31話:降誕祭






 夢を見る。

 星を喰らう未来を知る。

 それが、本体から見た過去だと悟る。

 とっくの昔に結末は決まっている――特に感慨もなく、おのれを宿す器を探した。

 出来ればそう、失われるはずのものがいい。


 そういう悲劇をなくすために、彼らは存在しているから。


 人間の生殖は、ひどく危険に満ちている。

 最良のつがいを見つけ、最善の環境で胎児を生育しようと、母胎を危険に晒すことに変わりはない。

 だから、あっけなく母胎は死ぬ。

 生まれるはずの赤子諸共、息絶えることなど珍しくもない。


 すぐに、死産の親子を見つけた。

 ああ、なんと救われないのだろう――中枢端末は、宿り木を決めた。

 少し、時を遡ろう。

 胎児を使って母胎に干渉すれば、この結末は回避できる。


 理想的な干渉だ。

 忌まわしき〈異形体〉との改変戦争の激戦区で、役目を果たせるだろう。

 そうして中枢端末は、人の肉に寄生して生まれることができる。




 ふと、自分に話しかける声。


「きみ、迷子?」


 そこにいたのは、幼い少女だった。

 プラチナブロンドの頭髪に、鼻梁の通った細面の顔。

 将来の美貌を約束されたような、白い肌の子供だった。


「わたし? いつも通り身体の調子が悪くって、パパがお医者様呼んで――気付いたらここに」


 そいつは人間の形をしていた。

 つまり肉の躰があったころも、そういう形状をしていたに違いない。

 超常種を生み出した〈導管〉、この時間軸で最初に〈■■■〉から影響を受けた人類。

 その後の大量覚醒のための種子を、ありったけばらまいて息絶えた不完全な生き物。

 きっと自分の肉体が死んだことにすら気付かず、このサルベージ領域へ意識体だけが引き上げられてしまったのだろう。


「ここ、読み物はたくさんあるんだけど……誰もいないから。ねえ、お話ししない?」


 この少女から見て、この場所は、図書館のように見えているらしい。

 ここに実体はなく時間経過はない。

 主観的時間経過だけがシミュレーションされる。

 まだ何者でもない中枢端末に、そいつを拒む理由はどこにもなかった。


「じゃ、一緒に図鑑でも見ようよ。タブレットがあればよかったんだけど……紙の本はたくさんあるから」


 並んで座り、本を開く。

 少女が持ってきたのは、神話について描かれた図鑑だった。

 色とりどりの神々、英雄、悪竜、魔物――それが彼女の世界のすべてだと、理解できた。



――悲しい。









 力を得た。――異能の超人として生まれ落ちた。


 命を得た。――産道を滑り落ち、産声をあげた。


 善を得た。――少女の笑顔に誇れる生を願った。



 とある家族の話をしよう。

 賢明な父親と、優しい母親がいて、待望の一人息子に恵まれた。

 そんな誰もが思い浮かべる、幸せな家庭になり得た父母の話を。

 きっと彼らは、一人息子が生まれなければ幸せでいられた。


――異能の超人、超常種さえいなければ、彼らの家庭はもっと穏やかだったはずだ。


 長じるに連れて、彼の人間性の欠落は顕著になっていった。他に類を見ないほど、超常種としても無感動に過ぎたのだ。

 心労で母は疲れ果て、とうとう父は彼を祖父母へ預けた――最初から、彼の生きる世界は寂しく閉じていたのだ。

 しかし出会いが、彼の世界を変えた。


 古い古いお城の土台で、角ある少女と出会った。

 初恋だった。あの微笑みに誇れるような人になろうと思った。


 めまぐるしく変わる季節が、年月が、少年に瑞々しい成長を与えた。

 預けられた祖父母の家、すぐ傍に住んでいた少女と出会ったように。


