34話:一三八億年の恋 後編




 肉体に戻って最初の思考は、自他の境界線が曖昧な混淆状態から始まった。



 〈全能体〉に飲み込まれていた由峻の意識体は、〈光輝の王〉によって奪還され、その過程で彼のそれと混淆してしまったのだ。極めて冷静に、結晶細胞で構築された脳組織を活性化――自己定義に基づく思考透析を開始。正常化までの時間を利用して、理解できた事象を整理する。

 最初の〈異形体〉が何故、ユーラシア大陸に飛来、虐殺を繰り広げたのか――その理由。

 そもそも〈全能体〉は、すべての人間の意識体を回収するための自動機械だ。その発端がなんであれ、その行動原理は人類の救済という明瞭なものであり、例外はない。

 過去へ端末を送り込むため、〈全能体〉が配置した〈導管〉の少女――アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァの変異脳から放射された干渉波。

 それによって、この宇宙における超常種の誕生は確定した。それを追って、〈異形体〉はこの時間軸にやってきたのだ。

 ロシア西部、中央アジア、中国大陸――いずれも〈全能体〉が記録する可能性事象において、超常種レベル4〈昇華体〉が発生した地域――へ飛来した〈異形体〉は、そうして予防措置を執り始めた。

 すなわち虐殺であり、破壊であり、防疫である行為。

 効率的殺戮により、本来、全人類を飲み込むはずだった共鳴禍は封じられた。人類初の超人災害である東京一号は、大震災をきっかけに暴発した小規模なレベル4に過ぎない。

 そうして〈異形体〉は、〈全能体〉の目的を阻むことに力を注ぎ始めた。

 〈異形体〉の持つ事象改変能力をもってすれば、地球人類を皆殺しにするのは容易い。亜光速質量投射、ブラックホールの出現、多量の反物質の生成、空間破壊攻撃――そのどれもが確実に西暦二〇一二年の人類を皆殺しにできたはずだ。

 しかし、それでは意味がない。地球そのものを破壊してしまえば、〈全能体〉は別の時代、別の並行世界への介入に力を注ぐだろう。逆に考えれば――そこに一人でも救うべき人類がいる限り、彼らは干渉をやめられないのだ。

 ゆえに人類は、一二〇年間、絶滅させられずに生かされてきた。

 圧倒的な超越者同士の、時間と空間を超えた改変戦争チェンジ・ウォーの一局面。そう呼ぶほかない悪夢のようなチェスゲームの駒が、この世界のありようだ。


――だから、あなたは悲しいのですね。


 自他の境界が明確化する。肉体機能が最適化され、五感が戻った。

 視界が戻る。

 片膝をついた〈光輝の王〉の姿が目に入った。その背後で煌めく異形の球体――空に穿たれた七色の穴、はるか未来から〈全能体〉が干渉するための〈導管〉を見上げる。

 神経系のプロテクトを完了し、侵入に使用された回路を封鎖。

 〈全能体〉の行使した力は、たしかに彼女の知る青年の異能と同じ系統のものだった。その本質的機能のみならず、その存在を成立させた感情によって、少女の知る青年と〈全能体〉は繋がっていた。



――人間存在への悲しみが、あなたたちを生み出した。



 その成り立ちゆえに、必然として人体を否定するもの――人間否定によって成し遂げられる人間賛歌という矛盾の権化が、そのシステムなのだと理解できた。

 だから、許せなかった。こんなにも強大な力を持ちながら、結果として、この世界に多くの厄災を生み出した〈全能体〉への怒りが湧いてくる。

 声帯が機能することを確認し、喉を震わせて声を発した。


「……わたしは、〈全能体〉の目的を否定できません。たしかに人間の躰はあまりに脆く、そこに宿る精神活動もそれに左右されすぎます。ですが、その救済の過程プロセスへの同意もできない」


