33話:一三八億年の恋 前編




 遠く、天蓋のように空を覆う赤黒い積乱雲が見えた。



 巨大な赤子の頭部を象る異形――無数の人の部品と、脳と、意識が溶け合ったそれは、グロテスクな前衛芸術を思わせた。

 人類連合の定義する超常種の分類において、共鳴禍の元凶となる形態――レベル4〈昇華体〉と呼ばれるもの。それが超人災害・東京一号の正体であり、一〇〇年間、〈異形体〉が封じ込めてきた災厄の名であった。


 道ばたに転がる瓦礫の山を通り過ぎ、大気を舞う粉じんを結晶細胞の空間干渉で避けて通る。

 何百年も前の戦争で焼け落ちた城――石垣や水をたたえたお堀だけが当時のもの、天守閣はレプリカだ――を見上げる。一〇年以上も昔、まだ幼い子供だった少女が、どうしようもなく優しくて、悲しい少年に出会った場所。

 あちこちに戦闘の痕跡が残る、無惨な景色だった。植えられた樹木は〈異形体〉による空間破壊時の復元現象、強烈な爆風によって根こそぎへし折れており、レプリカの天守閣も風に巻き上げられた飛来物で破損している。

 それ以上に異様なのは、そこら中に転がる有機体の塊だった。乳白色の果実にも見える、直径六〇センチほどの欠片だ。

 その正体を察しつつ、動態反応、熱源、共にほとんど見受けられないことを確認。

 少女は、艶やかな黒髪を揺らして、あたりを見回して――小高い石垣の傍に、影を認めた。


――彼を見つけるのは簡単だった。


 自らの本質的機能――〈異形体〉と同じモノとして設計された恩恵――に目覚めた導由峻しるべ・ゆしゅんにとって、この都市全域で起きている戦闘行為の把握は用意だった。瞬時に東京一号断片体を破壊する白い巨人――その能力の性質から、一つの答えに辿り着くまで時間は要らなかった。

 超常種には段階がある。変異脳が超常能力の出力に対応したレベル1、より強力な超常能力・遡航再生を発現したレベル2までが大半の超常種であり、圧倒的な出力で物理法則を蹂躙するレベル4以降の形態では個人の人格を保っているかさえ怪しい。

 その中間にある形態がレベル3である。個人としての人格を保ち、桁違いの出力で異能を振るい、遡航再生によって変異脳の欠損すら回復させる超人――彼らの共通項はただ一つ。肉体の喪失を経験した後、再誕した超常種であることだ。

 絶対数が少なすぎるために、希少な同調型超常種と同じく、具体的な臨床実験は為されていないが。

 変異脳を喪失してなお肉体を取り戻した超常種の存在は、従来の定説――超常種は肉体の構成情報を変異脳に保存し、遡航再生時の設計図としているのではないか――では説明できない。

 亡命科学者エティエンヌ=ラキルの提唱した大観測者仮説――すべての超常種には、大本となる動力源/データベースがあり、変異脳はその中継装置に過ぎないとする――を前提に考えれば、レベル3の発生条件は推測できる。

 肉体の喪失後、大本となる存在から分離、自らの意思で肉体を再定義できた個体であること。

 通常、対超常種戦術で変異脳の破壊がセオリーになっているように、すべての超常種が再誕できるわけではない。

 もし、極少数の例外がレベル3への階梯を昇るのであれば。


――ヴァルタン=バベシュによって肉体を破壊された青年が、レベル3に覚醒したのではないか。


 祈るような推測だった。希望的見解にすぎないと理解していた。推測に推測を重ねた不確定要素だらけの予想だ。普段の彼女であれば、検証不足だと眉をしかめていたかもしれない。