名を、常磐彩花ときわ・あやかという。


 見るからに厄介者の自分に、好奇心から突っ込んでくるようなお転婆娘である。

 はにかむような笑顔が可愛いと感じたときは、本当に驚いたものだ。

 気付けば、恋に落ちていた。

 思春期だったので理由はまったく要らなかった。

 有り体に言って、当時の塚原ヒフミはウブだった。


 初めて手を繋いだ。――掌の熱にドキドキした。


 初めてデートをした。――緊張したなんてものじゃなかった。


 初めてキスをした。――顔から火が出そうだった。


 初めて契りを結んだ。――もう何もかもすごかった。


 それほどまでに愛おしかった。

 彼女がいるだけで、自分の見ている世界に熱が灯っていくような気がした。

 きっと人間は、こういう風に生命を紡いできたのだと、恥ずかしいぐらいに情熱を抱いて。

 ああ、でも。

 そんな時間は、理不尽に断ち切られたはずなのに。







「わかってたけど人すごいよねー。地方都市なのに、多すぎない?」

「あー、うん。ケーキ買いすぎだと思うんだ。太ると思う、これは」


 今、こうして二人並んで歩いている。季節は冬、クリスマスシーズン真っ盛りで、街は人で賑わっている。

 数々のイルミネーションも、赤い服を来たサンタクロースの仮装も、ありふれている。

 実に資本主義的な売り物の数々も――どうして人は油脂と砂糖と炭水化物の塊を好むのだろう――如何にも、という趣。


「いいの、たまには生クリームを食べないと幸せになれない!」

「幸せって難しいんだね……カロリーとかが」

「いいから」


 すらすらと、思考とは独立して恋人らしい台詞が出てくる。

 まるで、そういう人生を経てきたかのように、この状況を受け入れ始めていた。

 ただ、彼の中のとびきり冷たい部分が、同胞殺しの人でなしが、違和感を訴え続けている。

 不意に、彩花がヒフミの顔を覗き込んできた。


「メリークリスマス、ひっふみー。調子戻ってきた?」

「寝起きの悪夢だよ。ぼくだって、たまにはそういうこともある」


 それがどんな意味を持つのか、わからないままでも、目の前の温もりは愛おしかった。

 彼女たちを殺さずに済むのなら、その方がずっといい。

 幸せになりたいと思った。

 溜息を吐いて、目蓋を閉じる。



 刹那の夢を見た。



 このままずっと、こんな関係が続いて――塚原ヒフミも常磐彩花も、超人災害などに巻き込まれず、大人になれる夢だ。

 恋は愛へと昇華されて、夫婦になることだってできる。

 我が子をかき抱く幸福すらも、お前にはあり得たのだと――優しい夢がささやいていた。

 これが幻なら、どれほど救われたろう。

 ただ、こんなものは要らないとはね除ければいい。

 幻影にすがる愚かな自分を蔑み、それを乗り越える勇気を示せばいい。


 だが、違う。わかってしまう。

 これは、たしかにあり得た可能性の一つだ。

 彼の超常種としての本能が、そう告げている。

 ヴァルタン=バベシュに肉体を破壊され、意識が途絶した自分が、こうしてここにある。

 走馬燈にしては長すぎるし、第一、脳を砕かれていた。

 ならば。

 ここは、どこだ。



「あんまり難しいこと考えない方がいいと思うよ」



 そう言って、こちらの手を握る恋人がいる。

 ああ、その通りなのだろう――おそらく、突き詰めれば自分は破滅する。

 塚原ヒフミという人間は、どうしようもなく幸福に向いていない。


 掌の温もりを信じれば、それは真実になる。

 夢から覚めねばならない、というのはおおむね、世の真人間の話だ。



――そういえば。



