37話:悪なる光 前編






 それは、星を覆い尽くす祈りの渦だった。







 南極を除いたすべての大陸――ユーラシア、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、オーストラリア――で発生した人体消失現象は、発生から数分で社会を麻痺させた。

 辛うじて機能している天文台からは、太陽の変質――最早、恒星と呼べるかも怪しい変貌――が報告されたものの、その正体を理解している人間はほとんどいなかった。

 億単位の人命が光となって空の彼方へ昇る。

 すなわち全地球規模での超人災害という未曾有の事態に、人の叡智が及ぶことはほとんどなかった。

 一部の軍事組織が、組織だった動きを見せた――彼らの想定する事態終息後の文明社会が存在するかも定かではない――のはさておき、人口の大半を占めるホモ・サピエンスという種が無力化されたせいだ。

 人の本能に訴えかけるような声が、知的生命体としての人類そのものを刈り取っていく。



――我は滅びを超えた永遠の法の守護者である。



 地球人口の過半数が失われると、地球そのものへの物質解体が始まった。地表構造物の質量が急速に失われ、幾何学模様のような光を放ちながら、あらゆる人工物が空中へ浮かび上がっていく。

 続いて地表の土砂が、海原の海水が、地殻の隆起した山脈が、風船のように宙を漂い始めていた。

 重量感の欠片もなく、ふわふわと大気中を漂う山々はまるで何かの冗談のよう――安っぽい挙動のCGのようにも見える異様さ。

 ヒマラヤ山脈が、ロッキー山脈が、アルプス山脈が、アンデス山脈が、雲の向こうへと浮かび上がり、山頂から幾何学模様の光を放って消えていった。

 抉れたように山々を奪われた地表では、大規模な地殻変動に伴って火山活動が活性化――北米最大の火山地帯、イエローストーンの火山がこの世の終わりのような大噴火を起こし、おびただしい量の噴煙と共に溶岩を吹き出す。

 しかし、それだけだった。北米の地形を変えてしまうほどの噴火のエネルギーは、〈全能体〉より降り注ぐ侵食光に分解され、本来起こるはずだった天変地異諸共に喰われていく。

 溶岩が消える。

 粉じんが消える。

 地殻を揺るがすエネルギーが消える。

 輝かしい物質分解の光を放ちながら、あらゆる事象が資源として貪り食われていった。

 これこそが人類の進化の到達点、天体のすべてを支配し、利用し尽くす究極の征服行為――それを見咎める人類はいない。

 〈異形体〉が根を下ろした支配地域では、辛うじて人類が存在していたが、それだけだ。


 空を見上げれば、全天を光の柱が覆っている。

 天へ昇る虹色の光の数は、すでに三〇億を超えて瞬く間に四〇億へ届こうとしていた。指数関数的に増大する人体消失者たち――近いうちに、この星に生きる人類の大半がそこに合流するのは明確だった。