 けれど奇妙な確信があった。空っぽの頭蓋骨を剥き出しに、王冠のように変形した突起を晒す異形の人型――何もかもあの青年に似ていないのに、それでも信じられた。

 そこに彼がいるとわかっていた。

 由峻の姿を目にして身じろぎする仕草に、奇妙なほど既視感があった。思わず口の端をつり上げ、微笑んでしまう。


「――塚原さん」


 季節外れの彼岸花が、足下で咲き始めていた。この世ならざる物質態――東京一号から分離した断片体、その残骸が、目の前の巨人の影響で変質しているのだ。もしかしたら、すでに支配下におかれて無力化しているのかもしれない。

 人肉の成れの果て――死人花、地獄花の異名に相応しい、悪夢のような景色だった。

 血のように赤い花々を踏み潰し、少女は歩む。

 臆することなく、怯むことなく、異形の巨人へと近づいた――はぐれた恋人と再会できたとでもいうように。

 ヒールの高いハイブーツは本来、お世辞にも歩きやすい代物ではないが、積雪対策として靴底を加工――センサーと連動して摩擦係数を歩く度に自動調整――しておいたおかげで支障はない。

 綺麗に歩ける――徹底的なリサーチの結果、青年が女性の足に興奮する人種だと把握済み――よう、わざわざ専用のモーションプログラムを用意してデートに臨んだ乙女の心意気は、人類絶滅五分前ドゥームズ・デイのような地獄絵図でも役立っていた。

 彼に駆け寄ってすぐ、由峻は眉をしかめた。

 その異形の姿に、ではない。少なくとも第一世代亜人に襲撃されたおり、ゾンビ映画よろしく戦っていたときの彼の姿よりは見た目がまともだった。

 由峻の美的感覚すらすれば、杯のように空っぽの頭蓋骨はいただけないが、全体の造形はむしろ中性的で美しいと言えよう。

 では、何が問題か。

 その人型は少々、大きすぎた。元々、彼と由峻の間に身長差はほとんどない――青年の方が五センチほど大きいが、賢角人の角を勘定に入れれば少女の方が高い――のだが、王冠の巨人は三メートル近い背丈がある。今の由峻とそれの間には、子供と大人のような身長差が生じていたことになる。

 ゆえにそれは、無意識の一言であった。



「いつから、人を見下ろせるほど偉くなったのですか?」



 沈黙。

 じっと少女を見下ろす巨人に動きはない。思わず加虐嗜好サディズムの片鱗がこぼれたことに、由峻は冷や汗を流した。

 もしや、と思う。王冠の巨人が全くの別人だった場合、どんな顔をすればいいのだろうか。

 尋ね人だった場合の心配はしていなかった。


「……五秒以内に何らかの反応がない場合、わたしはあなたを塚原さんではないと認識しますが、それでもいいのですね?」


 段々と無反応かつ表情が読めない――腹が立つほど見事な彫像のアルカイックスマイル――王冠の巨人に腹が立ってきたので、発した台詞だった。

 変化はすぐにあった。

 不意に、巨人の腕がこちらへ伸ばされる。まるで折れてしまいそうな、野に咲く花に心奪われたとでも言いたげな所作。

 仕方のない人ですね、と微笑んで。

 大きな五本指の手へ、手袋に包まれた自身の掌を重ねて――



 手袋が消失した。



 一瞬の出来事だった。淡い幾何学模様が稲妻のように宙を走り、少女の手を包む繊維を、その質量を丸ごと消し去っていた。

 すぐに原理を推測――遡航再生とまったく逆の手順で、物質の質量そのもののエネルギー変換と吸収を同時に行った――し、おそらくレベル3超常種の生態、半ば自動的な異能行使だと察する。

 わかっている。

 かつて東京一号が〈異形体〉になすすべなく破壊されたように、結晶細胞には同化汚染への耐性がある。その機能を自覚した今の由峻であれば、肉体を消去されることはないはずだ。


 なのに、怖い。


 本能的な恐怖が、指先を震えさせそうになる。結晶細胞による耐性を把握してなお、存在を根こそぎ奪われることへの恐れが勝った。

 頭の中で何度も、冷たい計算がはじき出される。今の彼は触れるものすべてを分解・吸収する超人だ。このまま何の準備もなく接触するなど、リスクばかり背負う行動だった。その危険性やデメリットはいくらでも数えられた。

