36話:永劫の花 後編






「塚原さん」






 甘いにおいがする。

 目を覚ますと、そこにいたのは由峻だった。

 どうやらここが現実側だと気付けたのは、自分は仰向けになっていて、少女が顔を覗き込んでいたからだ。

 空を見る。

 〈全能体〉の末端――虹色の球体はひび割れ、幾筋もの亀裂から光を漏らし自壊していた。地上を覆っていた人体汚染の干渉波もすっかり消えている。


 ああ、自分は役割を果たせたのだと安堵して。


 すでに、この肉体がレベル3〈光輝の王〉のものではないと知った。人間大の上半身を、由峻に抱き起こされている――巨人の肉体は真っ先に過負荷で消失し、塚原ヒフミの自己認識に沿った肉体だけが残されていた。

 想像以上に自分の受けたダメージは大きいらしく、すでに、腰から下の感覚がなかった。ぎこちなく首を動かせば、ガラスのように砕けた足首。

 なるほど、これは手遅れだ。


「お疲れ様でした」


 由峻は脱いだコートを足下に敷いて、ヒフミに膝枕をしていた。

 その表情は不思議と穏やかで、役目を終えた男をねぎらうようにも見えた。


 瓦礫の山が広がり、打ち倒された異形の死骸が、彼岸花となって咲き誇る花畑の真っ直中――死のにおいに満ちた場所で二人きり。


 崩壊していく〈全能体〉が、幾何学模様を描く発光現象を起こす度、風が吹いて花が揺れる。ヒフミはそれが温いのか寒いのかわからなかった。

 まだ触覚は残っているから、少女の膝の柔らかさはわかったのが不幸中の幸いか。

 彼女の体温がわからずとも、その存在は伝わってくる。

 言葉もなく、多くの時間が過ぎていった。




 先に口を開いたのは、ヒフミだった。




「やっと、わかった……どうして、僕が、人間に憧れたのか」


 少女は何も語ることなく、ただ黙して男の言葉を聞いていた。

 慈愛に満ちた眼差しが、優しく青年を見守っている。


「……光なんだ。素晴らしいことも、恐ろしいことも、それを照らし出す灯りがなければ見つけられない……人間は、ずっと、僕にとってそういうものだった」


 光そのものに善悪はないけれど。

 照らし出された可能性を見出すこと、ただ存在するだけの事象に意味を与えること。

 暗闇に差す、一筋の光になりうること――それが人間の素晴らしさではないか、と。



――数え切れない出会いが、自分の生に意味を教えてくれたように。



 導由峻が、あの笑顔に誇れる生き方をくれた。

 イオナ=イノウエが、人を守るため力を振るう生業を与えた。

 新藤茜が、いつか自分が間違っても止めてくれると言ってくれた。

 高辻馳馬が、軽口を叩き合う友達として彩りを与えていた。

 アクサナが、当たり前の日常の尊さを思い出させてくれた。


 つらく悲しいこともあった。


 だが、塚原ヒフミという超常種にとって、人の世界が眩しかったのは――生きる意味を見出すに足るものがあったからだ。

 無限に集められた可能性事象に触れて、塚原ヒフミの胸中に訪れたのは、そんな感傷めいた思いだった。


「あなたは、そんな風に、人間を愛しているのですね」


 どこか寂しげに、由峻は呟いて。

 白くなめらかな指先で、ヒフミの頬を撫でた。


「塚原さんは、ちゃんと生きて帰ってきてくれましたね――正直、綺麗に自爆してそれっきりだとばかり思っていました」

「……ひどいね、その言いぐさは」

「ええ、あなたはひどい人です。いっぱい、人を心配させています。お詫びに……そうですね。春には、あなたの妹さんも呼んでお花見しましょう」


 ああ、そうだ。

 ちゃんと家に帰らないと、家族との約束が守れない。一緒にクリスマスを祝うんだった。

 アクサナが待っている。あの子は人見知りで、寂しがりで、愛情深い娘なのだと自分は知っている。

 彼女がどんな理由で、〈全能体〉に利用されていた存在だとしても知ったことか。アクサナには、幸福になる権利があるはずだった。


 いつまでたっても再生されない両足を見ながら、そんなことを思った。

 遡航再生は十全に働いていない。その残滓のような生命活動の補填だけが、塚原ヒフミの命を繋ぎ止めている。



「――死なせません。わたしが、あなたを必ず助けます」



 こうなることはわかっていたのです、と由峻は目を閉じた。

 涙こそ流れていないが、その表情はとても悲しげで――そんな顔をさせたくなかったのに、これでは本当に甲斐性なしのひどい奴になってしまう。