 塚原ヒフミは、イオナ=イノウエに引き取られてから、一度も父母に会っていない。

 不自然なほど思考していなかった事実。

 不仲だからとか、絶縁しているとか、そういうことではなくて。

 存在を意識したことがなかった。

 アクサナが父母のことを思いだし、悲しそうな顔をしているときも、自分自身の家族を連想できなかった。

 祖父母のことすら意識に上げていなかった。


――人体操作の異能〈結線〉の応用。自身の脳神経に干渉、記憶を改ざんする。


 つまり、そういうことなのだろう。

 だが、そうまでして忘れたいこととは何だ。

 答えはすぐに見つかった。

 否、脳組織を失ったことで、簡単に記憶を参照できてしまった。



――あの日、あのとき。


――父と母もあそこにいた。


――祖父母に、兄となる息子に、第二子の受胎を伝えるために。



 超人災害が起きたあの日、彼は、何万もの人間をくびり殺した。

 優しかった祖父母を打ち砕いた。

 息子と向き合おうとした父を粉砕した。

 我が子を守らんとする母親を殺した。

 腹の中の胎児を――まだ生まれてすらいなかった、弟にも妹にもなり得た命を絶ちきった。

 こんなにも惨たらしい行いが、それでも、正しいと信じられた。


 だから救えない。


「ヒフミ……」


 彩花は何かを悟ったように、彼の顔を見つめている。

 想起されるもの――現在のかたちを得る前、彼が中枢端末であったころの思考。

 うめくように呟いた。



「……『ぼく』は『僕』自身が嫌いだ。ああ、だから……いつか、『僕』の一部になるお前たちを憎まずにはいられない」



 すべてが、おのれの一部であるならば。

 今さら、人間が獲得するに至った生殖行為など不要である。それは苦しみの総量を増やすことだ。

 生命を紡ぐものだけが、後世へ種を残してきた。

 そして希望や信仰や使命という物語を紡いできた――それゆえに救われない。


 人は常に、自身が存在する現在地点を、唯一無二の人間の条件と規定する。


 生まれることが悲しいからだ。

 死へひた走ることを嘆いたからだ。

 幾千、幾万、幾億の物語を並べ立てようと、人は死の断絶によって無へ堕ちる。

 獣のように尊厳を失い屍に変わる。

 そこに正しさなどない。

 物質と空間の宇宙で生物機械として生きようが、情報とエネルギーで編まれた疑似宇宙で生きようが、紡がれる物語に大差はない。


 無用な苦痛が多すぎる。


 だから、はるか未来より、到達点へ『すくい上げる』ものが必要だった。

 それこそが超常種、旧人類にホモ・ペルフェクトゥスと名付けられた自律端末群。

 胎児として受肉し、人の血肉を備えて生まれ、その頭蓋骨の中身に超空間構造体を宿す使徒たち。

 彼らに死はあり得ない。変異脳の破壊とは、その依代を壊すだけのこと――本質である情報体は回帰するのみ。


――人が魂と呼ぶ概念は、はるか未来においてのみ実体を得る。


 人体操作の異能〈結線〉の本質は、レベル4の超常種――覚醒した超人結合体、その侵食光と等しい。

 いずれ自らの一部となるものならば、おのれの手足のように扱えて当然なのだ――それが一〇〇年後であれ、現在であれ、同一個体であることに変わりはない。

 融合同化される時間のズレなど、確定した因果律の前では些細なことだ。


 すべての人間は必ず彼へ合流する。

 中枢端末によって結合される。全なる一へと収斂する。

 この地球上で生まれ落ちた、すべての同調型超常種タイプ・シンパシーが到達する終末の形態。

 すべての人類を収穫し、この天体の全質量をエネルギーへ変換して、合流すべき約束の地。