 加速する思考の中、相手が何十体もの怪物を消滅させてきたのだと認識する。

 ぴたり、と見知った人物と符合が一致した気がした。

 ああ、と溜息が出る。


「……塚原さんは相変わらず、はしたない人ですね」


 こんなにも剣呑で、恐ろしい力の持ち主が他にいるはずがなかった。

 そう理解したとき、自然と微笑みが浮かんでいた。どのみち、自分に二度も三度も同じことができるわけがない。頭上に浮かぶ〈昇華体〉――東京一号は未だ健在で、〈異形体〉トリニティクラスターとの綱引きも続いているのだ。その均衡が崩れれば、北日本居住区は文字通り、終末へと叩き込まれるだろう。

 恐怖はある。

 それでも信じたいと願った――手と手が触れあった瞬間、彼と接続されたのがわかった。賢角人の超空間ネットワークとも似て非なる、独立した高次元情報体へのアクセス。一つの小宇宙へと招き入れられるような感覚があった。


――今ここで逃げるようなら、生きている意味がありません。


 少女の主観が、青年のそれに統合される。一時的な主観の同化――他者である彼を自分自身として認識/理解する唯一の術。かつて幼い由峻が、母シルシュの人格・技能・記憶を継承したときとは違う。

 自我の境界を守りながら、危険を承知で青年の中へ踏み込んだ。





 そこにあったのは、尽きることない悲しみと、ちっぽけなよろこびの連続だった。

 当たり前の情動、彼が過ごした日々の記憶。自身を異形異能と断じた青年にだって、そういう人間性が保証されている――安堵しかけた由峻は、ふと足元に違和感を感じた。彼の人格のさらに基礎、本能や生理反応と呼ぶべき部分を、地層のように視覚化して認識。


――おぞましい。


 鮮血のような赤。

 揺れる花弁。

 そこには、赤い彼岸花が絨毯のように敷き詰められていた。それは、見知らぬ誰かの墓標であり、死人の魂が視覚化された花だ。我がことのように記録された死者の記憶――見渡す限り、地平線の果てにまで咲き誇る彼岸の風景。

 二十数年の人生には不釣り合いなほど多い、葬り去った命の数――そのすべてへのぞっとするような共感だけが転がっていた。身勝手な悪人も、感情移入などする余地がない怪物もいただろう。にもかかわらず、その共感には例外がなかった。

 ありえない。

 如何なる兵士も、如何なる殺人者も、如何なる殺戮者も、どこかで一線を引くのが人間だ。どこかで相手を非人間化する。ものとして扱う。非日常として切り離す。

 先天的に共感能力が欠如した個体もいるだろうが、所詮それも人間のバリエーションの一つだ。非人間化というプロセスなしに、人間は戦い続けられない。同胞殺しが重くのしかかる精神構造が、自滅の防止に役だって進化してきた結果だ。

 そんな当たり前の前提が、同調型超常種にはない。異能行使の際、人間としての人格が認識できていない領域で、彼は対象を理解していた。その人格、記憶、感情の変遷を誰よりも理解しながら――おぞましいほどの共感の中で殺し続けていたのだ。

 〈結線〉で肉体を操る度に、侵食光で断片体を迎撃する度に、敵を記録/理解していた。

 人格・記憶・感情に加えて肉体の自己認識までもパッケージされた情報体。それが超常種の大本が、人類に与える祝福の名だった。宗教用語や形而上学上の存在ではなく、肉体の死後も個人の連続性を保証する不滅のアーキテクチャ――魂と呼ばれるもの。