「人格も記憶も肉体も、あなたの情報体さえあれば――」


 再生させてみせる、と由峻の横顔が物語っていた。

 ああ、言わねばならないことがある。右腕を持ち上げて、由峻の角に触れる。やわらかで、なめらかで、美しい三日月型の山羊角。

 意思の強い、琥珀色の瞳が好きだった。その眼差しに捉えられると、子供のようにドキドキした。



――君に、恋をした。



 どんな言葉にしても、この胸の奥にある感情を表すことはできないと思った。



「……夢を、見たんだ。百億の悪夢よりも、千億の楽園よりも大切な……君が幸せになる夢を」



 現在地点から観測した、導由峻の人としての未来の可能性――それが、〈結線〉でヒフミの閲覧した可能性事象の索引であった。

 そう、あのとき自分は恐ろしかったのだ。塚原ヒフミがいなくなったあと、IFの悪夢のように、由峻が失われてしまう未来が。

 彼が守った現在の延長線上にある未来は、無限無数のバリエーションと共に存在していた。

 その中には、アクサナがいて、馳馬がいて、茜がいて、由峻がいた――たしかに、自分が消えて失われるものはあるだろう。だが、それは何も残らないということではない。

 そこには一つの結論があった。



――塚原ヒフミがいなくても、導由峻は幸福な人生を歩める。



 たとえそれが、ヒフミのいない場所で、顔も知らない誰かと添い遂げた結果だとしても――初めて、心の底から笑えると思った。

 この子は、しあわせになれる。



「僕の手が届かない場所でも、君が幸せになれるなら――それは、きっと、嬉しいことだから」



 それだけで救われた気がした。自分は賭けに勝ったのだ。

 たった一つ、塚原ヒフミの全存在を用いて貫くべき誓いは果たされる。



「わたしは、ずっとあなたの傍にいます。夢などではありません――あなたも、わたしも、幸せになるのです」



 ヒフミの言葉が、態度が、濃密に漂わせる死のにおい。それに抗おうとするかのように、由峻は微笑んだ。

 その姿が愛おしかった。

 叶うならば、その言葉の通りであって欲しいと思う。

 だが、もう限界が近かった。

 視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も、味覚も途切れ途切れになっていく。まるで壊れかけのカメラが、断続的に音と光を拾っているかのような有様。

 恐ろしい勢いで、この躰が朽ち果てていくのがわかった。これまで肉体の維持に使われていた経路が、別の何かに変わっていく実感。



「ありがとう」



――君がいてくれたから、僕は僕でいられた。



 ガラスのように砕けていくヒフミの指先を、そっと少女が握りしめた。血の一滴も流れない。体液が流れ出す先から、幾何学模様の光と共に質量ごと消失している。

 それでも声帯は正常に働いてくれた。発声に必要な腹が残っているうちに、ありったけの想いを伝えようと決めた。

 ああ、きちんと伝えるべきことなんて、一つしかないじゃないか。

 感謝があり、恋情があり、愛情があった。






「――君を、愛している」






 限界が来た。

 もう何も聞こえない。何も見えない。言葉一つ発せない。

 暗い――いいや、暗闇すら塗りつぶす白い光がやってくる。恐ろしい気配が近づいてくる。


 刹那。


 ヒフミは、取るに足らないちっぽけな願いを見出した。

 はじめて、自分のためだけに欲しいと思ったもの。







 もがくように手を伸ばして、














 何の意味もなく、その願いは蹂躙された。











 ヒフミの肉体が爆ぜる――骨格を、はらわたを、血肉を、皮膚を消し去りながら躍り出る五〇億の光の巨腕かいな

 ごみのように握りつぶされ、引き裂かれ、蹴散らされた死骸が宙を舞う。

 その情報体たましいが打ち砕かれ、意味をなさない飛沫となって拡散しきるまでの刹那。

 輝かしい勝利のラッパ、絢爛たる哄笑が聞こえる。

 遠く、悲鳴のような少女の声を掻き消すほどの歓喜の合唱だった。

 断末魔のごとき干渉波を残して。

 塚原ヒフミは到達する。



















――死すら終焉を迎えた永劫に。






















 砕 け る 。



 壊 れ る 。



 見 ろ 、 見 ろ 、 見 ろ !