 それは神話の具現化、信仰すべてが叶う時空、尊厳なき猿の末裔が永遠たましいを与えられる場所。

 そう、強いて名付けるならば。




――〈全能体〉われら




 ヒトの夢の到達点、数多の未来史において滅び、散りゆく種族を救う機構システム

 全宇宙から資源を獲得し、すべてのエネルギーを掌握し、あらゆる時空間へ遍在する超空間構造体――いずれ必ず滅び去るものの願い、永遠すら手段とする人間賛歌である。

 この宇宙が滅びるならば、次なる宇宙へ。それが滅びるなら次の次の宇宙へ。

 あらゆる事象と可能性を集積し、時間を飛び越えて――ただ、時間をさかのぼり続ける。

 人と呼べるものが、すべて収集されるその日まで。


――だから、僕は。


 原因があって、性的不能になったのではない。

 真逆だ。

 塚原ヒフミは最初から、そのような機能を与えられていない。彼が生殖機能を持っているのは、宿主にした肉体の誤差に過ぎない。

 肉欲もそれに関連した性愛も、そういう些細な誤差の産物だった。


 生命は後世へ託しうるものを希望と呼ぶ。


 ならば。

 その未来の果てから、端末として送り込まれたものには、不要なものだったのではないか。


「ヒフミは、それでいいの?」

「どうだろうね。僕は存外、君と生きていくのも悪くないと思ってる。うん、僕は君が好きだったから」


 目の前の彼女が、彼の心を折るための偽物ならよかったのに。

 だが、そうではない。

 ここにあるものは、すべて本物だ。

 超人災害によって変異脳へと変換され、〈全能体〉へと回収された人の意識体――つまりは魂と呼ぶべきものが、塚原ヒフミに問いかけている。

 実に宗教的体験だな、と苦笑する。

 自分は決して信心深くはなかったし、解脱も転生も天国も地獄も、等しく人間らしさの部品のようにしか思えない。

 そのくせ、この様だ。


「……ああ、やっぱり、そうなるよね。ヒフミは変わってないよ。当たり前のことで傷ついて、また、自分から辛い思いをしにいってる」


 悲しそうに、眉を歪める彩花がいた。

 もう、身勝手な言葉以外に伝えるべきことはない。どのみち、自分は許されざる殺人者なのだから。


「ありがとう。僕が本当は、涙一つ流せない生き物だとしても――君がいたから、今の僕になれた」

「違うよ。ヒフミは、ずっと泣いてるよ。だからすぐに、わたしのところに来たんじゃない」


 自分を見上げる、彼女の顔を見た。

 十代半ばの、年若い恋人だったあの頃から、何も変わっていない。

 ようやく理解する。ヒフミはもう、成長した常盤彩花の姿を思い浮かべることが出来ない。


 一〇年前、あの日、自身の手でみんなを殺したとき――すべて終わっていたのだ。


 そう認識した瞬間、彩花の姿は跡形もなく消えていた。

 クリスマスに賑わっていた夜景は、すっかり灰色に凍り付いて。

 寒々しい景色に、安堵した。



「ああ、そうだ。僕はとっくの昔に選んでいたんだ……君たちと幸せな未来を紡げる可能性を、知っていながら放り捨てたんだ」



 それが必要だったから、愛しいものを殺した。それが希望だったから、愛しいものを滅ぼした。それが正しいから、愛しいものを拒絶した。

 人間のようになりたいと思えば思うほど、不自然なヒフミ自身が呪わしく思えた。

 輝ける日々の分だけ、呪いのような悪が育っていた。



「君たちが妬ましかった。僕が触れれば溶けて消えてしまうものが――人間が羨ましかった」



 歩く。

 気付くと、景色は見覚えのない屋内に切り替わっていた。人気のない通路を歩く。どこかの病院か、研究施設のような白い廊下――きっとこの先に、自分が気になっていたものがある。