 〈光輝の王〉が身じろぎするのがわかった。

 身をかがめた巨人が、王冠のような頭部を傾げて少女を気遣っていた。

 ひょっとしたらこの人、人間の肉体だったときよりもかわいげがあるかもしれない――そう思いながら、胸中の熱を吐き出す。


「救いを謳いながら、嘆き苦しむ誰かを作り続ける。想像しうるすべての悲劇の根絶のため、あらゆる事象を征服しようとし続ける。痛みをなくすために、痛みを作り続ける……ええ、あなた方は如何にも人間的です」


 母シルシュが異種起源テクノロジーを人類に渡してきたのは、いつの日かその宿痾が克服されることを願ったからだ。

 それが五〇年、一〇〇年の時間経過では夢物語だとしても、続く未来においては違うはずだ、と。

 たとえ人間が、可能性を理由に他者を殺戮する獣だとしても――その想像力を、知性を、善き方向へ活かすことを願った。導由峻の母親はそういう人だったから、人のかたちに生む必要などなかった娘を、あえて亜人種として産み落とした。導由峻という超人が、ホモ・サピエンスにとっての福音となることを祈ったのだ。

 どうしようもなく愚かで、身勝手で、希望的観測だった。現実には、母の行いが原因で多くの地獄が生み出されたと由峻は知っている。

 けれど、人に善き未来が訪れればいいという想いは、間違っていなかった――そう信じられた。

 ゆえに。


「それだけの力を持ちながら、何故、人間を哀れだと呪うのです……〈全能体〉よ! どれだけ無意味に、無価値に思えたとしても……その答えは、人間自身が決めるべきことです! 最初から見下すことしかできない神が、人の尊厳を謳うなど愚劣極まりないッ!!」


 全知全能の神を模倣した構造体――全能なる超越者の救いは、いつだって有限に縛られる人間にとって、虚ろな空手形に過ぎない。

 わかっている。

 〈全能体〉のもたらす救済は、そうして、死に追いつかれ悲劇に泣き叫ぶ人をこそ救う。あらゆる可能性事象を収めたデータベースである〈全能体〉は、望んだ幸せな世界を万人にもたらす、優しいゆりかごだ。こうして疑念を叫び、その暴力性に怒る由峻のような例外だけが、その存在を必要としていない。

 それは彼女が賢いからではなく、傲慢だから言える台詞なのだ。


「いつか、約束された未来ですべてが救われるとしても――それが信じられないから、わたしは、あなた方を受け入れられません」


 それでも、言葉にして伝えなければならなかった。

 何もかも失いながら、人間のために戦い続けたこの人に――あなたが反旗を翻した神は、決して唯一の答えなどではないのだと。

 同時に、叫びは天へ届いていた。

 七色の球体/虹色の穴が煌めき、一際強い光を放つ――まさに天の裁き。打ち下ろされるのは、超光速の侵食光であった。

 由峻はそれを、後になって理解した。光よりも早く飛来する攻撃とは、そういうものだ。兆候を理解することも、備えることもできず、存在を消失させる一撃。

 だが、彼女は生きている。

 光よりも早くやってきた攻撃の正体を――それを防ぎ、自身を守る〈光輝の王〉を知っている。

 〈光輝の王〉は背中から帯状の翼を展開、由峻を庇うようにして侵食光を放出。細かく分岐した光の枝が、さながら網の目のように周囲の空間を覆い尽くし、結界のように二人を守っていた。

 今、結界の外で起きている現象は、侵食光の効能の攻撃転用だ。エネルギーは質量と光速度の二乗をかけ算したものに等しい――大気中を漂う塵の一粒すら、その質量を完全に変換できれば、莫大なエネルギーを生み出す。〈導管〉の放った侵食光は、このとき生じる莫大なエネルギーの捕食をあえて行わず、直接、由峻たちへぶつけていた。

 熱核兵器すら生ぬるい、天文学的エネルギーの発生――北日本居住区など跡形もなく消し飛ぶだけの熱量。

 〈光輝の王〉の放った結界が、そのすべてを吸収している。


 その姿に、ようやく踏ん切りがついた。


 本当はとっくの昔に結論が出ていたのに、自分自身の気持ちに向き合うのが遅れただけなのかもしれない。

 導由峻は厳密な意味での人間ではない。その身体組織は〈異形体〉に限りなく近い、高純度の結晶細胞で構成されている。ヒト由来の有機体のような振る舞いは、疑似生体としての見せかけのものだ。この身体に宿る体温も、肉の柔らかさも、彼女の肉体の本質とは言えないものだ。