 そう、何もかも手遅れだった。

 たとえ今、この現象が止まったところで、地球上のほとんどの社会は機能不全を起こすほどに人口を失っている。

 何より、知的生命体がその活動を維持するとき、感じずにはいられないもの――苦痛や恐怖、ストレスに類するものが、人間をその結末へとせき立ててしまう。

 明瞭なる生存の否定と、それに伴う、より優れた形態へのシフト――希望に満ちた輝きが、ホモ・サピエンスという種を終わらせていく。

 死を超えた永遠の形態、超空間構造体の一部として存続する無限の幸福。


「…………」


 導由峻しるべ・ゆしゅんはその光景を、ずっと見ていた。

 〈異形体〉と同じ神の眼で、この地球上で起きている現象を視界に収め続けた。

 すでに、彼女の学友たちの半分は存在していない。結晶細胞が〈全能体〉の侵食光に抵抗する亜人種を除いて――皆、あの黄金の太陽へ同化してしまった。

 親友と呼べた少女は、もういない。

 安藤霧子――どうしようもなく騒がしい少女もまた、〈全能体〉の一部となった。

 そう、あの娘もまた、いつかどこかの未来で、塚原ヒフミを打ち砕いた腕の一部となっていたのだ――当たり前の人間として。

 これは、あらゆる人の祈りの最果てゆえに。


 もうずっと、〈異形体〉からの声が聞こえない。

 軋みを上げながら、崩壊していく地表に残された水晶の巨塔たち――もう何の神託もくれない、彼女たちの造物主。


 寒い。

 ここはひどく寒いと、今さらになって気付く。

 由峻は厳密には亜人種ですらない異物で、彼女が愛した人々は超常種/人類種/亜人種だ。

 異形のものであることが、こんなにも孤独を感じさせるなんて、初めてだった。


 いったい、どれほどの時間、泣き続けたろうか――悲嘆も、憎悪も、絶望も麻痺するまで無為に涙を流して。

 由峻は、のろのろと立ち上がった。

 崩れ落ちてしまいそうな心に感情制御ソフトを走らせ、思考を明瞭に切り替える。

 たしかに悲しい。苦しい。やりきれない。

 だが、それだけではない。ひとときの激情にすべてを明け渡すには早すぎる。


――できることがあるはずだから。


 由峻が唯一無二の存在であることの意味。人間の意識を持ちながら、〈異形体〉のような力を振るえること――結晶細胞が持つ超物理現象の出力機能、その根源にして上位階梯にある神の眼――可能性事象への干渉能力だ。

 熱核兵器の炸裂を消去することも、超空間ゲートを開いて時間と空間を超えた旅も可能とする〈異形体〉の権能。

 限りなく〈異形体〉に近い存在である由峻には、それと同じことができる。


「……まだ、きっと……あなたを救えます」


 航空機という翼を手に入れて空を飛ぶように。

 あるいは、通信によって星の裏側にまで情報を届けるように。

 可能性事象の書き換えという、人智を越えた手段なら――塚原ヒフミの生存に手が届くのではないか、と。


 わかっている。

 仮に彼を復元できたとしても、この状況では何の救いにもならない。

 それでも止まれなかった。



――恋を、しているから。









 わずかばかり、時をさかのぼる。




 地表からはるか彼方、高度二万メートル上空。

 かつて東京一号と呼ばれた肉塊が、積乱雲のように陣取っていた空間――〈光輝の王〉からの致命的な一撃により、崩壊した物質態の残滓。

 亀裂が走り、バラバラに打ち砕かれていく〈導管〉の表面が、不意に盛り上がる。

 ほどなくして隆起した部分が蒸発し、白く燃え上がるような巨体が躍り出た。

 翼長一〇キロメートルにも達するレベル3超常種〈天の女王〉――白熱する翼の集合体が、超空間的牢獄から脱出した瞬間である。

 三六対七二枚の翼手を展開、棘皮生物ウミシダのようなシルエットを持つ熾天使――桁外れの火力と機動力、無尽蔵の遡航再生を持つ魔人――の似姿には傷一つない。

 視覚器官が捉えるのは、抜けるような青い空だ。地球の大気層によって散乱した太陽光の青、この世界を目視するがゆえに感ぜられる景色。


――終わった、のかな。


 幾千、幾万回も焼き尽くした人肉都市。それらが溶け崩れ、超人災害・東京一号であったものが霧散していく中、新藤茜は飛翔する。

 もう彼女を閉じ込めていた肉塊の結界は機能していない。すなわちレベル4の超常種、変異脳の集合体が破壊された証左。

 どうやら地上に残っていた可愛い後輩――超人災害対策官・塚原ヒフミというお人好しの青年――が、上手いことやったらしいと察する。


――さっすが塚原くん、仕事が早い。


 感心しながら、冷たく薄い高度二万メートルの大気を感覚器で味わい、すぐに異常に気付いた。

 眼下の地上、その一点から凄まじい量の干渉波が放出され、茜のすぐ横を通り過ぎていく――正確には、飛来する超光速波の痕跡を遅れて知覚。

 胸騒ぎがした。

 波動が放出された地点へ光学視覚器官を向けると、そこには、呆然と地べたに座り込む少女がいた。

 二本の山羊角を生やし、黒髪が映える、白く透き通るような肌の美貌――見間違えようがない賢角人だった。

 導由峻。

 かねがね茜が危険視していた亜人種であり、塚原ヒフミが護衛していたはずの要注意人物であった。

 その娘が、まるで、いなくなった誰かの幻影を追い求めるように、天を見上げていた。


――まさか。


 悪い予感がした。

 今の茜を構成するのは、超常種の血肉から成り立つ巨大な戦闘機械としての肉体であり、増設された情報処理システムだ。UHMAの保有する各種観測施設やデータリンクへのアクセスを開始、〈天の女王〉のセンサー群が捉えている情報と照合していく。

