32話:百億の悪と千億の夢





――救われねばならない。



 赤子の産声が聞こえた。

 新たな敵の発生を意味する音。

 凄まじい衝撃波と共に、都市のはるか頭上、うごめく肉の雲塊から一つの影が落下する――それはこの世ならざる異形の人型。身長三メートル近く、王冠のように変形した空っぽの頭蓋骨はホモ・サピエンスのものではあり得ない。

 空ろな頭蓋骨の中で弾ける光こそは、超常種の本質たる高次元情報体。

 彼の名は〈光輝の王〉マルドゥク・アバター。同調型超常種のレベル3、超常能力の行使に最適化された超越者であった。

 彼を弾き飛ばしたもの――高温の水蒸気を上げながら飛来する無数の影――まるで鎌首をもたげた多頭蛇。細長く伸びた蛇体をしならせ、地上へ自由落下する〈光輝の王〉を追う姿は、さながら竜の群れである。


 しかし、それは竜にあらず。蛇体にあらず。


 竜頭の代わりにあるものは、人間の手。手首から指先までの長さが、一メートル以上はあろうかという大量の〈腕〉が、文字通り、雨のように押し寄せてくる。

 我が子をかき抱く太母グレートマザーの〈腕〉――魂の一欠片までも連れ去ろうとするかのような、数十万トンの質量が襲い来る。

 しわ一つないなめらかな肌の、美しい女の手だった。産毛一つない、整った造型は、どこか可憐さすら感じさせる――それが数万本、爆発的に増殖・成長を遂げていなければ。〈腕〉は際限なく関節を増やし、すでに七千メートル以上も延長され続けていた。

 〈光輝の王〉と同じく、この世ならざる物質態の証。

 自由落下する白亜の巨人――〈光輝の王〉が、帯電した右腕を一薙ぎ。その身からあふれ出す雷が、実際の腕よりもはるかに長い範囲をなぎ払った。

 雷撃の雨――〈光輝の王〉の抱える膨大なエネルギーの一部から生じた放電だが、地球上で生じる自然現象と比して桁違いの出力だ。

 幾条もの雷が迸り、彼へ襲いかかる〈腕〉へと着弾。

 大気が爆ぜる音。

 焼け焦げ、千切れ飛ぶ肉片。

 眼下への都市へと血液の雨を降らせる肉塊――東京一号から分離した断片体の動きが止まる。

 だが、それだけだ。

 引きちぎれた腕の欠片が、その質量を増しながら再生――種子の発芽の映像を、早回しで見ているかのような不気味さ。

 わずかでも、時間が稼げればそれでいい。

 落下する躰が地表まで五〇〇メートルを切る。

 そのとき見計らったように、〈光輝の王〉の背中から、突起がせり上がる。脊柱から伸びた突起は瞬く間にその体積を増して、二対四本、平べったい帯状の翼へと収斂。

 重力制御機関の発生――高密度情報体である光の脳は、超常種各々の機能特性を模倣――させ、硬度を保ちながら飛翔を開始。重力波推進による加速により、瞬く間に音速を超えた巨人へ、〈腕〉の津波が追いすがる。

 すでに、〈光輝の王〉と肉塊の距離はほとんどない。高速飛行の最中、追いすがる〈腕〉との距離は五〇〇メートルもあるまい。先ほどにも増して、本数を増やした腕の密度は凄まじい。


 ビル街を盾にするように旋回――都市商業区の摩天楼を盾にする。成長型建材を用いられ、堅牢な構造を持つ高層ビルだ。その影に潜り込むようにして、地面スレスレの低空飛行に切り替えた。あちこちに散乱する自動車の真上を、掠りそうなほどの距離で飛ぶ。

 元より、隠れられるなどとは思っていない。

 彼らの本質は、遡航再生に支えられた圧倒的な不死性にある。物質態の核となる変異脳の位置を掴まなければ、〈腕〉の完全破壊など不可能だ。

 ほんの数秒、解析に要する時間があればよかった。


――〈結線〉接続開始。


 煌めく巨人の背後、林立するビル群が、砂の城のように崩れていく。

 〈腕〉に触れられた瞬間、その外壁がさらさらと崩れ、粒子状の物質へ変換されていた。続いて内装が崩れ、その自重を支えるビルの骨組みが、瞬く間に塵に還りながら倒壊――地上二〇〇メートルの高さから、塵の山を滝のようにぶちまける。