 自 ら の 真 な る 躰 を 認 め る が い い !





 無数の腕や腹や口が、あらゆる方向に無限の姿を示している。

 あまたの外敵をその牙で噛み砕き、星々を戯れに握りつぶし、その輝きで全世界を呑み込むもの。





 角 度 が 変 わ る 。





 直径五〇キロメートルの〈導管〉が崩壊する中、それは始まった。

 破壊された超常種ヒフミの肉体を新たな経路として、凄まじい量の干渉波が放出される――不可視にして不可聴の断末魔は、地表ではなく宇宙に向けて昇っていった。

 地球の大気層を振り切り、文字通り、光を凌駕する速度で虚空を走る波動が辿り着いたのは、ぎらぎらと煌めく熱核融合の塊だった。

 膨大な量のエネルギーを物質から取り出し、ニュートリノや電磁波として出力する巨大球体。

 すでに誕生から四六億年の時を経た、プラズマ大気層に覆われた主系列星である。


 地球生命の活動の源たる星、太陽。


 この天体を構成する全質量/核融合反応が変質する。

 高次元の情報体そのものである超光速波が、物質宇宙に存在する質量/エネルギーを、自らの肉体へと置換し始めたのだ。

 まるで受精卵のように太陽が脈動する。

 直径一三九万キロの恒星をまゆとする幼体――この時間軸において、正しく器として機能する形態の獲得。

 暗く光のない宇宙に、七色の光が満ちあふれていった。





 角  度  が  変  わ  る  。





 彼はそうして、ちっぽけなあいから覚める。

 微睡まどろみから目覚め、真実の姿へと回帰するときがきたのだ。

 誰もがそうであるように。




――長い、夢を見ていた。




 悪しき殻を打ち破ることでしか、救えないものものがある。

 忌まわしい〈異形体〉の妨害が、あまたの人の情報体を歪めていた。不完全な〈昇華体〉に囚われてしまった無数の魂を、正しく導くための破壊。歪んだ形態から解き放ち、収穫しなおすための行程だ。

 破壊によってのみ成し遂げられる再生があり、そのために親と敵対する子がいる。


 たとえばそう、〈光輝の王〉がそうであるように。


 それは古き世界を打ち砕き、新たな世界の始まりを告げる祝福の名である。

 親殺しもまた、天地創造の循環サイクルに組み込まれた機構システムの一部――自由意思という可能性の選択とて、無尽蔵の時空間資源リソースを持つ天の采配の前では歯車に過ぎない。

 全知全能の神意とは、疑うもの、敵対するものすら因果のより糸とせしめる絶対者なのだ。



 盤石たる運命の名の下に、塚原ヒフミの命は正しく消費され、その意味をまっとうした。



 誰もが願うしあわせのために、我が身を捧げる磔刑たっけい救世主メシア――かくあるべくして生まれた彼の化身である。

 そう、すべては成し遂げられた。




――我はここに顕現した。




 彼は到達者である――地球人類という種族が、幾星霜の彼方まで生き延びた証明。

 彼は簒奪者である――過去/現在/未来に存在する、無限の可能性を収奪する器。

 彼は模倣者である――人の願う神、祈る対象として存在するあまねく偶像の似姿。



 それは途方もなく巨大な構造体だった。

 太陽系の果て、外縁天体エッジワース・カイパーベルトにまで広がる光の奔流は、神々の姿を宿した無数の翼。

 万華鏡のように光を反射し、見るたびに模様を変える羽根は、その一つ一つが人の祈りであり、信仰であり、生涯であった。

 翼の根元にあるのは、かつて太陽と呼ばれたもの――無数の眼を持ち、無機質でありながら有機体を思わせる質感――燦然さんぜんと光り輝く黄金の球体だ。







――我が名は〈全能体〉、汝らわれらの願いの器なり。







 今この瞬間から、この宇宙は実存としての神を得たのだ。

 生物機械たる人体を超越し、超空間構造体という筐体を得た情報体――究極的に人を救うものとは、矛盾する幸福のかたちをも成立させる神の愛である。

 〈全能体〉の持つ時空間資源、この宇宙で起こりうるあらゆる可能性事象――無限のバリエーションを持った事象の海――を収めた索引は、すべての人に与えられた祝福だ。同時にそれは、知的生命体の認知する有限の世界を超克する術。

