23話:血と涙







 喫茶店とは雑談が弾む場である。

 西暦二一三四年の地球でも、この常識に変化はない。

 そして驚くべきことに、明らかに常人離れした男女――UHMA超人災害対策官と賢角人の少女もその例外ではなかった。


「つまり太平洋戦争後、昭和時代に発展したラーメン文化のうち、塚原さんは中華そばスタイルを愛好していると?」


 脱線に脱線を重ねた紅茶トークは、いつの間にかラーメンの話題にすり替わっていた。

 これはひとえにヒフミの誘導あってのものである。

 彼のラーメンに対する情熱は並大抵ではなく、無駄に高度なテクニックで会話の流れをコントロールされていた。

 会話の流れというのもあるが、由峻に興味を持たせてしまうのだから大したものだ。

 いわゆる能力の無駄遣いである。


「白河ラーメンをはじめとして、東北や関東のラーメン文化は住人ごと散逸してしまいました。ですが、ええ、仕事柄、アジア太平洋地域を飛び回るものですから――地方ラーメン文化の末裔を見つけたんですよ。海外で」

「一世紀近く経ってローカライズされないものなのですか?」

「それはまあ、多くは別物でしょうね。ただ、断片的にでも片鱗を伺えるのが――」


 以下略。

 この期に及んで色恋沙汰ほど遠い会話だが、それが『らしい』のだから仕方がない人だった。

 けれど由峻には、そういう人間的な欠点こそ、ヒフミに必要なものなのだと思える。

 彼にもこういう趣味があったのだと、安心できた。


 軽食を食べ終わり、会話も一段落した頃合い。

 由峻が勝負を仕掛けたのはまさに、そのタイミングだった。


「そろそろ、本題に入りましょう」

「意外と早かったですね」


 何もかも予想通りという顔のヒフミが、席を立った。ここから先は歩きながら、ということだろう。

 二人でとりとめもない会話を交わし、お茶を飲んだテーブル。名残惜しそうに立ち上がりつつ、由峻は決意を固めた。

 もう、先延ばしにするのはやめたのだ。









「さて」


 店を出て数歩歩いたところで、ヒフミがこちらを振り返った。

 その動きとこれまでの挙動から、青年の隠している

 少なくとも背広の下には何らかの装備――結晶細胞を使用したデバイス――を仕込み、今この瞬間もリアルタイムでデータの送受信がされているはずだ。


「君の知っていることを、僕に教えてくれませんか。それが、君を信頼するための必要条件です」

「いいでしょう……塚原さんたちの探っていることは、おおむね想像がつきます」


 言葉を切った。

 探るようにヒフミの顔を見た。例の胡散臭い笑顔のまま、頷いている。

 怪しすぎて慣れてきた自分に気付き、苦笑する。


「第一にわたしの行動意図、第二に義体化兵士|〈蟻獅子〉《ミルメコレオ』とその運用者……都市内部に武装集団を潜伏させられる敵の特定、といったところでしょう?」

「おおむね、君の言うとおりだね」

「…………普通、探り合いの一つもするものでは?」


 想像以上にあっさりと問いかけに答えられてしまった。拍子抜けするほどあっさりした返答に、由峻は眼を細めた。


「一応これでも、僕なりに君のそういうところは信頼しているわけです」

「それ以外が信頼できない、と?」

「ははあ、これでも仕事ですから」


 会話の流れを掴まれている。気にくわない流れだった。のらりくらりと躱すヒフミへ、軽い挨拶を打ち込む。


「では、妙齢の婦女子のどこからどこまでを見たがっているのですか、はしたない」

「誤解を招く気しかない言い回しありがとう……ここ往来ですからね?」


 何人かの通行人の視線が、二人の方へ向けられた。

 一泊遅れて釘を刺してくるヒフミに対し、微笑みをたたえて応じる。


「困るのはわたしではありません」

「いい性格してますね、君……」

「その言葉、そっくりそのままお返しします」


 心外ですねえ、と肩をすくめるヒフミ――客観的に見れば二人とも変人の類だが、あえてそれを口にするものはいなかった。

 クリマスを目前に控えた街並みは、昼前と言うこともあって人通りが多い。

 日本列島における人連最大の都市、北日本居住区はそれだけの経済を抱えた都市だった。


 その前提として異種共生の理想があり、亜人種との混血が進んでいる。

 スーツ姿の青年と、年若い亜人の少女が並んで歩いていても、目立ちはしない程度に。

 この社会を作り上げた歴史的人物の一人が、彼女の母親だから、どこか居心地が悪いのかもしれなかった。


「とにかく、話の続きですが……第二の話題からお話ししましょう。わたしを襲った亜人たち……神話主義者のテロに横流しされた結晶細胞もそうですが、一連のテロに使われた物資は、入手が困難なものばかりです。昨晩の事件にしてみても、必要なものが多すぎます。大型無人機を密造できる工業設備、戦闘用サイボーグを匿いメンテナンス可能な施設、それらすべての運用に必要な電力の供給源。この条件を満たせる場所はそう多くありません。ですから、UHMAも疑わしい人物に目星はついていることでしょう」