 触れた物質の分子結合を破壊、吸収する〈腕〉の群れ。

 接触と同時に、対象の完全なる物理破壊を可能とする特性――〈光輝の王〉といえど、一度捕まれば遡航再生を上回る速度で破壊され続けるのは必定。


――UHMAの通信を傍受。


 その権能により、あらゆる通信システムに接続された〈光輝の王〉は、すぐに敵の名前を理解した。

 曰く――東京一号より新たな集合型変異脳を確認。以後、これを〈ヒュドラ〉と呼称する。

 曰く――現在、敵性目標と交戦中の対策官二名の援護を最優先事項とする。

 どうやら彼は、超人災害対策官・塚■■フミとして認識されているらしかった。


――解析完了。


 断片体〈ヒュドラ〉――無数の変異脳を身に宿した〈腕〉の怪物。

 全身の細胞に極小の変異脳を持った異形――すなわち、その構成部位すべてが弱点にして本体。

 一欠片でも細胞片が残っていれば、爆発的な遡航再生によってその質量を復元する――ゆえに破壊は不可能。熱核兵器の直撃であろうと、爆心地以外にわずかでも細胞片があれば、そこから瞬時に再生しうる不滅の怪物だ。

 だが、〈光輝の王〉は人ではない。

 すべての時間と空間を掌握せんとする機構、〈全能体〉の本質に近しい中枢端末である。

 〈光輝の王〉の空ろな頭蓋からあふれ出した光が、その右腕に集束、煌めく〈弓〉を形作る。

 一閃。

 光条が走る。

 撃ち上げられた稲光が、上空で膨張、すでに半径三〇〇〇メートルを覆い尽くそうとしていた〈腕〉の密林に直撃。

 瞬間、奇妙な幾何学模様が走る――物質分解に伴うエネルギーの捕食――〈光輝の王〉の唯一にして絶対の権能、〈結線〉の行き着くかたち。

 時間と空間を飛び越えて、光より速く、あまねく事象を昇華する侵食光である。

 幾何学模様が〈腕〉の群れを飲み込むのに二秒も要らなかった。

 質量すべてを分解され、〈ヒュドラ〉を構築する全細胞が消失――あっけない幕切れであった。


――まだ来るか。


 続けざま、上空の赤黒い入道雲――東京一号物質態から剥離した断片が、ぽろぽろと落ちてくる。

 たった今、確認できただけで二〇体以上。

 すべて撃墜すればいい。

 右腕に展開した〈弓〉を掲げ、超光速の侵食光を撃ち放つ。

 空に煌めく幾何学模様――鈍色の冬の雲は吹き飛ばされ、この世ならざる怪物たちの産声だけが、クリスマスの北日本居住区を満たしている。

 ああ、何故、まだ生まれようとする。


――ただ、悲しかった。


 生命は、苦しみの中にある。

 それは宿命、知性を捨てようと逃れられぬ絶望である。この星の大気組成が変わり、猛毒たる酸素――酸化作用によって万物を劣化させる――にあふれたそのときすら、生命はその環境に適応しようとした。毒を活力とする存在へと、数多の屍を積み重ねながら進み続けた。

 その末裔の一つが人類である。

 人間は生きるため酸素を欲していた。筋肉を駆動させるために、臓器を機能させるために、おのれの細胞を劣化させながら走り続ける。その果てが、不可逆の停止状態――死であろうとも、それ自体を受け入れて生きるほかないのだ。

 逃れられぬ定めを前に、何故、どうしてと嘆くものを、人は愚者と語り継ぐ。

 ゆえに、〈光輝の王〉は涙を流す。

 自らの存在が、かつて憧れた有限の命を未来永劫、貶めると悟ってしまう。不老不死が、永遠不変が、さしたる代償もないものだと実証されたそのときから――人間の生は、苦しみと再定義される。


――そんなわけがあるか。


 青年の残滓が思考する。

 塚■■フ■だったものは、どこまでも異形を憎悪する。たとえ自身の存在起点が、尽きることない人間否定だとしても。


 歌が聞こえるのだ。


 〈全能体〉より剥がれ落ちた断片――〈光輝の王〉は、あらゆる時代の、あらゆる人の終わりを見る。

 それは断末魔の悲鳴であり、それゆえに彼らへ連なる人の切なる祈り。


 男が死ぬ。

 ありふれた闘争があった。正義があった。石つぶてが飛び交い、矢の雨が肉を穿ち、刃がはらわたを切り裂いた。ごぽごぽと血の泡を吹きながら、腸管をぶらさげて男は息絶えた。


