が、突っ立っている貴一に向けられた。青い双眼に真っ直ぐ見つめられ、貴一はとたんに視線を泳がせはじめる。

 その貴一に向けて、おもむろに少女は右手を開いて突き出した。

形のいい唇は、こう言い放つ。


「わたしは、決して怪しい輩ではない。本国より派遣されて参ったフィオン・リーリウムと申す者! ノアイデ、ウェスペル殿にお目通り願いたい!」


 流暢だが恐ろしく時代がかった日本語だ。しかし本人はいたって真剣である。

 フィオンと名乗るこの美人は、どうやらコミュニオンの関係者らしかった。

 やや間を置いて、通用口を指さした貴一が言った。


「あの……門を登らなくても、関係者ならあそこから入れるんで」


 貴一の指した方向にドアがあるのに気がついたフィオンは、深々と頭を下げ、

「承知した。ご親切に、かたじけない」と言った。


 貴一は急に、先刻の彼女の恰好悪い跳躍を思い出した。

 そういえば、あの白カエルとこの美人は同一人物なのだ。

 貴一の緊張がやや解けた所で、傘を持った管理人が小走りにやって来た。


「フィオンくんじゃないか! お待ちしてたのよね」

「ノアイデ! ウェスペル殿」

 握手と抱擁を交わす彼らは、こうして見ると、その美しさ以上に、醸し出す雰囲気がよく似ていた。


「ほら、ビニール傘。これすごく安いのだよ。ね、貴一くん」


「は、はあ」


「さすがは日本! して、此方は貴一殿と申されるか。以後、宜しく頼む」


 似ているのは、外見を裏切る言動も、であった。

 しかし、本国の言葉で会話を始めた二人の後ろを歩きながら、貴一は思っていた。

 たぶんこの人達は自分とは違う世界にいるのだろう。

 そして当然、その世界に自分が興味を持ったり、関わることなどない。

 そう確信していた。


 この時は、まだ。

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