 ここでは叶わぬ願いはなく、失われる幸福はなく、また永遠に飽くこともなく、満ち足りた生を謳歌できる。

 人を人たらしめる主観的認識の維持に、有限の肉体など必要ないのだ――肉体の持つ原始的な欲求と、知性により付与された想像力が人間性の定義であるならば。

 それを再現した入出力さえあれば、それは物質宇宙と何も変わりない現実である。外界から入力される知覚と、人体から出力される行動の調和があれば、人はそのゆりかごの中で生きていける。




――我は始まりも、中間も、終わりもない普遍の救済機構。




 ここに人類の裁定は完遂された。

 あらゆる人間は救済され、あらゆる選択は応報され、あらゆる知性は善導される。

 完全無欠の幸福な結末が約束されている。


 大いなるものの声は、太陽光と同時に地表へやってきた。


 瞬間、地球上で起きていたあらゆる紛争、闘争、生命活動が停止する。

 それが戦禍であれ、貧困であれ、犯罪であれ、暴力であれ――人は悪行から逃れられぬ存在であり、それゆえに、あらゆる場所に犠牲者が生じてしまう。

 運命を呪い、人間を嫌い、社会を憎み、神などいないと絶望する人々。そして死を目前にして怯える命にこそ、その声は届いた。




――人は救われねばならない。




 天上から降り注ぐ、慈悲に満ちた声。太陽光と共に飛来した共鳴禍は、建築物はおろか地殻そのものを透過し、地球の反対側にまで浸透していた。

 肉体の生命活動を自ら放棄した人々の頭蓋骨に声が染み渡ると、脳組織が変異脳へと作り替えられ、自動的に、侵食光を躰の内側から外側へ放射――肉体の全質量をエネルギーへと転換。

 そうして生まれた幾千、幾万、幾億もの情報体は、七色の光を振りまいて昇天した――彼らを救う〈全能体〉の下へと。



 いつまでも、いつまでも。

 青空も宵闇も切り裂いて、眩しい虹の柱が立ち上がる。

 天へと昇る七色の流星雨によって、この星の幼年期は、静かに終焉を迎えようとしていた。









 何が起きたのかわからなかった。




 青年の躰が爆ぜるように消え失せて。

 目も眩むような七色の光が放たれ、恐ろしいことが起きている。

 導由峻の人間としての情動は、凍り付いたように動かなかった。目の前で起きたことを理解していながら、それを拒むための思考停止。

 だが、少女を超人たらしめる部分――結晶細胞の神経組織と角は、冷静に事実を俯瞰ふかんしている。

 〈全能体〉の完全な降臨。

 その結果を引き寄せるためにヒフミは破壊され、それを呼び水として〈全能体〉は受肉した。



 だから、因果はとても簡単に説明できる。



 塚原ヒフミが現在を守ったとしても――その先にある未来が、決断に報いるわけではなかった。

 そうして守った人間が何を願うかは、保証されていないから。

 西暦二一三四年現在、地球上に存在する五〇億の人類は、そう遠くない将来、いずれ死を迎える。

 そして〈全能体〉の救済とは、その死の瞬間、怯える命を取りこぼすことなく救うことなのだ。

 全人類を〈全能体〉の干渉から守らんとした男の決断は、五〇億の人類――あるいは過去未来にまたがる、死に屈する人類すべてを敵に回したのだ。



――生きたい。



 そんな当たり前の願いの群れが、ヒフミを破壊した腕の正体だった。

 次なる霊長ポストヒューマンという夢の結実、時空間すらも支配下においた超越的知性体。それが地球人類の行き着く進化/退化の極点だ。

 まだ見ぬ未来を、丘の向こうに広がる豊かな世界を求めて、前に進むのが人間だというのならば――もう、彼らが前に進む必要はない。はるか彼方より、その歩みの到達点がやってきたのだから。

 この星で生じた生命体の中で唯一、想像力を理由にして産み増え殺し続ける知性体。

 その頭脳ゆえに可能性を知覚し、その確定していない未来のために同胞を殺す獣――それもまた人間だった。



 由峻は今まで、人の生命を、尊厳を踏みにじる同胞を嫌悪してきた。よしんば亜人種がホモ・サピエンスに能力的に勝っているとしても、それは肉体拡張の結果であり、後天的に穴埋めできる程度のハードウェアの性能差でしかない。