 女が死ぬ。

 耐え難い陵辱があった。暴力があった。人間が持つ当たり前の獣性が、彼女の顔面を殴り壊し、性器をずたずたに引き裂き、喉を締め上げて殺そうとしていた。


 赤子が死ぬ。

 楽しげな虐殺があった。略奪があった。足を掴まれ、頭から地面に叩き付けられる幼児がいた。山刀で何度も斬りつけられ、首を刎ねられた母子がゴミのように転がっている。


 子供が死ぬ。

 些細な不幸があった。事故があった。へし折れた幼子の首が元に戻ることはなく、ひしゃげた頭蓋骨の中身に魂などない。野垂れ死んだ獣と大差ない死骸が残るだけだ。


 老人が死ぬ。

 避けられぬ老衰があった。終末があった。衰えた呼吸器が機能不全を起こし、陸上で窒息する。緩んだ排泄器官が汚物を垂れ流し、息が出来ない苦しみに思考すべてを奪われて数十年の人生が終わる。


 すべて、人間のあるべき終わりである。

 生命はいつか、終わりを迎えるものであり、そのありようには善悪も是非もなかった。

 美しいものだけですべてを評価することが出来ないように、ことさらに無惨な光景を以て、人間の価値を推し量ることも出来ない。どれほど多くの、積み重なった死骸があろうとも。


 だが。

 死にたくないという願いは、あらゆる時代の、あらゆる人に共通する祈りであった。

 〈全能体〉を駆動させる根本原理。

 人間賛歌としての人体否定、ホモ・サピエンスという種を終わらせる願い。


――有限の肯定とは、死から逃れられぬ命の詭弁である。


 大いなるものの声。

 生命活動とは、それ自体が必要悪に過ぎないと断じる――数多の信仰が謳う死後の世界、天上世界、苦しみなき楽土――すべてはここにあるのだと。

 最早、本能のごとく自己を侵す言葉。

 絶えず流れ込む情報に思考を焼かれながら、〈光輝の王〉は同胞を殺す。

 無数の脳を孕んだ妊婦の群体を消滅させ、分裂を繰り返す脳のない赤子を消し飛ばし、五体にまとわりつく腸管の触手を焼き焦がす。

 左腕に発生させた重力メイスの一撃で、泣き叫ぶ心臓を吹き飛ばした――瞬間、見知らぬ/よく知る誰かの声が聞こえた。



――たとえ無垢なる命を礎にした平和であろうと、救われたものを否定はすまい。


――すまない、すまない、すまない……私は、愛しいおまえクスーシャを、救えなかった……!


――これが、こんなものが、あなた方の結末だというのならば。



 それは過去/未来で、誰かが零した言葉。

 現在の彼には理解できないけれど、いつか、その意味を知るときがやってくる祈りだ。

 思い出す。

 あの日、あのとき――何万もの人間を、家族を、恋人を皆殺しにしたあと。

 少年を引き取った獣頭の亜人、イオナ=イノウエの最初の忠告。


――君がその力を本当に必要とするとき、君を君たらしめるものはその負荷に耐えられないだろう。


 ああ、きっと先生は知っていた。

 いつか、自分の弟子が、そうなってしまうことを。


――そのときが来たら。後悔のない選択をしたまえ、■■■。


 ゆえに。

 〈光輝の王〉は殺戮を続ける。

 同胞を塵も残さず消滅させ、雲烟うんえんの魂の中、それでも譲れない悲しみを胸に抱くと決めた。

 空を仰ぐ。

 まるで雪が降るように、光り輝く肉塊の粒が落ちてくる。

 空から降り注ぐ種子は、人の祈りのカリカチュア。

 息絶えた赤子の骸が、朽ちていった母親の肉が、倒れていった男の血が、そうなりたくはなかったと叫んでいる。

 死にたくない、と。

 あまりに原始的で、それゆえに否定しがたい願望から受肉した怪物たち。


――お前たちは、生きていてはいけない。


 積み重ねられた死骸の山を、巨人の足が踏みにじる。

 たなびく雲のように薄れていく記憶は、人格は、誰のものだったのか。

 ああ、この身が朽ちる前に。


――約束を、果たそう。









 いつも、いつも、いつも。

 アクサナの意識は、大きなものと繋がっている。


 夢を見ていた。


 悲しい夢だ。

 人間が大好きなくせに、決してそうなれないと知っている神の物語。

 アクサナが大嫌いな、陳腐でありきたりで悲しい結末だから胸に残るような話だ。

 なのに、それはどこか懐かしくて。


 ぱっちりした両目は今、ようやく目蓋を開いたところだった。

 アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは美しい少女である。白い肌に青いの瞳、すっと通った鼻梁に、プラチナブロンドの頭髪。絵に描いたような銀髪碧眼、雪深い地のコーカソイドの血を感じさせる美貌である。

