第2話 君のようなものの輪郭を、
人生初めての経験だった。
決して、誉められたものではないだろうが、後にも先にもこんな経験はしないのではないだろうか。
午後2時を回る頃に酔い潰れているなんて経験は。
近所の居酒屋『ねこや』へ早苗さんとやって来たのは、12時少し前だ。この『ねこや』、料理も酒も微妙だが昼前からやっているし、なによりも価格帯が大学生の財布にも優しいことから、よく通っている。
大学4年間の間に、酒の飲み方は覚えたつもりだった。しかし、早苗さんのペースにつられ、いつのまにか机に突っ伏してしまっている。
「もう!弱すぎ!まだまだ、話し足りないわよ!」
「…すみません」
もうと呟き、早苗さんは店員にお冷やを1つ頼むと、日本酒の冷やを二合頼んだ。
「はい、お水。飲んで」
「ありがとうございます」
「いつもこんな感じ?」
「いえ、なんか今日、飲みすぎたみたいで」
「へー、前半いいペースだったもんね。ま、普通、酔っちゃったーって使うのは女の子の特権だと思ってたけど。」
そういうと、日本酒の冷やをグイとグラスの半分ほど飲み干した。
ザルにも程があるだろ。
「強すぎません?酒。」
「まぁ、弱いのに。」
そういって、早苗さんは自分の手を自分の頬に当てると、
「酔っちゃったー」
と、体をくねらせた。
なんだ、こいつ。ムカつくな。
「ま、私くらいかわいいとね、酒に酔うのは致命傷なのよ」
確かに、早苗さんの見た目は第一印象の最悪な俺からしてもホームランとはいかずとも、三塁打まではいっている。性格はさておき、三塁打なのだから周りのランチを食べに来ている男性客や店員がチラチラ見る視線はずっと目についていた。
水を飲んだら、頭が少しスッキリしてきたので、頭を机から離した。
「あら、机とキスしてなくていいの?」
「はい、せっかく飲んでるんで」
「私と?」
意地の悪い表情で早苗さんはこちらを覗きこんできた。
「別に、そんなつもりで言ったわけじゃ」
「あら。そう?残念。」
首を少し傾けながら、再び視線をグラスに落とした。
なんなんだ、この女は。
「さっきの話の続きする?良平くんの女運の悪さについての話。」
「いや、そんな話してました?」
「うん、元カノの悪口ずっと言ってたよ」
「うわ、最悪じゃないですか。絶対、言わないようにしてたのに。器、ちっさいな、俺」
「うーん、いいんじゃない?私、元カノさんのこと知らないし。」
「そういう問題じゃなくて。大事にしたいじゃないですか。」
「もう他人なのに?」
思わず、言葉に詰まってしまう。
「そうやってもう他人なのに、勝手に大事にしてるのって迷惑じゃない?他人じゃないときに大事にしてあげれば良かったのに。」
「…俺は大事にしてた」
早苗さんは口角をグッと上げると、
「まぁ、色々あるわよね。今日は飲みましょ。」
といい、俺の分の日本酒を頼んだ。
そこから、先はあまりどんな話をしたのかはハッキリと思い出せない。飲み会の記憶なんてそんなもんだろう。しかし、普段の飲み会と違ったのは、楽しいような、今まで無かった何かが充実したような記憶が残っていた。
『ねこや』を出たのは、午後4時を回った頃だった。
「まだ、日が出ているうちに酔っぱらっているなんて最高ね」
「はは、俺もこんな時間に酔っぱらって家に帰ってるなんて初めてです。」
「いい経験したわね!ねぇ、私の家で飲みなおさない?良平もすっかり回復したみたいだし」
「お!いいですね!」
汚い話だがトイレで一度、戻してからすっかり元気になり、そのあとは早苗さんのペースについていけた。それに、この時間を飲み屋だけで終わらせてしまうには惜しいほど楽しく飲んでいた。そこにきて、この早苗さんの提案だ。断る理由がなかった。
近所のコンビニで、酒やつまみを適当に買って、早苗さんの部屋へ向かった。
「こんなに気が合うとは思わなかったわ」
「そうですね。けど、初めからわかってたんですよね?」
早苗さんは、ん?という顔でこちらを見た。
「いや、私のことを大事にしてくれそうな人だって、初めからわかってたんですよね?」
「あー、それね。」
じっと俺の目を見ると、
「君、文学青年でしょ?」
「文学青年?」
「うん、本が好きでしょ?」