 そうしている間にも、事態は進行していた。

 数秒後、異変が起きた。様々な波長の電磁波をさんさんと降り注がせていた恒星が、目に見える形で変貌していく。おぞましい黄金色の球体が、宇宙空間の隅々にまで無限に連なる白銀の翼を広げていくのがわかった。

 七色の太陽光が、悪夢のように到達する――太陽の存在する座標から届く、どこか懐かしいような声。



――我が名は〈全能体〉、汝らの願いの器なり。



 それは彼女たち超常種を支配する、神に等しい機構だった。

 かつてない量の干渉波、共鳴禍を引き起こすそれが地球全土に降り注ぐことの意味を、すぐに理解して。





 たった今、女は失われた存在の名前を知った。





 ああ、そうか。


 塚原ヒフミの最後の決断と、そしてあの忌まわしい神の似姿が何をしたのかがわかった。

 桁外れの怪物的構造体に対する、自らにかかる過負荷を顧みない一撃。

 それによってレベル4〈導管〉・東京一号は破壊され、茜やヒフミ、UHMAという組織が想定した最悪のシナリオは回避された。

 そして想定された最悪を凌駕し、青年の献身をも食い物にして――新藤茜が心底拒むものは出現したのだろう。


 自分でも吃驚するぐらい、茜は冷静だった。

 今になって、どういうわけか、〈全能体〉の声が懐かしかった理由を悟る。

 これは、塚原ヒフミの声だったのだ――致命的に変質してなお、おのれがよく知る少年/青年の面影を残す言葉の響き。彼と最初に出会う前から、超常種である茜はそれを知っていた。

 超空間構造体である〈全能体〉は、人が思い浮かべるような、正しい時間の流れに沿った因果に従っていない。

 時間をさかのぼって響き渡る残響が、既視感を誕生以前から刷り込んでいたのだ。

 どこか達観したように、あの愚かしくも愛すべき青年の消失を受け入れた。



――ああ、なんて救いようのない末路だろう。



 誇りなどないと、あの変わり者の後輩は言うだろうけれど。

 その生き様は誇るべきものだ。我が身を犠牲とすることで得られる、最善の結末のための決断。

 それは怠惰や自己陶酔ではなく、勇気と献身と呼ばれるものだ。


 彼女たち超常種サイキック――ホモ・ペルフェクトゥスは人間からかけ離れた超人だ。

 種族としてみれば、遺伝的に何ら問題なく人間と交配できる――交雑種ではなく純然たる人類種か超常種が誕生するだけ――としても。

 それは所詮、ホモ・サピエンスと共通の臓器を使い回しているからに過ぎず、人体は変異脳を包む肉の殻でしかない。

 究極の恒常性たる遡航再生によって駆動する身体は、物理法則の軛から逃れた異能の副産物であり、それに付随する人間性もオマケのようなものだった。

 人間に奉仕せんとする指向性すら、本能として組み込まれた異能異形。生命活動を維持するだけなら、社会性はおろか食事も睡眠も排泄も要らない超人だから、人類種は彼らを『完全なる人』と呼んだ。