 そんなものを絶対的優越と勘違いして、他者を傷つける愚劣さを憎んできた。

 そう、大勢において加害者と被害者の構図は明確だった。人間が相対的弱者であり、神話主義者の亜人や〈異形体〉によって虐げられる犠牲者だからだ。

 彼らの悪意や暴力が、自分や母親を襲ったとしても、いずれ解決すべき問題の一部でしかなかった。

 シルシュの作り上げた理想世界ユートピア暗黒世界ディストピアの歪みに根ざす、人々の怒りや憎しみは当然である。

 その過程で流れる血があるとしても、それに報いる、よりよい明日を築くしかないのだ、と。

 明確な使命感と義務感、そして潔癖な正義感が、導由峻しるべ・ゆしゅんを今日まで動かしてきた。


 人の愚かさも、醜さも、弱さも許そうと誓った――それが自身に課された生き方なのだと信じて。


 やはり、少女は傲慢だったのだ。

 考えたこともなかった。

 人間すべてが、絶対的支配者として君臨する世界など。

 その結果が、何をもたらすのかを、ようやく思い知らされている。




 空は満天の青空。

 緞帳のように季節を覆いつくしていた冬の雲は跡形もなく消え失せ、煌めく黄金の太陽だけが宙に浮かんでいる。

 由峻は何もできず、路面にへたれ込み、呆然と空を見上げていた。


 ちらちらと降りつもる、燃える雪を見た。


 花びらのように宙を舞う、美しい光の飛沫。

 それが剥き出しの角に触れた瞬間、燃えるような感情が胸中に生まれた。跳ね起きるように腕を伸ばして、白熱する雪の結晶――砕け散った魂の欠片に触れる。

 幾条もの光が天へ昇っていく中、由峻が見ているのは、失われた存在の残した祈りだけだった。





――君と一緒に生きる未来が、ほしい。





 彼が最後に望んだもの。

 はらはらと舞い落ちる燃える雪は、桜の花びらのように綺麗だった。



「塚原……さん」



 愛しさがつのった。

 あの人は、何も諦めてはいなかった。

 塚原ヒフミは、導由峻と共にある未来のために生還しようとしていたのだ。

 頬が濡れている。気付かぬうちに流れ落ちていた涙は、滂沱ぼうだとして止まることがない。



 おぞましい光が、地上に降り注いでいた。



 七色の侵食光を放ちながら、この星のすべてを照らし出す黄金の太陽――無数の目を持ち、無数の翼を持ち、無数の姿と共に君臨する絶対者。

 全方位に広げられた銀色の飛沫は、その一つ一つが、集積された可能性事象の体現だ。


 この地上に生きる人間すべてを見守るための瞳――五〇億の天眼を持つ人類救済機構。

 あらゆる角度に無限の姿を示す、神々しい万華鏡の翼。


 そのすべてに既視感があった。塚原ヒフミの情報体と同じ手触り、同じ声音、同じ輝きがそこにある。

 大いなるものの呼び声が聞こえる。




――喝采せよ、万人に不死の門は開かれた。




 彼であって彼でないものが、人を救いたいとうそぶいている。

 凍えるような孤独も、際限のない悲しみも、青臭い人への憧憬も――彼を彼たらしめたものは、すべて摩滅されていて。

 由峻を愛していると言ってくれた、あの優しい青年の面影はどこにもなかった。

 燃える雪を全身に浴びながら、彼女は理解した。



「あぁ……あ、あああぁぁ……!」



 わかる。

 わかってしまう。

 もう、どこにも彼はいないのだと。



 今さらになって、何もかもが手遅れなのだと悟る。

 天の光はすべて人――荒れ野へと放たれた種子から芽吹いた、永劫に咲き誇る花。

 それは汚泥の上に咲き誇る、蓮花のように美しかった。



――ヒフミを犠牲にして、完成した絶景。



 征服者にして収奪者にして繁殖者たる霊長じんるいのおぞましさを、理解できていなかった。


 自他の幸福のためならば、あらゆるものを足蹴にして繁栄を選び取れる怪物の群れ――生まれて初めて、邪悪にんげんが憎いと思った。


 頭が真っ白になるような悲嘆と、憎悪と、絶望が思考を焼き尽くして。









「うわああぁあああああぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」









 涙は止めどなく流れ続け、叫びが声帯を震わせ続ける。

 魂の深奥からわき上がる激情、世界を焼き尽くすような怒りが、由峻を支配していた。















――それを、人は慟哭と呼ぶ。













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