「確かに、好きですけど。どうしてわかるんですか?」
「玄関に『夜間飛行』が落ちてたし、『斜陽』も。この2冊が、しかも玄関に落ちてるって絶対本読む人だよね。」
「え、めっちゃ見られてるじゃないですか。」
「ごめん、ごめん。ついね、それで嬉しくなっちゃって。なんとか仲良くなりたいなって。」
「早苗さんも好きなんですか?」
「うん。サン=テグジュペリも太宰も好きよ。本だったら専門書からラノベまでなんでも読むよ。」
「うわ、それ俺もです。」
「ね!絶対、私たち気が合うと思うの。似てる所もたくさんあると思うし。」
そのような話をしていると、いつの間にか二人のアパートについた。
ようやく夜の気配を帯だした空は、まだまだ更けるには時がかかりそうだった。
いざ、部屋の中へ入ろうとすると、早苗さんの携帯が鳴り出した。
早苗さんが携帯を持ちながらこちらを窺ってくるので出るように促す。
早苗さんは少し申し訳なさそうに電話に出た。
電話の相手は口調やトーン的に親しげな間柄であることがわかる。
電話口から聞こえる声は男性のものだ。
会話の内容は取りとめのないものであったようで、あまり長くはかからなかった。
「お友達ですか?」
「うーん、会社の同僚。友達ではないかな」
その歯切れの悪さがなぜだか自分の胸をざわつかせた。
「すみません。やっぱり、俺、今日は帰ります」
自分でも思っていなかった言葉が口をつく。
「え、なんで?せっかく…、ま、確かに今日は飲みすぎかもね」
早苗さんは、そういって、彼女の部屋のドアを少しあけると、
「今日はありがとね。おやすみ」
自分の部屋へと戻っていった。
早苗さんが自分の部屋へと戻っていった後、自分でもよくわからない言動に戸惑った。
なぜ、帰りたくなってしまったのだろう。 さらに、それを口に出してしまうなんて。
この曇った感情のまま、俺は部屋に戻るとすぐに眠りについた。
この日以来、早苗さんから飲みに誘われることが多くなった。
早苗さんの仕事は休みが不定期らしく、週末、平日、こちらの予定は無視して飲みにつれ回された。
仕事の愚痴、上司の悪口、早苗さんの話題はつきなかった。
ただ俺はそれを笑って聞いているというのが、いつもの流れだった。
この"笑って聞く"というのは、お世辞とか社交辞令的な笑いではない。
早苗が話すとどれもブラックジョーク的な要素が入ってきて本当に可笑しかった。
人を笑わせる愚痴がこの世にあるのだなと、この時に初めて気づいた。
決まって『ねこや』で3時間ほど飲んで解散する。
こんな関係を何だかんだで3ヶ月ほど続けていたある日、仕事帰りの早苗さんを見かけた。
その日は、2ヶ月前から始めたコンビニバイトが少し遅くなり、普段よりも帰りが遅くなっていた。
次のシフトのヤツがなかなか来ず、やっと来たと思ったときは本来上がれるはずの時間からすでに2時間近くたっていた。
なんかムシャクシャすんな、そんな心持ちで家へと向かっていると、部屋の前でベージュのコートに身を包んだ早苗さんらしき人影を見かけた。
確か明日は休みだとこの間飲んだとき言ってたな。
なんか飲みたい気分だし付き合ってもらうかな。
声をかけようとしたとき、その横に人影があることに気付いた。
それに気づくとなぜか、アパートの影に身を隠してしまう。
なにやってんだ、おれ。
「今日は送ってくれてありがとう」
早苗さんは、スーツ姿の身長190cmはありそうな短髪の男に声をかけた。
「いや、全然、気にしないで。また飲もうね」
短髪は爽やかな笑顔で、早苗さんに別れを告げると、そのまま最寄り駅の方向へと進んで行った。
結局、この日は早苗さんに声をかけることは叶わなかった。
連絡しようと思えば、お互いの連絡先は知っている。
しかし、この日は電話をかける気にはならなかった。
この時になるまで忘れていたこの感情。
早苗さんと初めて飲んだときに感じた曇った感情がまた心を覆っている。
この日は、すぐに布団に入ったものの、この感情のせいなのか目が冴えてしまい、一睡もできなかった。
朝になったことに気付いたのは早苗さんからの着信があってからだった。
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