 ヴァルタン=バベシュによって極限まで心身を追い詰められ、ようやく自覚したばかりの真実――人間のように振る舞う精神と、それと乖離した異形の肉体。

 考えてみれば、彼と由峻は似たもの同士だった。それゆえに胸に引っかかるものがあった――青年が守りたいと願った人間の像に、自分は相応しいのかと。

 だが、答えはもう出た。


――この身はそのためにあったと、信じられるから。


 こうまで逸脱しなければ、彼の傍にいることはできない。


「わたしはいつも、あなたに守られてばかりですね……」


 物質解体の嵐が吹き荒れる中、そっと手を伸ばす。

 片膝を付き、頭を垂れるようにして少女を庇う〈光輝の王〉は、女王へ忠誠を誓う騎士のようにも見えた。

 さらり、と絹糸のような黒髪が揺れる。一日でボロボロになってしまった衣類が恥ずかしい――もっと美しい姿でそうしたいと思った――けれど、確信があった。今このとき以上に、想いを伝えるに相応しい瞬間はないと直感は告げていた。理屈から言えば、戦いが終わってからでもいいはずだった。

 その論理的な帰結を、無粋だと切って捨てるだけの情熱が胸を満たしていた。


「知っていますか。わたしが最初にこの世界に疑問を持ったのは、あなたと出会ったからです。あなたの気高さが……あの日、わたしを助けようとした姿が、導由峻しるべ・ゆしゅんの始まりでした」


 由峻の手が近づくにつれ、〈光輝の王〉は動揺したように身じろぎする。おのれの異能が、少女を消してしまうことを恐れているようだった。

 大丈夫ですよ、と呟いて。

 伸ばした右手が、左手が、王冠の巨人の頬に触れる。彫像のような造形と裏腹に、柔らかで熱を孕んだ人のあたたかさ。触れても皮膚が溶けて消えることはない。コートの裾が光を放って消えていくが、それだけだ。〈導管〉への耐性のせいで、自然と二人の意識が繋がることはなかったけれど。

 それでもよかった。このぬくもりが愛おしかった。


「あなたの悲しみを見聞きしました。塚原さんは、優しすぎます」


 ここに、あなたが守ってくれた生命があると――掌で彼の頬を撫でながら、微笑んだ。


「弱いから破れる。脆いから壊れる。醜いから愛されない。当然のことです。――ですが、それが正しかったことなど一度もありません」


 剥き出しの残酷さ、どうにもならない理不尽は、確固たる現実として存在する。

 しかし、それは正しさではない、と由峻は思う。

 もしも、無慈悲で持たざるものを足蹴にし続ける世界こそが正しいのなら――人間は、洞穴の中で火も焚かず闇に怯えているべきなのだ。

 道具も持たず、ただ木の実を拾い集め、疾病と飢餓に怯えながら暮らせばいい。それでは満たされないから、恐ろしすぎるから、人間は世界を征服しようとし続ける。知恵と文明を得たそのときから、人間は理不尽を踏破するために歩んできたのだ。


「そんな答えは間違っていると思ったから、あなたは戦い続けた。大いなるものの歩みに踏み潰され、踏みにじられ、尊厳の一欠片も残されない理不尽を憎んだのでしょう」


 あらゆる残酷、無惨、醜悪は、いずれ克服すべき自然環境でしかないのだと、希望を歌い続ける。

 その姿は気高いものだ。眩いものだ。どれほど愚かしくあろうと、それだけではない。


「この世に真実、進歩なるものがあるとしたら。それは救えなかったものを、より多くの生命を救えるようになることです。取りこぼすものがあるとしても、あなたの罪などではありません」