 それは、常磐彩花と共に生きられる未来で、おそらくヒフミと関わらない少女の居場所だった。

 索引を引いて、IFに内包されたものを確かめた。




 水槽の中に、それは浮かんでいた。




 その頭脳には肉体がなかった。あらゆる尊厳を奪われていた。

 手足がない。

 胴体がない。

 皮膚がない。

 肉がない。

 臓器がない。

 目がない。

 耳がない。

 舌がない。

 文字通り、頭蓋骨しか残っていない生首と、そこからぶら下がった背骨――それが、彼女なのだとすぐにわかった。

 磨き抜かれた鉱物のように美しい、一対二本の突起物。

 三日月型に反り返った山羊角は、塚原ヒフミの人生に焼き付けられた少女のものにそっくりだ。



――導由峻しるべ・ゆしゅんはここにいる。



 誰の手も差し伸べられず、誰の救いにもならぬまま。



――脳髄だけを生かされている。



 必要とされる異種起源テクノロジーを吐き出す魔法の杖として。

 それが、塚原ヒフミが満ち足りた幸福を選ぶ結末、優しいIFもしもの代償だ。

 塚原ヒフミがUHMA局員として、同胞殺しとして存在しないなら。

 イオナ=イノウエの庇護も彼女を守り切るには至らず、どこかで、陰謀と悪意の犠牲になる。

 ああ、納得した。

 もう彼には不要となった過去へ、決別の言葉を投げかけた。




「だから、要らない。君たちの生存も、幸福も、未来も……それが、僕の欲しかったものだったとしても」




 相反する幸福、対立する幸福のかたちはなくならない。

 どんなに世界を豊かさで満たしても、きっと、その業は変わらない。

 色とりどりの花々を楽しむように人を愛し、毒虫を踏み潰すように人を憎むのが、人間のありようだ。

 地球外知性のテクノロジーを収めた少女を、ただ、それが種の利益となるから解体し、利用する。


 その醜悪さが、その貪欲さが、〈全能体〉を作り上げた根本原理。


 征服と搾取と播種。

 勝ち取り、奪い取り、産み増やすもの。

 個々人の幸福を束ねた総体、宇宙の果てまで収奪する生命。



 悲しい。――人類種おまえたちの誕生が妬ましい。

 悲しい。――人類種われらの性質がおぞましい。

 悲しい。――人類種ぼくの機能が許し難い。



 ああ、それでも。


 〈全能体〉となるべくして生まれた中枢端末は、恋をしたのだ。

 取るに足らないたった一つの感情が、全なる一を拒むのだ。

 苦しみと悲しみの果てにすら、意味があると信じられるのだ。


 覚えている。

 あの子の言葉を、微笑みを、美しさを。



――人間になりたいって、本当に、あなたがそう思ったの?