 眠たげな上に不機嫌そうな顔――本人も自分が可愛いと確信しているが、優先事項が低いのでひけらかすほどではない、というような趣。

 第二世代亜人種の証である、猫のような耳と尻尾は、好きこのんで身につけたものではない。

 周囲を見渡すと、見慣れた自宅ではなかった。

 白っぽい内装、広い天上、奥行きも十分な集団用地下シェルターの一角――配給の毛布にくるまっていたところ、うたた寝していたらしい。

 クリスマスシーズンに発令された超人災害警報に従い、シェルターに避難してきた人々が行列を作っていた。この都市・空ヶ島には至る所に同様の施設があるものの、元々、都市化の進んだ北日本居住区の人口密度は高い。

 アクサナが駆け込んだのは自宅付近の施設だったためか、住宅街の家族連れが多く見受けられた。朝からヒフミが仕事に出かけているから、アクサナは一人きりだ。

 こうして大勢の人の間にいると、寂しくなるからいやだった。

 自室で一人なのは、別にいいのだ。

 遠い昔からずっと、彼女はそうして過ごしてきたから。


――人混みにいるの、ヒフミと一緒が当たり前になってたんだ。


 彼女の保護者、塚原ヒフミは治安機関のエージェントをしている、らしい。その縁でアクサナを引き取ったらしく、戸籍がない少女一人のためにずいぶん関係各所に掛け合っていたのだと、後に彼の友人から聞いた。

 ヒフミはその仕事柄、数日間、家に帰らないことはままあったが、家事はホームヘルパーがしてくれるし、割りと小まめに連絡をよこしてくる男であった。

 まとまった休日を取ることもよくあったので、そこまで家に一人という感覚はなかった。

 だが、アクサナは塚原ヒフミという男について、ほとんどの事情を知らない。

 見知らぬ世界すべてに怯えていたころのアクサナは、踏み込んだことを聞いて怒らせるのが怖かったし、見捨てられて適当な施設に預けられるのはもっといやだった。

 ある程度の信頼関係を築いたあとは、そんな恐怖はなくなったのだけれど。

 そうなると、わざわざ尋ねたいような事柄でもないから、ずるずると日常を続けて今日に至っていた。

 少女と青年の関係の前提には、そういう、どこか他人行儀な振る舞いを心地よいと思うような距離感があった。


 何をするでもなく、壁により掛かってぼーっとしていると、見知った顔を見つけた。

 学校の友人であった。どうやら家族と一緒に避難してきたらしく、父母と思しき男女と一緒に歩いている。

 アンチエイジングが徐々に普及している世相だから、見た目で年齢が判別しづらいのが、感覚だけは二一世紀のそれを引きずっているアクサナには辛い。

 割りと気むずかしい部類であるアクサナにしては珍しく――二二世紀で復活する前の記憶では、そもそも友達を作る前に死んでいる――気が合う学友を目にして、アクサナはとある失敗に気付いた。

 自分の服装である。

 着の身着のままで避難してきたから、今のアクサナの恰好はおおよそオシャレという単語からほど遠い。

 部屋着のズボンをスパイク付きブーツに押し込み、分厚いダウンジャケットを羽織ってきた少女の衣装は、ものすごく野暮ったいのだ。

 尤も、その整った顔の造形と華奢な体つきが、大概の野暮ったさを帳消しにしているのだが。


――何か、屈辱的だなあ!