 その製造・記録・回収のための端末が、青年の存在の前提だ。

 その膨大な情報量によって、二十数年の人生によって作り上げられた人格は軋み、記憶は欠損し始めていた。


――どうして。


 ああ、なんてことだ。

 彼は自分自身の名前すら忘れている。

 由峻は泣きたくなるような悲しみに襲われた。それが名前すら失った青年のものなのか、少女自身に由来するものなのか定かではなかった。

 悲しみを振り払うべく、虫食い穴だらけの記憶をさまよった。

 そして見つけた――彼の中に残る、美しいものの記憶を。


 琥珀色の双眸、艶やかな黒髪、三日月型の山羊角、白いかんばせに浮かぶ微笑み――よく見知った誰かの面影。


 接続を断ち切る。

 重ね合わせた右手はそのままに、王冠の巨人――〈光輝の王〉マルドゥク・アバターを見上げた。琥珀色の瞳を細め、導由峻は顔を歪ませた。


「……わたしの名前も、忘れてしまったのですね」


 それでも、嬉しかった。

 導由峻の姿形が、彼の中に強く刻まれているという事実が愛おしかった。

 不意に〈光輝の王〉が片膝をつき、身をかがめて頭を近づけてきた――まるで少女の肢体を抱き寄せるかのように。

 その動作はまるで、何かから彼女を守るようで。


「塚原さん……?」


 言葉はない。

 そのとき、結晶細胞が震えた。

 都市の中枢にそびえ立つ水晶の巨塔、〈異形体〉トリニティクラスターを構成する一つ、極東クラスターが警鐘を発していた。


――〈導管〉の覚醒を検知。


 押しとどめていた猛獣がその顎を開き、涎を垂らして愛し子にかぶりつこうとしているとでも言いたげな叫び声。

 彼らの言語的表現は、〈異形体〉に限りなく近い思考中枢を持つ由峻の言語野で翻訳され、他の賢角人のハイヴ・ネットワークへ流されている。つまり、真っ先にそのメッセージが届くのは、いつだって彼女だった。

 だから由峻もすぐに理解した。

 これは自分に向けた叫び声なのだと。



――空が、七色の輝きに飲み込まれた。



 間違いはたった一つ。

 〈光輝の王〉に庇われていながら、思わず、彼の背中越しに天空を直視したこと。

 そこには、先ほどまで浮かんでいた東京一号の影はなく、醜悪な人体のパロディも消えていた。その残滓であろう、たなびく雲烟うんえんと――その合間から姿を見せる、七色に輝く巨大な穴。

 代わりにあったのは、恐ろしいまでに美しい球体。

 光り輝く肉の雲を突き破り、虹色の球体が姿を現す。奇妙にたわみ、現実感のない騙し絵のようなそれ――視覚情報では遠近感が掴めず、角を介した探査上では存在しない幻影――は、細胞分裂を始めた受精卵にも、巨人の眼球のようにも見えた。

 わかる。

 わかってしまう。

 それこそが〈異形体〉の恐れた唯一無二の超越者、この星の生命いのちの到達点――全能をうたう大いなるものの一端。


「〈全能体〉……これが?」


 先ほど、青年と繋がったときに知った名を、ぽつりと呟いてしまう。

 結晶細胞が極東クラスターと共鳴し、〈異形体〉の知覚しているものを共有する。七色の球体から流入する、何らかの情報体を探知。

 それが都市の真下、導由峻めがけて降下していることを理解した。

 そう、何もかも遅すぎたのだ。

 雷が落ちたような衝撃。

 白熱する球体が放つ巨大な引力――〈光輝の王〉と繋がるため開いた回路を利用され、抵抗する間もなく意識を奪われる。収穫される。もぎ取られた果実のように、瑞々しい少女の魂――結晶細胞の脳組織で構築された、導由峻の人間としての精神活動を司る領域――は連れ去られていく。