 光の結界が、破壊に満ちた外界と二人を隔てていた。

 幾何学模様を絶えず生じさせ、神々しい七色の煌めきに抗う嵐――人智を越えた超物理現象がぶつかり合っているというのに、物音一つ聞こえなかった。

 聞こえるのは由峻の声と、呼吸と、衣擦れの音だけ。微動だにしない〈光輝の王〉の顔を見上げる。

 最初から答えはないとわかっている。異能行使に最適化されたレベル3の肉体に、発声機能がなくてもおかしくはなかった。



 だから、由峻は覚悟を決めた。

 わかっていても、感性だけは変えられない――真冬だというのに背中や腋の下が汗ばんできたのは、命の危機のせいではない。

 〈光輝の王〉の頬に添えた手に体重をかけ、蚊の鳴くような声で呟く。


「……頭をもっと、低くしてください。わたしと目線を合わせるぐらいに」


 上目遣いだった。

 〈光輝の王〉は拍子抜けするほどあっさり、由峻の言うとおりに頭を下げた。姿形はまったく青年に似ていないのに、変なところで素直なあたりがそっくりだった。

 大きな頭だ。三メートル近い巨人の体格に合わせ、スケールアップされた頭蓋骨に由来する大きさ。その頭に眼窩から上はなく、杯のように空っぽの頭蓋骨の奥で煌めく、不思議な光。青年の意識であり存在である高次元情報体――魂と呼んでいいものが、そこに宿っていた。

 眼を細める由峻の視線の先――いくつもの角が、円環状に生えそろった王冠。

 〈光輝の王〉の能力を観察して、すぐに気付いた。あの王冠状の突起は、賢角人の角と同じく、多機能デバイスとしてそこにあるのだと。

 だから、その方法が取れると判断した。


「驚かないで、くださいね」


 身を乗り出すようにして、両腕で〈光輝の王〉の頭を抱え込む。

 はしたなさに、頬が上気するのがわかった。

 賢角人の身体的特徴は、頭部の角である。由峻のそれは一対二本、見事な三日月型――研磨された宝石のようになめらかな白亜の山羊角だ。

 つま先立ちで互いの顔を近づけ、角をこすりつけるようにして、〈光輝の王〉の側頭部に滑らせていく。彼の持つ異能に反発してか、結晶細胞で構築された山羊角が、静電気を帯びたようにむずかゆい。

 つぅ、と。

 角と巨人の皮膚が触れ合い、ついに王冠へ達した。由峻は首をひねり、自身の山羊角の先端が王冠の突起――彼の角に引っかかるよう首を動かす。

 瞬間、得も言われぬ充足感で胸がいっぱいになった。新たに情報経路を開く――何重にも設けられた防壁を一つ一つ解除し、彼だけに許された入り口を用意。何一つ恐れるものなどないと、微笑みながら〈光輝の王〉の頭を抱きしめる。