 考えすぎである。

 自意識過剰である。

 アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは思春期真っ盛りの一四歳だった。

 間もなく、向こうもこちらの存在に気がついた。屈んで、体育座りしているアクサナと目線を合わせてくる。


「あれ、くすーしゃー。こっちに来てたんだ」


 舌っ足らずな発音は、少女――ユウリの悩みの種である。亜人種の父親と人間の母親の間に生まれた彼女は、四本の角を持つ賢角人である。

 四本角クアッドホーンズはそこそこ珍しいらしく、何かとユウリが自慢にしているものだった。

 第二世代亜人種の例に漏れず、可愛らしい容姿をしていた――そのように設計されているのだ。


「今日は家で寝てるつもりだったから、さ。家の人と一緒に来たの?」

「まあねー」


 言ってから、やぶ蛇だと気付いた。こんな尋ね方をしては、相手に聞き返してくれと言っているようなものではないか。

 アクサナはプライドが無意味に高い子供なので、家人が仕事でいないので一人です、と事情を説明するのすら億劫だった。

 ユウリは無慈悲だった。


「そっちは……あーうん、お兄さんは仕事でいないから一人寂しく避難してきたんだ? えらいえらい」

「バカにしてるよね、今すっごく、ぼくをバカにしてるよね」

「大変だねーとか、かわいそうーって言うと、くすーしゃ怒るよね。めんどくさい」

「はぁ!?」


 図星だった。

 ぬっはっはと曖昧に笑って誤魔化すユウリを見ていると、激しかけた毒気も抜かれるのだから大したものだ。

 溜息、一つ。

 ふと、奇妙なことに気がついた。

 突然の警報発令と避難だというのに、驚くぐらい、シェルターの雰囲気が穏やかなのだ。

 アクサナの周りだけではない――本当ならもっとぴりぴりしたり、不安が渦巻いていてもよさそうなのに。

 よく観察していると、人の輪のどこかにいる亜人種が、それぞれの共同体の空気を、優しいものに誘導しているらしいと察しがついた。

 誰かの家族であり、友人であり、配偶者である亜人種たちが、シェルターの中の平穏を保たせているのだ。

 ほとんど無意識の言動なのだろう。

 倫理励起基準というものがある。第二世代亜人種に生まれつき、埋め込まれている行動規範のことだ。噛み砕いて言えば、道徳観念のようなものなのだと彼女の保護者――いつも少女を泣かせる悪い奴だ――は解説していた。