 気まぐれに異形の肉体に発声器官を構築した。戦闘能力になんら影響を及ぼさない手慰み。

 独りごちる――狂える太陽として君臨する彼へと。



「あたしは、いつも、手遅ればっかりだ……!」



 一人の同胞として好ましいと思っていた。

 いつか、彼が背負う重荷が消えて、幸せになればいいと願う程度には。

 矛盾した感情だとわかっている。超常種として生きるとは、人類種の守護に身命を捧げて生き続けることと同義だった。



――塚原くんはたしかに、人間らしく生き抜いたよ。



 それでも。

 我が身を捧げて人を守ろうとした生は尊いと、今なら信じられた。

 自分自身の意思を貫き通したというのなら、どんな救いようのない結末だろうと、茜はヒフミを誇りに思う。

 だから、その意思を無意味にするわけにはいかない。


「仕方ないなあ、ほんとさ。塚原くんの守りたかったもの、なるべく、壊さないように頑張ってみるよ」


 導由峻という危険人物との付き合いは、いずれ、彼を破滅に追い込むだろうと思っていた。

 そう、あの娘の登場が、あらゆる策謀を加速させていた――対策官の規範から逸脱し始めたヒフミが、このような結末を迎えたのも必然に思えるほどに。

 たとえそれが、あの青年にとってかけがえのない思い出だろうと関係ない。人が人に好意を抱くための構成要素は、驚くほど似通ったパターンに収斂していく。

 奇跡のような恋も愛も、第三者にとっては陳腐なよくある物語だから、茜はひどく醒めた思いでこう考えるのだ。

 一体、これはどこの誰が始めた筋書きシナリオなのだ、と。


「あーあ、まぁた重荷背負っちゃうなァ」


 こんなことならラーメンの一杯も奢らせればよかったかな、と苦笑して。

 おのれの周囲、半径四〇万キロメートル圏内――方角は成層圏の外側、黄金の太陽に関係するものと断定――へ飛来する敵影の群れを感知、即座に全身のレーザー砲を照射した。

 三六対七二枚の翼手の表面、孔雀の羽の模様のように並んだレンズ状のレーザー発振器――文字通り光の速さで着弾する破壊光。

 凄まじいエネルギーの放射に、高々度の薄い大気がプラズマ化しながら炸裂、雷鳴のような爆発音を響かせる。

 数十万の光の槍――撃墜数は四〇〇と少し。

 地表に直撃すれば、一瞬で着弾点を蒸発させる熱量に不釣り合いな戦果だった。

 確信する。

 敵は超常種レベル3、つまり〈天の女王〉に匹敵する個体の群れだ。

 生身で宇宙空間を突っ切る、数えきれぬ敵影――光学センサで敵影をはっきりと目視した――思わず自分の正気を疑った後、笑い出したくなる。


「……なにこれ」


 まるで質の悪いコスプレ会場に迷い込んだような気分。

そこには、新藤茜がこよなく愛する映画のヒーローたちがいた。とっくの昔に寿命や〈ダウンフォール〉の大災害で亡くなった、往年の名俳優たちの演じた顔ぶれ。

 映画に出てきた表情そのままの、愛おしいキャラクターたち。



 すぐに人を殺す不良刑事がいた。


 筋肉モリモリの退役軍人がいた。


 銀河のお伽噺の騎士がいた。


 幾度も宇宙生物と戦う女がいた。


 二〇世紀から二一世紀にかけての大衆娯楽映画ハリウッド・ムービーの主役たちがいた。


 日本生まれの漫画作品、特撮作品、アニメーションで描かれた様々なヒーロー、ヒロインがいた。


 米国生まれのコミック・ヒーローたちがいた。



 いずれも幼少期の茜が、父や兄の影響で慣れ親しんだフィクションのヒーローたち――お気に入りのキャラクターから、ほとんどうろ覚えのキャラクターまで、よくもまあ勢揃いさせたものだ。

 版権もののクロスオーバーで実現させようと思ったら、どれだけの人脈と予算がいるのか考えたくもない。

 それにしても統一感がなさ過ぎる。

 奇妙に現実感のある着ぐるみのようなものから、黎明期のCGそのままのぎこちないもの、二次元の嘘をそのままにしたようなアニメーションの人型。

 いっそシュールすぎて笑いたくなる光景だが、ゆえに共通項もすぐにわかった。


 そう、それはたしかに人の信仰を集める依代だった――無限無数の、人の織りなす物語から生まれた偶像たち。

 すなわち〈全能体〉が命を吹き込んだ化身アバターたる昇華端末、忌まわしい救済の傀儡として選ばれた姿形であった。

 まるで、お祭り映画の悪趣味なパロディだった。

 要するに、ここに殺到する化身は誰かが信じるヒーローの似姿で、善玉で、新藤茜という悪玉を倒せばハッピーエンドなのだろう。

まったくわかりやすい悪者扱いもあったものだ。何より腹が立つのは、元ネタになった作品のテーマ、時代性、キャラクターの人物像への理解がまるで足りないハリボテであること。

