第64話 腐った世界

「まったく大した度胸だな。あの状況で起死回生を狙うとは……だが長生きできねーぜテメー」


 男は踏みつけた足を刀夜にねじり込むように力を入れる。冷たく湿った石畳の地面に挟まれて刀夜は頭が割れそうであった。


「う、ぐぅ……」


「ああッ! テメーそんな事考えてやがったのか!!」


 こんな細い男に体格の良い自分と戦って勝てるなどと、軽く見られていたことに大男は激怒する。


 鼻息を荒らげた男が刀夜の元に近寄ると黒づくめの男は踏みつけていた足を下げた。同時に大男が刀夜の髪を掴んで強制的に立たせると強烈なボディブローが炸裂する。


「ぐほッ」


 太いパンチが腹に突き刺さる。思わず食べたものを吐き出してしまいそうな重いパンチだ。


 刀夜が前のめりになって倒れようとした所に倒させねぇぜとばかりにアッパーが入ると刀夜の顎は跳ね上がり、後ろの壁に後頭部をぶつけて一瞬意識が飛ぶ。


 脳と三半規管揺さぶられた刀夜はまともに立っていられず、ずり落ちるように尻もちをつく。


 そこへまるでサッカーボールを蹴るが如く、脇腹を蹴り上げた。


 メキメキと肋骨にヒビが入る音と共に激痛が駆け巡った。


 刀夜の意識は途切れ途切れとなる。


 這いつくばるように倒れると、さらに他の男どもも混じって蹴りを入れてくる。タコ殴りだ。それも執拗しつように蹴ってくる。もう反撃の力などないのに……


 死ぬ……のか……


 誰かの蹴りが折れた肋骨に入った。


「――――――――――――――――――――ッ!!」


 悶絶もんぜつの表情を浮かべ、もはや意識は朦朧もうろうとして何も考えられなくなる。


『――――痛い!』


『痛いよ!』


『やめてよ!』


 刀夜の目にはゴロツキとは別の男が蹴りを入れていた。


 誰だ?


 知っている男だ。


 酒臭い男は蹴るのを止めない。


 溜らず両手で顔を庇った。幼い両手で。


『痛い。痛いよ、父さん!』


 男はさらに不機嫌となり、執拗に蹴りを入れてくる。


 そこに突如、誰かが刀夜におおいかぶさる。細くて優しい腕、温かい胸。


 だが密着したその体越しに男の蹴りの振動が伝わってくる。


『やめてよ、父さん』


 だが蹴りの振動はさらに強くなった。刀夜を庇った女の人が咳き込む。


『お母さん!』


『やめてぇぇ――お母さんが死んじゃうよおぉぉおぉ…………』


『…………』


「――お……かぁ……さん……」


 遠退く意識の中で思い出したくない記憶が甦る。刀夜の為に師範が施してくれた記憶の錠がガチャリガチャリと音を立てて外れてゆく。


「今更後悔しても遅いんだよ」


 黒づくめの男が三人を押しのけると折れた肋骨の上に足を乗せた。そして徐々に力を入れてくる。


 再びメキメキと体内に音が響く。


「――あ、がぁ……はァ……あぁ……ぁぁ…………」


 もはや激痛で声にならない声が漏れた。だが皮肉にもその激痛が刀夜を現実に戻らせる。


 刀夜にとって戻らないほうが楽だったのだろうか、いや彼にとってはどちらも悪夢だ。まるで神がこの男にさらなる苦痛を与えるかのごとく。


「そこで、何をしているかァ!!」


 狭い通路に大声が張り上げられた。


「ああッ!?」


 そこにはハーフプレートの鎧を着た男と女が立っていた。だが逆光で顔がよく見えない。


 その二人が通路の奥へと足を進めるとようやく顔がはっきりと見える。


 短い金髪の頭に齢を重ねたしわ。そして男の右目を奪った深く刻まれた傷跡。一度出会えば二度と忘れぬことのできぬ姿容に百戦錬磨の風格が滲みでている。


 身長は龍児と同等、龍児が年を取ればこのようになるのではないかと思わせるほど体格はそっくりだ。二人とも同じような装備を身に付けている。


 揺れたマントの隙間から露になるハーフプレートには自警団の紋章が刻まれていたのが見えた。


「チッ、自警団のお出ましかよ。こんな所までご苦労なこった」


 黒づくめの男は刀夜を痛めつけていた足をどけると捨て台詞を残す。


「命拾いしやがって」


 男は背を向けて通路の奥へと足を運んだ。他の三人も置いていかれまいとついていこうとしたとき、怒鳴りつけられる。


「待て! その荷物を置いていけ、それはその男のものだろう。奪えば窃盗罪を適用するぞ」


 声を張り上げたのは隣にいた女性の自警団員であった。銀色の髪に赤と緑に染めた髪のラインが流れている。シャープな顔付に鋭く細い目が連中を威嚇した。


 ゴロツキは刀夜の荷物を奪おうとしていた手を離す。


「くそったれ!」


 不服を垂れて通路の奥へと逃げていく。


 彼らが完全に消えてるのを確認すると、男のほうがようやく刀夜に声を掛けてきた。


「フン、異人のくせに色街に来るからこんな目に合うのだ。わかったら二度と来るな」


 自警団の男は忠告すると背を向けて元の大通りへと戻ろうとする。


「――ま、待ってくれ…………」


 その声に男は立ち止まり振り向いた。


「――奴隷市場の……セリ会場を……教えてくれ……」


 刀夜の懇願こんがんに男は怒りの表情を顕わにして声を張り上げた。


「貴様! 私を自警団と知ってソレを聞くのか!!」


 どうやらタブーらしい。理由は分からないがこの男から聞き出すのは無理だと思った。


「そんなものを聞いてどうするつもりだ」


 女の自警団員は気になったのか理由を聞きたくなった。異人の男が知ってか知らないでか、こんな危険な場所でそんな事を聞く理由を。


「――仲間が、つかまっている可能性が……確かめないと……」


 肋骨の激痛の中で刀夜の意識はギリギリの所を保っていた。


「なるほど、仲間の為か。――だが残念だったな我々がその質問には答えられない。もう9時をまわった。薄情かも知れんが諦めるのだな」


 男は残念そうに再び表の大通りへと歩き出した。女の自警団員はしばし刀夜の顔を見ていたがすぐに男の跡を追いかける。


◇◇◇◇◇


 色街の大通りを自警団の男は不機嫌な顔でのしのしと歩いてゆく。


 店の女も客の男も『なぜこんな所に自警団が』といったような不思議なものを見たような顔で彼に道を開けた。


 女の自警団員がそんな彼らの顔を見て恥ずかしそうに男に尋ねた。


「――あの、ブラン部長……なぜ急にこんな所に来ると言い出したのですか?」


「…………」


 自警団の男、ブランは急に立ち止まると口元に手を当てて考えこんでしまった。


「――あの、もしかしてあそこで事件が起こると知っていたのですか?」


 再び質問した。彼らは元々別の場所の担当で街を巡回していた。そして基本的にこの色街の営業時間に彼ら自警団がうろつくことは無いのだ。


 だがブランが急に色街に行くと言い出したので止めたのだが。彼女の声も聴く耳持たずといった感じだった。


「――あの?」


「実はな……」


「はい」


 ブランは真剣な表情で相棒の彼女に答えた。


「ワシにもわからんのだ!」


「ハァ?」


「わからんのだ!」


 ブランは二回言った。大事なことだったらしい。


「何でワシはここにいるのだ!?」


「私がわかる訳ないでしょ、もうボケが回ったのですか!」


「何でじゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 ブランの雄叫びが色街に響いた。

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