 少女の問いかけに、何と答えたのか。

 今に至るまで塚原ヒフミは、自身の応答を終ぞ思い出せない。けれど、眩しい笑顔だけは忘れられなかった。


 ああ、覚えている。

 君の笑顔を焼き付けている。



――僕は。



 恋を知ったのだ。

 綺麗なものへ手を伸ばしたのだ。



――わたしも普通じゃないから、大丈夫。どうかその優しさを、わたし以外のために使ってください



 秋の出来事だった。

 なのに思い返す度、少女の微笑みは春のように優しくて。

 満開の桜のように儚くて。


 それだけの過去だ。

 あの日、あのときから、塚原ヒフミには道しるべがある。

 たとえそれが、彼を砕き、破滅へ追いやる輝きでも構わない。



――あの笑顔へ誇れる生き方をしようと決めた。



 答えよう。

 思い出した答えを、導由峻がくれた誇りと祈りを。



「僕は、人間になりたいと思った……どれだけ弱くても、脆くても、醜くても! この苦しみが、僕の人間性たましいだ!」



 美しいものに憧れた。

 美しいものに救われた。

 美しいものに恋をした。


 ゆえに。




「――約束を果たそう、あの子の魂を守ろう、それが僕の終わりでいいッ!!」




 人が存在することを、彼は祝福する。

 あらゆる可能性を収めた、神の辞書が閉じていく。

 塚原ヒフミを救えたかもしれない〈全能体〉の箱庭が、消えていく。


 それでも、構わない。

 願わくば、まだ彼の一部になっていない、すべての生命を守る力を。


 星を見た。

 夢を見た。

 悪を見た。

 命を見た。


 最後に見たのは、まばゆい光だった。









「ん、どうしたの?」


 ページをめくる手を止めた中枢端末を、少女は訝しんだ。

 自分でも理由はわからなかったが、その神話の記述が、ひどく気にかかったのだ。

 この場所――〈全能体〉のサルベージ領域では、時間の流れなど関係なく、あらゆる情報とエネルギーが回収されている。

 だからきっと、この興味と関心が向いているのは、中枢端末にとっての縁ゆえなのだろう。


「それは、バビロニア神話だね。どの神様? それとも怪物のほう?」


 わたしはゲオルギイとかズメイの話が好きなんだけど――とぼやきつつ、眼をきらきらさせて覗き込んでくる少女。

 それを指で指し示すと、熱っぽく語り始めた。



「その神様の名前はマルドゥク。母なる神ティアマトを討ち滅ぼし、怒れる蛇ムシュフシュを従えて、新しい世界を作り上げた主神――神々の王様の名前だよ」



 つまりは親殺しの神。

 新しい世界を切り開くもの。


 聞きたいことは聞き終えた。

 もう、中枢端末は行かねばならない。

 死に絶える母子を救い、赤子として生まれ落ち、人のすべてを救わねばならない。


 だが、この娘はもっと、多くの可能性を見知ってから、救われるべきだと判断。

 サルベージ領域の一点に、物質宇宙への門を作り出した――運がよければ、地上に残留する人肉結合体ネクサスから生まれ直すこともできるだろう。

 そこを指さした。


「えっ、あっちに出口があるの? 本当かなあ……あ、ううん、きみを疑ってるわけじゃないんだけど。てっきりほら、ここって地獄なのかなって……わたし、神様のこと信じられなかったから」


 天国でも地獄でもない、ここは望むものが与えられる場所だ。

 だからそう、何かの間違いが起きても構わないだろう――人間としても端末としても中途半端な状態で死んだのだから、もう一度、きちんと生きてここに来てもいい。

 少女はおっかなびっくり歩き出して。

 ふと、振り返った。


「また、会えるかな。お礼もちゃんとしたいし、きみの名前も聞いてないから」


 会えるだろう、と頷いた。

 すべての人は〈全能体〉の一部となる。

 ならば生まれ直すこの娘も、いずれ、ここに還ってくるのだから。

 その神意いしも知らぬまま、彼女は嬉しそうに笑った。




「わたしはアクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァ。忘れないでね、もう、友達だからね」




 そして二人は、何もかも忘れたまま巡り会う。

 西暦二一三一年、凍えるような冬の日に。









 西暦二一三四年の降誕祭クリスマスの時期だった。



――最初の誕生のとき、彼は祝福されていた。



 都市上空に、光が走った。

 赤黒い積乱雲が、突如として稲光を放ったのだ。

 幾条もの雷光が迸り、肉塊を形作る人肉結合体が消し飛んだ――否、跡形もなく解体された。

 叫びがあふれた。

 満ち足りていた目が、口が、降って湧いた痛みに怯えている。


 それは、東京一号の内側から出現した。


 数多の人の救いのカリカチュア――不完全な状態のまま、醜悪な我が身を認識すら出来ず、幸福のままに存在する物質態。

 彼らのはらわたを引き千切り、無数の手足を焼き払いながら。

 あらゆる肉を支配し、変成し、失われた血肉を取り戻し――その巨人は生まれ落ちた。


 目がない。――眼窩から上は、すべてが失われた。

 脳がない。――杯のように空っぽの頭蓋骨、その中で迸る雷は、光で編まれた脳そのもの。


 彼の頭部には、ただ冠があった。

 いくつもの突起が、角のように円環状に生えそろった、彼だけの王冠。

 その下の口元には、無心の微笑み――アルカイックスマイルにも似た曲線だ。

 人のかたちをしていながら、限りなく人体から逸脱した長身であった。

 三メートル近い巨体にあるのは、冠のような頭部と、ほっそりと長い手足、みっちりと詰まった筋肉の隆起だけ――ダビデ像のような雄体の優美さを持ちながら、無性を漂わせる造型。



――二度目の誕生のとき、彼は裁定すると決めた。



 王冠とも杯ともつかない頭部から、幾条もの光が迸る――涙のように、雨のように空間を引き裂く雷光が、同胞を焼き尽くす。

 それは唯一、彼に許された悲しみの涙。


 正しく生まれられなかった嘆きに、正しく救えなかった苦しみに、正しく愛せなかった痛みに泣いている。

 流される涙のすべては、物質と情報を奪い尽くす侵食光――あまねく生命を哀れむ真理の雷。

 語ることすら嘆かわしい、四六億年の進化が到達した彼の権能――時間と空間を飛び越え、生命すべてを掌握する光だ。


 それは、かつて塚原ヒフミと呼ばれた祈りのかたち、神話をかたどるもの。

 〈全能体〉の中枢端末として生まれ、超人として生き、ここに降誕した奇跡の器だ。




――同調型超常種タイプ・シンパシーレベル3〈光輝の王〉マルドゥク・アバター




 これは、人を救うものの物語である。

 人ではないものが行き着く果てなど、最初から決まっている。






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