 こんな連中に殺されたら、一介の映画好きオタクとして死んでも死にきれない。


――よりにもよって、死体蹴りにもほどがあるよ。


 笑えない。

 こんなに笑えない冗談は久しぶりだった。

 地表のあちこちから打ち上がる昇天の光が見えた。数十億の命が、茜の厭う存在へと同化していく――もう、この星は手遅れなのかもしれないと思えるほどに。

 すべての人が〈全能体〉を受け入れ、茜が守ってきた世界をこそ否定しているかのようだった。

 だが、それは彼女たちが戦いをやめる理由にはならない。

 遠い昔、同僚になったばかりの青年と交わした言葉を思い出す。


――もしも、僕が間違えてしまったときは。



「……いいよ、約束は守る」



 たかがレベル3相当の化身アバターが、いくら束になろうと敗北などするものか。

 高出力レーザー砲、粒子ビーム砲、プラズマ防御帯、分子結合破壊兵器、陽電子爆弾、その他諸々の破壊のための装置群――〈天の女王〉に内蔵された兵装、形態変化のすべてを使い切ってでも殲滅する。

 如何なる異能を持った化身であれ、すべての攻撃を防ぐ手立てなどないのだ。必ず何らかの隙があり、有効打となる兵装がある。

 相手が自分と同じ性質を持っているなら、遡航再生が追いつかないほどの速度で、肉体を破壊し続ければいい。

 それが物質態であれば質量を昇華させるだけのこと。




「――塚原くんが間違えたときは、殺してあげる」




 この命が尽きるその瞬間まで、貫くべきものがあった。

 誰よりも何よりも、救われぬ道を駆け抜けた同胞のために。

 死んでいったものたちのために。









――ゆらり、ゆらりと舞い落ちる雪。



――終わりであり始まりであるもの。



 由峻は、〈異形体〉の眼に溺れていた。

 時間と空間を超えるということの意味、因果のより糸を、時間軸をまたいで俯瞰ふかんする。

 あらゆる生命、あらゆる事物を取り巻く千差万別のバリエーション――起こりうるすべての「もしも」。

 〈全能体〉に取り込まれたときに感知したそれは、海原のように貯蔵され、一種のデータベースとして索引に組み込まれた情報体だった。

 だが、由峻がその神経組織を〈異形体〉に同期させ、感覚する世界は違った。


 何の比喩もなく、ただ世界が輝いて見えた。


 その一つ一つが独立した結果でありながら、数え切れない断片として集うことで、さらに大きな像を形作る光輝。

 見る角度によってその色を変える、魔法のような輝きの集合体こそが、〈異形体〉の視座においてたしかな現実であり、手が触れられる世界の基本的単位であった。

 可能性事象という名の、この宇宙を成り立たせる美しい因果の系統樹。

 この世界樹こそが時空の全貌であり、その目も眩むような偉大さに比べれば、〈異形体〉すらちっぽけだと錯覚してしまいそうになる。

 宇宙的存在コズミック・ビーイングたちの本拠地、四次元宇宙という枝葉の上位に位置する高次元――由峻が生まれた地球、太陽系、銀河の存在する時空など、その世界樹から伸びた枝葉の一つに過ぎず、同様のものが天文学的な数量で存在しているのだ。

 すべてを把握しようとすれば、どれほどの時間をかけても足りることはあるまい。


 不意に、閃いた。


 〈異形体〉が〈全能体〉と戦っているのは、この絶景を守るためなのではないか、と。

 時間をさかのぼっての人類救済と、起こりうる可能性事象の収奪をし続ける自動機械。それが〈全能体〉の本質である以上、〈異形体〉が身を置くこの上位宇宙もまた、その征服対象になりうる。

 前人未踏の領域とは、すなわち開拓地フロンティアであり、人類の業を拡張した怪物にとっての餌だ。

 その仮説を証明したくてたまらなくなる――思わず当初の目的を忘れて、知的好奇心に没頭しそうになるのを、精一杯の理性で抑制。

 彼女が探し求めているのは、超越者の巨視的戦争の実態ではなく、ちっぽけな彼女の出身宇宙のIFの可能性なのだ。

 どこかで発生した原初の極点から、末広がりに伸びていく可能性事象の立体的構造体――まるで細胞組織のように寄り集まった個別の可能性事象を振り分けて、望みの時空間座標を見つけ出す。