 人に親切にするとか、落ち着いて冷静に考えるとか、集団心理に流されないとか――口で言えば簡単だが、実践するのは大変な「良心的な行動」を促すもの、らしい。

 肉体こそ亜人種だが、脳だけは超常種に近いアクサナには適用されていないので、今一、ぴんと来なかったが。


――これが、そうなんだ。


 亜人たちが示し合わせているわけではない。一人一人が、自分の周囲の人間を、それとなく落ち着かせているだけだ。

 けれど。

 全体を俯瞰ふかんしたとき、浮かぶ上がるのは底なしの不気味さだった。

 そんな風にひねくれた目線で、人の親切を見ているのは自分だけらしいと気付いて、アクサナはますます落ち込んだ。

 こんな性格だから、取り乱してヒフミにひどいことを言ったりしてしまうのだろう。


「大丈夫だよ、くすーしゃ。一〇〇年前の超人災害だって、〈異形体〉が何とかしたんだから」


 その様子を不安に駆られていると受け取ったのか、励ますようにユウリが言う。

 今度こそ、底知れない違和感がアクサナを襲った。

 かつて二〇億の人類を虐殺し、その後の〈ダウンフォール〉でさらに多くの人命と文明を喪失させた来訪者たち――〈異形体〉を、どういうわけか信頼している言葉。

 彼らの来訪以前に生まれ、死んだ記憶を持つアクサナには理解しがたい感性である。

 二一世紀の大虐殺も、文明の後退も、その後の植民地化も、何一つ隠されずに歴史書に載っている事実だ。

 二一世紀からの異邦人であるアクサナが拍子抜けするほど、歴史の教科書にきっちり記載されている。


 過激派と共生派に二分された〈異形体〉同士の侵略戦争により、ユーラシア大陸はあらゆる文明を破壊され、逃げ惑う難民はゴミのように焼き殺されて。

 さも善玉であるかのように、地上に居座る共生派〈異形体〉――トリニティクラスターもまた、その殺戮と破壊を担った存在なのだ。

 だが、それはただの歴史なのだろう。

 ユウリやアクサナが生きる西暦二一三四年の北日本居住区にとって重要なのは、豊かで平和な暮らしを保証してくれる庇護者の側面だけ。



――ここにあるのは、絶対者に意思と生命を差し出すことにためらいがない新世界だ。



 安心したいのに、溺れてしまいそうな苦しさを覚えた。


「なんか今、外にいる賢角人が映像をハイヴネットに共有してくれたんだけどね。わたしらみたいな一般人にはどうしようもない感じだし、専門家に任せた方がいいよー」


 後頭部へ伸びた角を撫でながら、ユウリは何気なく、世間話を続ける。


「アクサナのお兄さんだって、きっと大丈夫だから」


 突然、頬を殴られたような思いだった。

 外で起きているのが、この都市を襲う超人災害であるならば――その最前線にいるであろう塚原ヒフミが、無事でいる保証はないのだ。

 無意識に考えないようにしていた。

 そんな当たり前のこと、考えなくてもわかるはずなのに。


「バカみたいだ、ぼくって」

「くすーしゃ?」


 口の端を歪めながら、アクサナは立ち上がった。

 今さら、シェルターの外に出られるはずがない。無意味に危険なだけで、アクサナに出来ることなど何一つないから、シャルターの管理システムも止めに入るだろう。

 でも、ここでうずくまっているだけなんて、もっと耐えられない。

 今すぐヒフミに会いたかった。

 大丈夫だと、今年のクリスマス一緒に過ごせると――来る二一三五年を一緒に祝おうと言って欲しかった。


――あの夢のせいだ。


 拭いがたい死のにおいに包まれて、人間のために戦う神様の物語。

 いつか、どこかで出会ったことがあるかのような、誰かの面影。

 そんなものは、ただの夢なのだと安堵したかった。


 ユウリになんと返すべきか、迷いながら口を開きかけ――衝撃。


 立っていられないような揺れ。

 倒れかけたユウリに肩を貸して、シェルターの壁に背中を預ける。

 照明が消えた。

 不安げな群衆の言葉の連なり――ざわざわとした雑音にしか聞こえない。


 奇妙な感覚があった。

 あの夢を見ているときと同じ、大きなものに繋がれている感覚――自分ではない誰かの過去を覗き込んでしまったかのような、ふわふわした浮遊感。

 その既視感の答え合わせは簡単だった。

 不意に視界が明るくなる。天井から光が差し込んでいた。だから思わず、そちらを見上げてしまったのは当然のことで。


――目があった。


 先ほどまでシェルターの天井があった、三〇メートル四方が綺麗に消え去って。

 そこに、奇妙な果実が浮遊している。

 まず、視界一杯に赤子のようになめらかな肌色がある。ちょうど葡萄ぶどうの木ように、大きく丸い〈果実〉が連なっている。

 葡萄と違うのは、〈果実〉一粒一粒の大きさが人間の上半身ほどもあり、二本の手がぶら下がっていることだ。

 すぐに、それが果物の類ではないとわかったのは、人間の頭がついていたから。ぶるぶると痙攣する顔は、幸せそうに微笑んでいて。

 丸々と膨らんだ丸みは、七色に発光する人の肌。密集し腕を絡め合った人型が、露出した内臓同士をつなぎ合わせて、葡萄の房を形作っている。

 いっそ、美しく思える怪異であった。冒涜であった。異形であった。


 巨大な〈果樹〉が、逆さまになった妊婦の群体なのだと理解した瞬間、アクサナは悲鳴を上げた。


 シェルターのあちこちで、〈果樹〉を目にした人々の絶叫が轟いている。

 ユウリは周囲の悲鳴を耳にして、堅く目を閉じたままアクサナに抱きついている。

 角を通じて超空間ネットワーク・ハイヴネットに接続されている賢角人だから、見なくても状況は伝わっているのだろうが。震える肩が、ユウリの感じている恐怖を表していた。

 幸運にも、シェルター外壁が破れた程度では、人体汚染の遮断機能に支障はなかった――そうでなければ、シェルター内部の人間は亜人種を除いて全滅していただろう。

 この場に、目の前のグロテスクな肉塊を前にして、悲鳴を上げられることが幸運であると理解している人間は皆無であった。


 〈果樹〉からぶらさがった人の上半身、その根本にあるのは、樹木のように絡まり合った臓器の塊だ。一〇〇房以上はある〈果実〉を支えるのは、ぬらぬらと光りながら脈動する腸管が、七色に光る心臓が、無数の手足を枝葉のように伸ばしながら浮遊している。