 人類史の最果て、時空を蹂躙して宇宙を飲み込む永遠の楽土に。









 由峻の意識は、今や虚空をさまよう鬼火のようであった。

 少女の精神はそれ単体で独立し、見聞きすることができたが、身動きは自由ではなかった。まるで浮き輪のように、流れに身を任せてたゆたうことしかできない。

 そう、外界は流水に似ていた。

 由峻単体では接続することすら困難な、超高密度の情報体をかき集めた海原だ。この五感を介したような感じ方自体、少女の側か、〈全能体〉の側で最適化した結果なのだろう。

 思考する。

 こうして自分自身の意識を刈り取られてみると、思いのほか、敵の目的もすんなりと理解できた。

 戦闘駆体に残されていた情報から推測するに、ヴァルタン=バベシュの思惑は、〈全能体〉にすべての人間の意識体を回収させることだ。超人災害による人体の変異は、その過程で起きる副産物に過ぎない。

 全身が結晶細胞――汚染に強い耐性を持つ、〈異形体〉の高次元結晶体で構築されている由峻ならば、共鳴禍の犠牲者たちのように肉体が崩れ去ることはあるまい。

 我ながら、もう少し取り乱しても良さそうなものだが、こればかりは性分だ。本当に絶望的なとき、感情的になったときほど、頭が冷えていく。


 一体どれほどの時間、そうしていたろうか。

 時間感覚が意味をなすかさえ怪しい〈全能体〉の内部で、少女は夢へ誘われていた。


 数多の光が宇宙へこぎ出し、行く先々の星々から収奪し、作り替え、植民していく壮大な未来史の一端――総集編映画のように切り取られた様々な黄金時代の景色。

 数百億にまで増えた人類の輝きだ。

 幸福があった。

 産み増えて、いくつものを恋が生まれ、独り立ちして旅立っていく我が子を見送る夫婦がいた。

 繁栄があった。

 古めかしい婚姻制度に頼らず、工場で調整され、生まれる子供たちがいた。純然たる社会の要請で生まれてきた彼らは、それと気付かぬうちに最適な形で消費され、次世代に同じシステムを引き継がせていった。

 革新があった。

 別の銀河へこぎ出すため、電脳化された意識を超光速波で送り出す種族がいた。彼らの支配によって巨大な帝国が築かれつつあった。

 しかし、その黄金時代の終わりもまた早かった。

 星が砕け散る。

 地球型惑星の地殻を粉砕し、星をバラバラにするほどのエネルギーが虐殺に利用された。

 先進的テクノロジーを持ちながら、ついに資源の奪い合いという構図から抜け出せなかった人類の末路は、馬鹿馬鹿しい規模の殺し合いであった。

 人類初の恒星間戦争は、止めどころもわからぬまま、膨大な量の資源を消費し、開拓地を消失させ、おびただしい人命とテクノロジーを失うだけの結末に終わった。

 そうして数百年の年月が無為に消えた。

 生き残った人々が必死に文明を立て直そうとしたのもつかの間、終わりは銀河規模の災害として訪れた。

 ありえないほどに大規模な、ガンマ線バーストの嵐――凄まじい量のガンマ線とニュートリノ束が長時間にわたって放射され、まるで閃光のように、その射線上に存在した星々を飲み込んだ。それは史上類を見ない破壊であり、災厄であった。大気層を瞬時に破壊し、殺人的放射線の洗礼で、有機的身体を持っていた大半の人類は即死。

 強固な分子構造を破壊し尽くすニュートリノ束は、あらゆる機械装置のハードウェアを機能不全に陥らせ、運良く生き残った一部を除いて、文明活動の産物をがらくたに変えていった。