 それは気が遠くなるような時間をかけた作業のようにも思えたし、ほんの一瞬で済んだことのようにも思えた。

 ここでは時間感覚の意味がない――時間経過は四次元宇宙で駆動する生命体が感覚する概念だ――から、単に由峻が錯覚したに過ぎない。

 たぶんそれは、人間としての意識がなせる誤差だった。

 不必要で、空回りする人体の宿痾。

 なのに、それが泣きたくなるほど嬉しかった。

 由峻がしようとしているのは、死者の蘇生という、神話的タブーへの挑戦だった。

 全世界的に禁忌とされ、神話の英雄たちですらほとんどが失敗した行為――畏れのような感情がわき上がる中、それでも手を伸ばし続けた。


――希望を求めて、もがくように。


 可能性事象への干渉の仕方は、この力に覚醒したときもう知っていた。

 生命の誕生とその進化の歴史を駆け抜け、人類史の領域に突入――間もなく文明の時代へと至り、早回しで勃興を観測しながら望みの一点へ辿り着いた。

 〈異形体〉の来訪と、その徹底的な破壊による文明崩壊〈ダウンフォール〉から一二〇年後――西暦二一三四年の日本列島、クリスマスシーズンの都市で起こった事件へと。


 その過程で理解したことがある。

 〈異形体〉の視座の前提となる世界観は、〈全能体〉のそれと大きく異なる。

 人の嘆き、苦しみを前提としてその救済を目指す〈全能体〉は、人間の生命活動と意識の連続性が、脆い肉体に依存した存在であることを超克しようとしている。

 人命が不可逆性の死によって失われることを大前提としたアプローチなのだ。

 だが、〈異形体〉の属する秩序は違う。

 ここにあるのは〈全能体〉の嘆きと真逆、生命活動すらも簡単に無から有へ反転させられる世界認識だ。


 たとえ話をしよう。


 死者という名のモノは、可能性事象の分岐に影響しない。死骸を取り巻く無数のバリエーションは、与えられた条件によって変動する環境の一部である。

 何かしらの前提条件の入力によって、出力される結果が変わったとしても――その決定的なファクターは死者ではなく、動態である世界の側なのだ。

 死者は何一つとして現実を変えられない。

 だが、それは生者が特別だからではない。

 ある種の変数として、可能性事象を左右できる観測者。すなわち結晶細胞の性質により近いのが、生きた人間というだけのこと。

 結晶細胞によって人類が超物理現象を起こせる根本的な理由がこれだ――活動状態の知的生命体を核として、上位宇宙の視座から可能性事象に干渉する〈異形体〉の権能の再現行為。