 どくん、どくんと脈打つ妊婦の腹部――アクサナにはわかる。わかってしまう。

 あそこに収められているものは、自分の頭蓋骨の中身と同じだ。

 変異脳。

 超常能力を出力するために変質した人間の脳――おそらく、アクサナを蘇らせた元凶そのもの。

 そして、〈果実〉すべての目が、自分を向いていると理解した。


「ユウリ、離れてて」

「くすーしゃ……?」


 震える手で友人を引きはがし、息を吐いた。今にも崩れ落ちてしまいそうな足で、一歩、二歩、前に進む。

 万が一にも友達を巻き込まないために。

 ヒフミはアクサナのことを、超人災害から助け出したと言っていた。つまり元々、自分もあのグロテスクな怪物たちの中に埋没していた可能性が高い。

 もしかしたら、こいつが狙っているのは――


――ああ、やっぱり。


 〈果実〉から生えた手が、一斉にこちらへ伸びてくる。

 遠く、何十人もの妊婦の口が「おかえりなさい」と言っているのがわかった。

 大人たちが、逃げろと叫んでいる。

 どこに逃げればいいんだろうね、と皮肉の一つも言いたくて――自分の足がすくんで、もう動かないことに気付いた。

 精一杯の勇気を振り絞ったつもりだった。自分の出自が普通でないというのなら、せめて誰も巻き込まないようにしたくて。

 でもダメだ。怖くて手足が震える。冷たい汗が止まらない。

 こんなときなのに、神様へ祈ることが出来なかった。自分はきっと、父様のように敬虔に祈ることも出来ない悪い子だ。


 ああ、だから。

 思い出したのは、大切な家族の言葉だった。



――僕は決して君を見捨てない。



 両目に浮かんだ涙をこらえて、胸の前で手を組んだ。

 祈るように、アクサナはこいねがう。



――助けて。



 視界一杯に迫る〈果実〉の腕を見て、目を閉じた。流れた涙が、頬を伝い落ちる。

 閃光。

 周囲の、息を呑む気配。

 ひんやりと頬を撫でる風が、目の前に何かがいることを伝えていた。

 おそるおそる、目を開いて。


「……えっ?」


 そこにあったのは、人間離れした大きな背中だった。ダビデ王の彫像を思わせる、美しい巨人。

 人のかたちをした異形という意味では、第一世代亜人種にも似ているが、それとは決定的に異なる存在感――むしろ〈果樹〉に近い気配をまとっている。

 空っぽの頭蓋骨は王冠のようなかたちに変形しているが、不思議とグロテスクな印象はない。

 だが、そんなことはどうでもよくて。

 我知らず、先ほどまでずっと会いたいと思っていた家族の面影を、その異形に重ねていた。


――そんなはず、ない。


 頭上にひしめいていた〈果樹〉は、その姿を消していた。一体どこに消えたのだろう――放心状態のアクサナがそう思っていると、すぐに答え合わせの時間がやってきた。

 天井に開いた大穴の縁から、ずるずると〈果実〉の房が姿を現した。苦悶に歪む妊婦の顔が、ずらりと並んで、未練がましくアクサナを見下ろしているのがわかった。

 この巨人が、〈果樹〉を追い払ったのだ。

 足の力が抜けて、床にへたり込む。


――苦しいときは助けを求めていい。


 ヒフミの言葉が、脳裏をよぎった。

 いくら感情で否定しても、アクサナにはわかってしまう。古代のシャーマンのように、自分のものではない誰かの記憶の断片、思考の欠片を覗き込んでしまうから。

 呻くように喉を震わせる。


「嘘だ……」


 こちらを一瞥した姿に、絶望にも似た確信を得る。

 アクサナが目を見開いた瞬間、〈果樹〉が動いた。無数の妊婦が金切り声を上げ、逆さまになった口からごぽごぽと血を吐き出す――胸郭が膨れあがり、乳房が揺れる。

 まるで産道を滑り落ちるかのごとく、喉が裂けそうなほど拡張され、下顎を破壊しながら種子が踊り出る。

 血を流し、肉片と共に我が子を出産する女の顔――途方もないおぞましさ。


 それは、三〇センチほどの大きさの胎児だった。

 たしかに人のかたちをしていながら、致命的に異なるもの――目がない。鼻がない。耳がない。脳がない。

 相次いで、母体を破壊しながら生まれる子供たち――変異脳を母親の腹に残して、躰だけで生まれた怪物ども。

 無邪気な口元が、けらけらと笑い声を上げながら地面に着地。

 柔らかそうな幼体の躰が、母の血に塗れてはしゃぎ回っている。

 ゆうに一〇〇体を超える子供のかたちをした異形を前に、シェルターの民間人に出来ることなどない。

 感覚が麻痺しているアクサナは、もう、何も感じなかったけれど。

 さらなる群衆の悲鳴を聞いて。


――王冠の巨人が、腕を一振りした。


 眩い光が走る。たったそれだけで、すべての子供型の怪物が消え去っていた。

 閃光の中、〈果樹〉が怯えるように身を震わせるのがわかった。

 姿を現した怪物たちと、少女を守るように現れた巨人を前にして――誰かが、声を上げた。


「がんばれ……!」


 最初の一声が上がると、勇気を振り絞って、後に続く人々が現れた。


「たすけて!」

「頑張れ……!」

「追っ払ってくれ……!」


 まるで、偶像を拝むように。

 神に祈るかのように。

 その女の子を守ったように、自分たちを守ってくださいと――三桁の群衆が、心を一つにして声援を送っていた。