 そうして、地球を起源とする霊長類ホモ・サピエンスの歴史は、暗黒時代へと転落した。

 だが、終わってはいなかった――生き延びた文明の残滓があり、わずかな生存者がいた。

 苦しみに満ちた生を、何の意味もなく歩み続け、死に絶える。


――〈全能体〉の集積した可能性事象、人類の終末の一つ。


 彼は到達者であった。

 彼は簒奪者であった。

 彼は模倣者であった。



 それは数多の人類史の最果て――どんな機械知性よりも長く、宇宙の終焉まで生き延びた人類の子孫を発端とする祈りだ。



 ある国が衰えるとき、ある国が栄える。

 終わりが見えない戦禍があるとき、当たり前のような平和がある。

 陵辱の末にはらわたを引きずり出される男女がいるとき、愛を交わし睦言をささやく男女がいる。

 産婆の手で生まれてすぐ川に沈められる赤子がいるとき、清潔な病院で誕生を祝福される赤子がいる。


 人間世界を満たす苦痛の総量は、歓喜のそれを常に凌駕する。

 苦しみこそが生命の常態であり、よろこびとはひとときの例外に過ぎない。あらゆる有形無形の資源は有限に縛られており、それを必要とする存在もまた有限を前提にしたアーキテクチャなのだ。

 それは世界史、あるいは人類史という尺度から見れば、些細な誤差に過ぎないものだが。

 ゆえに人間は、個の苦しみを取りこぼし続ける。

 意味を求め、価値を求め、物語を求め、それを人生/世界の存在意義と認識する獣――人類はとうとう、宗教に代わる根源的な苦痛への回答を発明できなかった種族だ。啓蒙の時代が訪れようと、産業の革命が起きようと、社会が情報にあふれようと、苦痛に対する処方は娯楽であり、阿片であり、信仰の言い換えでしかなかった。


 人間性とは、肉体機能への解釈である。

 人の情動は、常にその系譜の生存を担保してきた。産み増やす営為に付随して、愛情の概念が発明されたように。つがいを守り、同胞のため戦うという、群れにとって有益な習性を後押しする機能が爆発的に普及した。

 それが内分泌系に支配された生物機械の生理作用なのだと理解していても、抗うことは許されないのだ。

 最も尊いとされる社会通念すら、有用な機能に対して後付けされたものに過ぎない。

 我思う、ゆえ我にあり――されど人間に魂はない。自我を、思考を、感情を駆動させる筐体ハードウェアなしに、意識ソフトウェアは生起しない。

 ゆえに、永遠不変の保存媒体を、魂を付与する救いが必要だった――そうでなくては、人間は悲しすぎる生き物だ。

 息絶える刹那に、尊厳なく死ぬことを認める獣であっていいはずがない。

 〈全能体〉はそんな、切なる願いを叶えるため生まれた。


 人間は素晴らしい。

 たったそれだけの人間賛歌を謳うために、一三八億年の宇宙史すら遡り、時間と空間を支配する救済機構。

 この宇宙が停滞し、ありとあらゆる物質が終末を迎えようとも、次なる宇宙を創生して紡がれる人類だけの楽園――壮大な夢物語を現実とするため、あらゆる可能性事象を収集する自動機械だ。



 そこでようやく、由峻はおのれを取り戻した。

 感覚が奪われ、思考そのものを追体験させられた。無機質で、それでいて切実なる願い――人間の不完全性への救済――あるいは由峻が、ヴァルタン=バベシュへ言い放った啖呵にも似たアプローチ。肉体に付随して生まれる欠陥を、補填するための機能付与。理不尽を踏破するために、世界を蹂躙せんとするありよう。

 その方法論そのものは、理に叶っている。


――ですが。


 思考が途切れる。新たな流れが、由峻の意識を引きずり込む。時間を超えて、空間を超えて、過去/未来の景色へと誘われた。

 光芒のごとく景色が流れ、ありとあらゆる場所に遍在する〈全能体〉の目へと接続されるのがわかった。




 そこは荒野だった。遠く、水晶で出来た塔のような〈異形体〉が林立する大平原――ひっきりなしに無人攻撃機ドローンが飛び交う空の下を、浮動戦車フロートタンクの大部隊が進撃していた。それに付き従って、歪な人型の動力鎧が護衛として付随。

 彼方から飛来する影――数十人分の人影が、数百メートルの距離を跳躍してきたのだ。砲塔上部の自動迎撃装置が、随伴歩兵たる軍用外骨格が対空砲火を放つも、ほとんど効果はない。