 死者と生者の区分とは、脳の電位活動や生体組織を駆動させる化学反応の差異なのだ。

 それは人間の死生観が想定するような、絶対的な隔絶ではない。



――人の生死など地面に落ちたコインが表を向いているか、裏を向いているか程度の、くだらない違いだ。



 〈異形体〉の視座にとっては、失われた人命こそ取り返しのつく些末事なのだ。彼らが無からエネルギーや資源を創造し、人類に供与していたように。

 人の意識も肉体も、容易く無から有へとひっくり返る。

 死者を生きていたことにするのは、それぐらい簡単なことだった。

 それが由峻の属する地球外知性体、〈異形体〉の掌握する世界のありよう。

 彼らが何故、数十億の人命をいとも簡単に奪ったのか――異種であること、下位宇宙の知性体であることなど大した理由ではなかった。

 いつでも「なかったこと」にできるモノが相手だから、ひどく冷酷な処断ができたのだ。


――吐き気がした。


 だが、止まれない。

 たとえ地獄に堕ちようと構わない。

 これまでの人生で築き上げた価値観を足蹴にすれば、奇跡に手が届くというのなら――導由峻は人でなしにだってなれる。

 脳裏をちらつくいくつもの疑念、あらゆる不都合な事実、良心の呵責にも似た倫理からも目を背けて。

 探すのはたった一つでいい。

 あのとき、導由峻の眼前で失われた塚原ヒフミがそうならずに済む生存の分岐点――そのために必要ならば幾千、幾万の可能性事象を上書きしてみせよう。

 五〇億の人類が紡いできた歴史を陵辱し、冒涜し、望みの結果をたぐり寄せよう。

 改変の起点を探して、探して、探して。







 そんなものは、どこにもないと気付いた。






 起こりうるIFの事象を現実とできる力とて、存在しない選択肢を選ぶことはできない。

 それがどれだけ天文学的確率であろうとコインの裏表をひっくり返す力は、存在しないコインに干渉することはできないのだ。

 無と有を反転させるための一末の希望がない。




――塚原ヒフミが消失せず、現存する可能性事象は存在しない。




 気が狂いそうになりながら、そんなはずはないと時間と空間のあらゆる座標に眼を向ける。

 直接的に関係がなくとも、どこかに改変の基点はあるはずなのだ。この地上で生まれ、存在した生命体である限り、本人以外の関わりから干渉はできる。

 何よりそう、死者というモノならば簡単に干渉できるはずではないか。

 そこまで考えて、不都合な事実に気付いた。


 塚原ヒフミは消失した。

 しかしそれは、人間的な意味での死と同義ではないのだ、と。

 粉々に打ち砕かれ、限りなく拡散し、意味をなさない飛沫となり果てて――人類に奉仕する巨大な神へと変貌してなお、彼だったものは存在している。

 今まさに人類をこの星ごと取り込もうとしている強大な征服者を、あの時空間座標で成立させるための因果。


 そう、考えてみれば当たり前のことだった。

 塚原ヒフミだったもの――〈全能体〉に干渉できるなら、〈異形体〉も最初からそうしている。

 超越者の対立構造が、解消されないままずるずると長引いていること自体、両者の力の拮抗――あるいは〈全能体〉が優勢なのかもしれない――を示唆していたではないか。


――ああ、でも、まだ。


 由峻が確認していない可能性がある。

 そもそも塚原ヒフミが、ああして命を賭けて戦うようになったのは、導由峻との出会いがあったからだ。

 これは自惚れではなく、彼と同調したことで実感できた事実だ。

 ずっと昔、幼い少年と少女が出会い、大人になって再会したという道筋なしに、〈全能体〉を誕生させた流れは生まれない。

 ならば、ヒフミと由峻と出会わなければいい。

 それは根本的な解決であり、同時にこの身が割けるような痛みを伴う改変行為だ――そもそも改変後の時空で、由峻が存在できるかも怪しい。

 それでも可能性があるのなら、少女は迷わずそれを選べる。

 それが彼の愛に報いる術だと信じた。



 可能性事象の分岐に手を伸ばして。



 過去、どういった道筋で二人の恋が成り立ったのかを閲覧した。










――知るべきではなかった。










 〈異形体〉は、時間と空間を超えて旅をする存在だ。

 彼らの旅路の先――ある時空間で得られた成果物は、すべての並行世界へと共有され、過去に遡航して因果を成立させることも珍しくない。

 あるいは意図的に、特定の座標で得られる結果のために、原因となる事象を配置していくこともあった

 塚原ヒフミと導由峻の恋もまた、そういう因果の積み木遊びの一つだった。



――彼女たちの恋の結末から、すべてが始まっていたのだ。



 限りなく〈全能体〉本体に近しい超常種、〈光輝の王〉と一つになった由峻の情報体。



――それが起源となって、〈全能体〉の権能へ拮抗する耐性が生まれた。