 美しい彫像のような巨人は、その行動によって、彼らの目に英雄的ヒロイックに映ったのだ。

 アクサナは、今度こそ目の前が真っ暗になった。



――英雄のような化身が薄ら寒かった。



 神という名の超越者へ、赦しや助けを請うのは、おのれを救って欲しいからだ。間違っても、神を赦したり助けたりするためではない。

 教典の神に祈るならばいい。

 それはどこまでも、人間と信仰の問題でしかない。


 だが、今ここで行われている光景は違う。


 最早、同胞とは思えぬ超越者に、あらゆる人間が、神性や英雄を――ありもしない夢を投影して拝んでいる。

 見ようによって、美しくすらある光景だった。

 いつか読んだお伽噺か、それとも二束三文のファンタジー小説か。それは、どこにでもある陳腐な英雄譚によく似ていた。

 人間は英雄が好きだ。ヒーローが好きだ。理想が好きだ。支えになるものが好きだ。都合がいいものが好きだ。心地よいものが好きだ。

 だから、祈ってしまう。


「なに、これ」


 アクサナには、耐えられない。

 神様のように消費される命は、どうしようもなく孤独だ。

 それが自分の知っている誰かかもしれないと思うと、その醜悪さに耐えきれない。

 だが、アクサナとて、何度も同じ言動をしてきたはずなのだ。それに気付いているから、声を挙げられない。

 かつて少女が悪竜ズメイになる夢を見たように、彼らは救世主メシアの夢を見る。

 どうにもならない恐怖と理不尽に晒されてなお、正気を保って生きたいのならば、そうするのが一番簡単な選択だからだ。


 人々の祈りに応えるように、王冠の巨人が、ふわりと浮かび上がる。

 アクサナが瞬きをした瞬間、彼が視界から消えていた――あの、怪物を打ち消した光と共に。〈果樹〉が影も形もなくなっているのに気付いたのは、それから数秒経ってからだった。

 あっけない別れだった。



――何も言えなかった。



 言いたいことも、訊きたいことも山ほどあったのに。

 すぐ傍に、自分を心配する友達が立っていることにも気付かず――泣いていた。


「くすーしゃ……?」

「……なんでっ……」


 マグマのように煮詰まった激情が、熱と涙になって頬を滴り落ちる。

 目の前で、その献身に命を救われてなお、少女はここにはいない誰かを罵らずにはいられない。

 けれど、悲しいのだ。


「なんで、ぼくっ、なんか、を……助けようとするんだよ……! そんなの、放っておいて、ぶじにっ……かえってきてよ……!!」


 矛盾だらけの言葉を吐き出しながら、アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァはただ祈る。

 何もかも自分の勘違いで、あの家で、四回目のクリスマスを祝える日が来るのだと――そんな都合のいい物語を夢見る。

 生きるだけで、悪を積み重ねる人は、きっと、それ以上の夢を見る。

 アクサナがそうしたように、苦しみと痛みの中ですら、物語を作り上げてしまう。


――祝うように。

――呪うように。

――偶像を、愛さずにはいられない。









 瓦礫だらけの街を、歩いていた。


 一体どれほどの間、戦い、殺し、守ってきただろうか。最早、時間感覚すら曖昧なのに、その歩みは揺るぎない。

 絶大な能力――物質と情報の分解吸収――の代償として、〈光輝の王〉の人格は薄れていく。破壊した断片体に含まれていた無数の脳――彼らすべての人生を追憶し、理解しながら、その存在を無に還し続けたからだ。

 〈光輝の王〉の本来的な機能の前では、肉体固有の人格など些末事。

 数十万の人間の断末魔――それは守りたいと思った人間の成れの果てだが、〈全能体〉と溶け合った時点で滅ぼすべきものでもあった。

 彼の有り様はどうしようもなく矛盾していて、救いがない一貫性があった。


――■■■■■の人間肯定とは、異形たるおのれへの否定に他ならない。


 おぞましい永遠を唾棄しながら、死という断絶に涙を流さずにはいられない魂。生まれ落ちただけで厄災となり、ありのままの世界を受容するには死を見過ぎた超人の成れの果て。

 〈全能体〉への同化――永遠をもたらす共鳴禍も、人体の機能停止による死も、その本質は等しく無惨である。

 それは、形あるものが崩れ去り、連続性を失うという点で同じ事象だ。


 ゆえに。

 彼の根底にある感情は、悲しい相克に行き着くのだ。


――守りたいものへ手が届くよろこびと、手が届くすべてがいずれ自分へ同化することへの憎悪。


 助けを求める声が聞こえたから、幼い少女を守った。

 そのとき、温かな気持ちになったのは、何故だったろうか――薄れて、掠れて、こぼれ落ちた記憶が、きっとその答えだったのだろう。

 探し出さなければ、と思う。

 それは、大切なものだった気がするから。


――人影が、あった。


 足を止める。


 覚えていた。

 琥珀色の双眸を、艶やかな黒髪を、三日月型の山羊角を――透き通った微笑みを。



「――塚原さん」



 少女は、そこにいた。















――人ならざるものの、恋の終わりを始めよう。











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