 敵は亜人種――戦いのため生み出された〈異形体〉の尖兵、機甲戦力と渡り合う動物兵器だ。

 二足歩行で戦場を駆ける軍用外骨格が、友軍の主力戦車に張り付こうとした亜人を弾き飛ばす。第一世代の狩猫人しゅびょうじん――身体能力の増強に優れた獣頭人身は、折れた右手を即座に再生させ着地。その手に携えた棍棒を一息に振り下ろすと、重力波のハンマーが撃ち放たれた。空間を歪曲させる一撃の前に、軍用外骨格は丸ごとねじ切られ、浮動戦車の砲塔が軋みながら歪んでいく。

 よろこびの咆哮も束の間、上空を旋回していた無人攻撃機の爆撃が、半壊した戦車諸共、その亜人を吹き飛ばした。

 戦意高揚のプロパガンダ放送が聞こえた。


『――同胞たちよ、祖国を取り戻せ! 忌まわしい亜人種を駆逐し、我らは再び故郷の土を踏むのだ!』


 降り注ぐ砲弾が炸裂し、その爆音と閃光が、由峻の意識を弾き飛ばすのがわかった。




 樹木が群生する熱帯林を、途方もなく大きな獣が踏み潰していた。

 我が物顔で屍肉を食い千切っていた肉食恐竜を、天を突くような巨体から伸ばされた指が、豆粒でもつまむように掴み取っていた。地上数百メートルの高さにまで持ち上げられた恐竜は、恐慌状態に陥り、じたばたと藻掻いていたが、一秒後、分子結合を破壊され塵となって地面に落下した。

 異教の神像としか呼びようのない、無数の手足を持った獣が光り輝くと同時に、周囲の生態系は跡形もなく熱波に包み込まれていた――




 そこは青い水平線が広がる海原だった。

 不意に海面が割れて、巨大な鉄くずが姿を現した――滝のように海水を吐き出しながら、空母だったものが浮かび上がる。

 続いて、何百人もの死体の群れが、自分たちの家を囲むように空母の残骸の周りで踊り始めた。

 奇妙なことにそれらの死骸は、海洋生物に囓られた傷口一つなく、つい先ほど死んだばかりのように綺麗な状態だった。いっそ楽しげな死後の舞踏会といった趣――そのすべての首の骨が、無造作にへし折られている以外は。

 空母だったものの看板の上で、その光景を満足げに見守る男がいた。




 暗い都市の地通路を、懸命に走る人影があった。

 由峻より四、五歳は幼い少女だ。プラチナブロンドの頭髪にアイスブルーの碧眼、加えて眉目秀麗な顔立ちは、彼女に約束された美貌を物語っていた――その相貌が恐怖で歪んでいなければ、さぞ見目麗しいことだろう。

 しきりに背後を振り返り、怯えながら走り続ける姿は、逃げ惑う小動物を思わせた。年若い狩猫人しゅびょうじんを追いかけるようにして、音もなく、無数の人影が追跡している。

 軍に関わっていたことのある由峻には、彼らが日本軍の一部隊なのだと識別できた。

 遠からず、少女の逃亡劇は終わるだろう――




 廃墟の街があった。

 血を流しながら、何者かに銃口を向ける男がいた。

 身長一九〇センチ以上はあろう巨漢は重傷を負っていた。腹部と背中からの出血――唇からは血の気が失せていたが、その眼光はぎらぎらと鋭い。失われていく生命と熱をものともせず、その表情は力強かった。

 彫りの深い顔立ちに、ありったけの怒りをにじませて。


「俺は、人間で十分だッ!」


 視線の先にいる何者かに、啖呵を切った。




 天上に都があった。

 地上から二万メートルの高みに作られた空中都市は、桁違いに巨大な質量を重力制御機関で浮かべた異種起源テクノロジーの産物だ。その中でも一際、巨大な島――第六管区と呼ばれるエリアにしつらえられた造船所は、海ではなく空を航行する艦艇のために設けられている。