 すべての結晶細胞が〈全能体〉の同化行為に抗うための通過儀礼、二人が生まれるずっと前から仕組まれていた生け贄の儀式。

 この改変戦争チェンジ・ウォーに不可欠な戦略資源が生起する、始まりの時空間座標だ。



――塚原ヒフミの消失を以てあの宇宙で〈全能体〉が誕生したように、導由峻の悲恋によって〈異形体〉は那由他なゆたの並行世界で戦い続ける術を得た。



 原因があり結果があるのではない。

 結果のために、原因が用意された。





 ヒフミと由峻の恋は、そんなつじつま合わせの材料だった。





 悲嘆が消える。

 憎悪が失せる。

 絶望だけが、真っ黒なあぎとを開けて、少女の魂を噛み砕いていく。

 声にならない絶叫が脳髄を焼き尽くしていくのがわかった。







――自分の中の大切な何かが、ぽっきりとへし折れる音を聞いた。














「あ――」



 意識が四次元宇宙に引き戻される。

 いや、それとも自分で接続を打ち切ったのだろうか――ぼんやりと周囲を見渡して、その救いのなさに乾いた笑みがもれた。

 数十億の魂が光となって天へ昇る絶滅の風景、海原も山嶺もその質量ごと貪り食われ、引きはがされた地殻が宙を舞う終焉そのもの。


「わたしは……こんな……」


 塚原ヒフミに恋をした。

 それこそが〈異形体〉の用意した物語であり、彼女に仕込まれた被造物クリーチャーとしての指向性だった。

 すべては、甘い落とし穴ハニートラップとして機能させるための恋情、愛情だったのだ、と悟る。


 人は美しいものに憧れる。

 そして、自分を好きになってくれたものに好意を抱いてしまう。

 ましてや、それが劇的なものであれば、人生を一変させるなど造作もないことだろう。

 彼の末路がそうだったように。

 人間の尺度で観測する限り、ただ美しい恋――それこそが対立する二つの超越者たちが、各々の目的のために仕上げた策謀の最果て。

 塚原ヒフミがこの場所で散華するよう仕向けたのが〈全能体〉なら、その動機となった恋と愛を演出したのは〈異形体〉だ。


 何がはじまりであろうと、貫き通した愛ならば恥じることはないと思っていた。

 だが、現実には塚原ヒフミは無惨な最期を迎えて。

 少女の恋情はおぞましい陰謀の産物に過ぎなかった。


「うぁ……ああぁぁあ……」


 結果として不幸を生んだならば、まだいい。

 だが、由峻が選んできたと信じたものは、最初からそのように仕組まれていて、おのれの祈りと誇りなど最初からどこにもなかった。

 悪しき運命そのものがすべての前提だったとき、人間に残されるものなどちっぽけな感傷だけだ。

 多くの真実を知った。

 それはきっと、母シルシュすら全貌を知らぬまま荷担させられた策謀の一端だったのだろう。

 おのれにつけられたもう一つの名前は、様々な悪の複合体コンプレックスだった。



――戦闘駆体〈ムシュフシュ〉。同化耐性の起源として機能する戦略兵器の一つ。



 毒蛇の頭、獅子の上半身、鷲の下半身、蠍の尾――時空間を超越して存在する〈異形体〉の道具として生まれたもの。

 記憶の中で、母が祝福として授けてくれた言葉すら、ここに至るため仕組まれた悪の一部に思えた。

 導由峻しるべ・ゆしゅんを構築する過去の意味が、根底から崩壊していく。

 もう、心は凍てついたように動かない。

 自分が笑っているのか、泣いているのかもわからないまま、壊れたように同じ言葉を繰り返し続けた。



「ごめっ……なさ……ごめんなさい……ごめんなさい……!」



 こぼれる涙は悲しみを表す記号ですらなかった。

 絶望が、今の彼女のすべてだ。

 琥珀色の瞳は輝きを失い、虚空を無気力に見つめるだけで、唇は青ざめ震えるだけ。

 由峻は呪いだった。

 我が身を捧ぐに値すると信じた恋も、愛も、たった一人を生け贄の祭壇スケープゴートへ追いやる道しるべ。

 誕生したそのときから悪であるもの――生まれ落ちたことが呪いとして機能する存在。

 無自覚に歩いてきたことが彼女の罪であり、塚原ヒフミの消失はその罰だった。

 たぶん、これは一つの真理なのだろう。



――本当に取り返しがつかないときになって、運命は、その牙を剥くのだ。



 ふわり、と。

 眼前に、銀色の巨影が降り立つ。

 それは〈光輝の王〉によく似た、異形のものであった。

 法衣をまとった賢者のような巨人――〈全能体〉より遣わされた断罪の化身〈裁きの知恵者〉ダニエル・アバター

 役目を終えた悪しき怪物に、あるべき結末を与えるために降臨した処刑人の影だ。

 由峻はその姿を一瞥いちべつしてなお、指一つ動かせなかった。





――こうべを垂れた罪人のように。













 ひらりひらりと一欠片。








 燃える雪が、舞い落ちた。










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