――情報接合。



 それは親愛であり、抱擁であり、求愛であり、接吻であり、最愛であり、交尾であり、そのどれとも違う行為だった。

 情報接合はとても歴史の浅い文化だ。

 賢角人という種族がこの世に生まれ落ち、その種族特性が角を介した外界知覚、あるいは超光速通信による情報ネットワークになったことで生まれた愛の表現方法。

 人間は愛の表現方法を多様に持つ種族だ。

 原始的な性行為から、恋文やプロポーズに至るまで、社会と文明の形態に合わせてそのバリエーションは増え続けてきた。

 ならば、新たな身体機能を増設した亜人種が、新しい表現方法を持つのは必然だった。

 超光速通信を常時使用する賢角人にとって、多機能デバイスである角で接触通信をする必然性はほとんどない。

 そこをあえて、意識を司る脳と直結された角を接触させ、肉体と電脳、双方で極限まで距離を詰める――それが情報接合である。

 はぁっ、と熱っぽい吐息。

 呟きは告白にも似ていた。


「――あなたは、わたしのものです」


 互いの角が絡み合う中、剥き出しの意識と意識が触れ合っていく。

 そうして深奥に踏み込んだ――名前さえ忘れてしまったこの人に、すべてを思い出させるために。





 凍えるように寒い、冬の景色だった。

 真っ白な雪があたり一面の氷の上に降り積もり、ガラス板のように透明な氷の中には、赤い彼岸花が閉じ込められていた。

 その中央に、白熱する輝き。子供にも大人にも見える、異様な白い人影がそこにいた。


――慟哭が聞こえた。


 泣いている。

 赤子が産声を上げている。

 この世のすべてに対して、悲しみの涙を流す雷神がいた。


――生まれてはならないものがある。


 あがなう術もない罪がある。

 ありのままの人間を守りたかった。ただ、自分以外のすべての人が幸せであればいいと願った。

 いつか見た夢の欠片が、未だ、胸の中に残っていたから師の教えに従った。

 そうして男は、多くの同胞を手にかけてきた。


 赤子がいた。

 幼子がいた。

 子供がいた。

 少年がいた。

 少女がいた。

 青年がいた。

 父親がいた。

 母親がいた。

 老人がいた。


 未来を求め、幸福を求め、生存を求め、人のかたちから逸脱した超越者の端末たち。

 いずれ来る降臨の先触れたる同胞たち――その真の意味はわからずとも、危険だとわかっていた。

 すべて、殺めることでしか止められなかった。


――許されない罪がある。


 あの日あのとき、誕生の日。

 本当に生まれるべきではなかった鬼子とは、おのれなのだと知りながら。

 戦い続けるために、自身の記憶を改変した――忘却することで暴力装置としての自己を保ち続けた。


――美しいものがある。


 だが、守りたいものは変わってくれない。

 両のまなこに焼き付いた少女の笑顔が忘れられなかった。

 少年らしく新しい恋をして、怪物らしくその日常を終わらせて。

 思い描いた幸せに何度裏切られても、いつか、苦痛や失望に見合うだけの希望へ手が届くと信じてしまう。

 ■■■■■は人間を愛していた。

 この世界が好きだった。

 何もかも憎むには、光り輝いて見える綺麗なものが多すぎた。

 音もなく、涙を流す異形のもの――ぽろぽろと剥がれ落ちていく光の欠片が見えた。彼の人格を形作るのは、どこかの誰かの積み重ねた人生の複写コピーだ。

 それでも。

 雲烟のように霞んで、消えていくものの一つ一つが、とても大切なものなのだとわかった。

 由峻は、こぼれ落ちた欠片を掬い取る。

 温かな光の中に、彼を彼たらしめるものが宿っていた。


――麺料理が好きだ。


 食べていると、しあわせな気がする。この肉体の維持に食事は必要ないけれど、娯楽としての料理が好きになった。

 自分の料理を食べてくれる同居人ができると、ますます作るのも食べるのも好きになった。

 それが人間の真似事だとしても、生じたよろこびに意味はあると思った。


――家族は苦手だった。


 自分のせいで、彼らがしあわせになれなかったのだとわかってしまった。

 それはひどく悲しいことで、みんながしあわせになればいいと思った。



 歩む度に、多くの欠片を拾い集めることができた。こうしている間にも、異能の代償に青年からこぼれ落ちていくもの。

 寒々しい、魂の凍えるような景色だった。

 あるいはすでに、少女が知る男は死んでいて、その亡骸を相手にしているのではないかと思うほどに。

 だが、足を止めることはない。掬い取った欠片――その煌めくような涙を手に、泣き続ける雷神へ歩み寄る。


「あなたの声が、聞こえます」


 恋人を殺し、家族を殺し、異形となり果てた街の住人すべてを殺戮した子供の慟哭が聞こえた。


「あなたの思いが、わかります」


 祈るように、あがなうように、その手を血に染めながら、どこかの誰かの日常が守りたいと願う男がいた。


「あなたの痛みを、感じます」


 自分自身を、この世の誰よりも憎み続ける怪物がいた。

 際限ない悲しみが、彼を規定する呪いだった。

 由峻はそのすべてを知覚していた。理解していた。

 彼が殺めた死者の上に立ちながら、決して埋まらない断絶を噛み締める。

 〈全能体〉のもたらすものは、たしかに救いなのだろう。少なくとも、際限なく同胞を殺め続けた男にとって、それは免罪符になりうるものだ。

 だから、その否定が意味するのは、彼が救われる機会を奪うことと同義だった。


「あなたは、しあわせになりたいだけだった……そうでしょう、塚原ヒフミ」


 なのに、彼の姿は幸福からほど遠い。

 〈光輝の王〉の中核たる輝き――泣き叫ぶ子供のような魂。

 凍えるような冬の景色と裏腹に、燃え上がる太陽に近づくような気分だった。

 〈異形体〉に近い存在として目覚めてなお、由峻とは桁違いの密度を持った情報体――時間と空間を飛び越える超越知性体である。下手に取り込まれれば、今度こそ帰ってこれないだろう。