 大気を震わせて、ドックから飛び立とうとしているのは、歴史を変える存在だった。

 浮き上がる巨影――それは最早、艦船というよりも小島と呼ぶべき威容を誇っていた。全幅だけで数千メートルはあろう巨体を浮動させているのは、特大の重力制御機関。任意の方向に「落下する」ことで飛翔するその船体は、空間そのものを歪める重力防壁によって守られている。

 国家を焼き、国境を消し飛ばし、何千万、何億という命を奪うであろう恐怖の具現――その巨体にどれだけの災厄を積み込んだかも知れぬ、異種起源テクノロジーによって作られた戦船だ。

 黒い長髪をたなびかせて、それを見上げる女がいた。気圧、日光を最適化された展望台に、護衛の一つもつけずに佇んでいる。雪のように白い肌と、一対二本の山羊角を生やした賢角人――その顔立ちは由峻がよく見知ったものに瓜二つだった。

 にもかかわらず、由峻はその女へまったく親しみを感じなかった。

 客観的に見ても、完成された美貌と呼んで差し支えない容姿。そこに浮かぶ微笑が、どこまでも暗く、悪意に満ちていたからだ。

 嘲笑の色――切れ長の両目の奥に、底なしの憎悪をたたえた琥珀色の双眸そうぼうが宿っていた。

 ぎらぎらと輝いていながら、暗闇を思わせるどす黒い意思の光。


「ああ、もうそんな時期ですか」


 芝居がかった様子で女が視線をずらす。

 目があった。その視線の先にあるもの――由峻の意識/〈全能体〉の目がそこにあるとわかっている表情だった。


「何を願おうと、祈ろうと、いずれ理解することです。この世には、許されざる悪があります」


 理解する。

 この女は、確信犯的に厄災を作り上げたのだ。

 由峻がこの状況を理解するよりも早く、それはやってきた。

 奇妙な足音。こつこつ、こつこつ。硬いブーツが立てる特徴的な異音がした。

 つまらなそうで表情で、女はその足音の主へ振り返った。


「何を恐れるのです? すべて、あなた方の始めた茶番でしょうに」

「そうだね。だから、あたしが殺してあげる。それが、あたしの責任だ」


 音を立て変形、人型を捨てていく小柄な女――超常種でありながら救済を拒むそれは、燃え上がる天使に似ていた。

 彼女の膨大な熱量を引き出す異能の行使が、〈全能体〉の視界を遮った。観測行為に費やされていた系が丸ごと乗っ取られ、遡航再生に必要な質量と熱量を充填する経路に転用される。

 視覚・聴覚・嗅覚からなる観測機能にエラーが発生。


「この世のどこにも、救われなければいけない生命なんてないんだよ」


 悲しげな声と、破壊された大気のイオン臭。

 それまで鮮明に像を結んでいた視覚がぼやけ、音が途切れ途切れになり、においが消え失せる。


――時空間観測経路の再接続失敗、意識体の再転送を開始。


 そうして接続を断たれた意識が、巨大な引力に捕捉される。あるはずもない息苦しさを覚えたが、今の由峻に抵抗の余地などなかった。巨人の手に捕まって、握りつぶされないことを祈り、振り回されているようなものだった。

 最後に感じたのは、言語であり思念であり感情である何者かの呪詛だった。



――わたしは呪う。あなた方の愚劣さがもたらす結末を。



 永劫に続くようにも思えた、まぼろしの終わりは唐突だった。



――戻るんだ。



 懐かしい青年の声が聞こえた。

 幻影が途切れ、代わりに、優しく手を引かれるような感覚。おっかなびっくり握った、大好きな人の手の感触だ。

 優しさも、安らぎも、苦しみも、由峻を由峻たらしめるものすべてを守ろうとするぬくもり。

 押し寄せる情報の津波も、もう怖くはなかった。眩い雷の一撃が、少女の魂を〈全能体〉から引きはがし――




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