 それでも。

 拾い集めた情報体の断片を統合、パッケージ化して高次元情報体へと送信。これそのものが、塚原ヒフミのパーソナリティになることはない。だが、その呼び水にはなるはずだった。

 あなたの名前、あなたの記憶、あなたの感情。

 そのすべてが愛おしいものなのだと伝えるために、呪いに塗れた魂に呼びかける。


「……あなたの悪を知りました。わたしにできることは、きっと、そう多くはありません」


 ゆえに。

 導由峻は愛を謳う。




「――ゆるします」




 繋がる中で、多くを知った。

 塚原ヒフミが、導由峻との約束を果たすため、〈光輝の王〉となったこと。

 少女を守るという誓いのため、代償を知ってなお、〈全能体〉のゆりかごを拒絶したことを。


――あの笑顔へ誇れる生き方をしようと決めた。


 そこにあったのは、この世の何よりも由峻を想うヒフミの祈りだった。

 それは一途で、愚かな恋物語だ。


――美しいものに憧れた。

――美しいものに救われた。

――美しいものに恋をした。


 永遠と無限を与えられた命が、たった一人の少女のためにすべてを捧げる献身の愛だった。

 報われることなど何一つ望まぬ姿を、愚かと呼ばずしてなんと呼べばいい。

 わからなかった。

 肉体はおろか精神すら損耗し尽くして、それでもなお、彼はここに来た。神に等しい存在から、由峻を守り通すために。

 全身全霊を賭けた愛に報いる術を、彼女は知らなかった。




「万人があなたを裁こうとも、あなた自身が許せないとしても……あなたの罪業、あなたの存在、あなたの誕生……すべてをわたしが赦します」




 琥珀色の双眸を、涙で濡らしながら。

 少女は誓う。

 これから先、永劫の時間が流れようとも朽ち果てることのない約束を。

 たとえ世界のすべてが敵になろうとも――




――この人を、あいしましょう。









――守りたいものへ手が届くよろこびと、手が届くすべてがいずれ自分へ同化することへの憎悪。



 他者の存在を飲み込み、全なる一へ統合する機構――本来そうあるべきものが、おのれを憎悪したその瞬間から始まった呪い。

 それが〈光輝の王〉を成立させる原初の祈りだった。

 あらゆる人間は、いずれ彼へ合流する。その意味で〈光輝の王〉にとって真の意味での他者はいなかったし、だからこそ救いがなかった。

 だが。



 その少女は違った。

 琥珀色の瞳を持った、黒い髪の乙女。

 手が触れてなお、彼女の肉体が溶けて消えることはない。


 少女の角が王冠と接続された瞬間、彼はすべてを理解した。


 それは巨大な空白だった。

 〈全能体〉がこの宇宙から消し去ろうとしている未知、制御できない可能性事象の集う特異点。結晶細胞という物質態の姿を取り、〈全能体〉を拒むもう一つの超越者。

 破壊することはできるだろう。消滅させることはできるだろう。

 だが、その存在を完全に理解することはできない。同化することも、吸収することもできない絶対的な他者。

 決して手が届かない断絶――そこに、彼女がいた。




――たったそれだけのことに、彼は救われていた。




 この世の誰よりも美しい顔が、はにかむように泣き笑う。

 雪白の頬を、一筋の雫が滴り落ちた。



「――見て。あなたはこんなにも綺麗です」



 流れる星のように、美しい涙を見た。

 そうして彼は思い出す。当たり前のことだから、気付くのが遅れてしまった。












――塚原ヒフミは、この恋のために生まれてきたのだ。











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