「それをわざわざ、君が教えに来たと言うことは。まだUHMAに開示されていない機密ってことですね?」

「ええ、その通りです」


 可視化されない情報伝達の手段を持つ唯一の亜人。賢角人という種族の強みは、彼らの積み重ねてきた剪定と犠牲の闇に等しい。

 そして今、賢角人という種全体が、少女が思いのままに振る舞うことを容認していた。

 本来、秩序の運営者――人類連合という権力機構の上層に位置する賢角人が、由峻の介入を認めている。

 それだけ事態はのっぴきならないことになっていた。


「大量の結晶細胞に覆われ、常時、大量のエネルギーを消費し続ける隔壁。人体汚染の危険性が高い極秘施設だからこそ、詳細な査察の目が入らない場所。そういう特殊な条件を満たした施設が、一つだけ、わたしたちの上空に存在しています」


 ぴたり、と。

 二人揃って足を止め、街角から空を見上げた。分厚い灰色の雲と、その合間から覗く蒼穹。

 〈異形体〉の環境改変によって目には映らない、七つの人工島を見上げるように。


「二〇三五年の超人災害、すべての超常種の起点となった東京一号。その封印施設が、わたしたちの頭上にある天蓋……〈空ヶ島そらがしま)〉の起源です」


 本来ならば、驚くべき事実である。

 しかしデートじみたやりとりの直後、何気なく明かされるのでは実感などあるはずもない。

 ヒフミは何度か眼をぱちくりさせていたが、質の悪いジョークを聞いたように硬い笑みをもらすだけだった。


「その情報の確度は……いえ、たった今、UHMAにも機密が開示されました」


 耳のインカムに手を当てた後、彼は何もかも察したように目を閉じた。

 このタイミングで情報が降りてくること自体、偶然ではあり得ない出来事である。


「つまり君の大脱走自体が、出来レースですか。君の協力者は人類連合のお偉方の誰かで、テロを企てた敵……身内の不始末をどうにかしたがっていた、と?」


 亜人種の癒着、と言えばそれまでだが。

 つまるところ、ヒフミが思っていた以上に、由峻の行動は計画的だったのだ。最初から落としどころがはっきりしていた、とも言える。

 彼が懸念するような反社会的影響などあるはずもなかった。


「そういうこと、なのでしょうね。塚原さんたちには、ご迷惑をおかけしました」

「怒るべきなんでしょうけど、それどころじゃない、っていうのが本音で――と、少しお待ちを」


 新たな指令が下ったのか、一〇秒ほど押し黙るヒフミ。

 しばらくすると、何とも言えない表情で口を開いた。ほとほと困り果てたと言わんばかりの顔だった。

 たとえるならば、そう、目の前で獲物を奪われた肉食獣が、水飲み場にうずくまっているかのような面構え。

 こういう顔もできるのですね、と感心する由峻へ、ヒフミは弱り切った様子で口を開いた。


「やられました。件の施設――空ヶ島への立ち入り検査を、僕の同僚がもぎ取りました。僕はこのまま地上で待機です」

「それは、わたしに話していいことなのですか?」

「話しておけ、っていうのも指令です。一体どこからどこまでが計画的なのやら……陰謀論者の気持ちがわかってきましたよ」


 すっかり砕けた調子になっているヒフミを見て、ようやく少女は事態を飲み込んだ。

 つまりヒフミが命じられたのは現状維持、由峻と二人きりで歩くことなのだろう。

 好機だった。

 あらかじめ用意していたプランのうち、最も効果的と思われるものを選択。

 もとい、限りなく欲望に近い何かをぶっちゃけた。



「――塚原さん、わたしと一緒に洋服を選びませんか? もちろん、わたしの服を、です」



 言った。

 言ってしまった。

 由峻としては何度もシミュレーションを重ねた末の言動であり、この提案にやましい思いはないのである。

 強いて言うならひどく個人的な感情と、正義感に近い使命感が矛盾なく同居するがゆえの喜劇だった。

 とはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 頬の紅潮のようなわかりやすい異変こそないが、うっすらと掌は汗ばみ、いつもより早口だったのは否めなかった。

 掌を外気に触れさせていると、すぐわかってしまいそうで、思わずポケットに隠す。自分の手だというのに、ひどくいやらしいもののような気がしてきた。


「ははあ、服を選ぶ。君の、服を? ……………なるほど、僕で力になれるかどうか」


 言いよどみ、口笛でも吹き始めそうな様子で視線を宙へ向ける男。

 即座に撤退準備を始めたヒフミに対し、割りといっぱいいっぱいの由峻は、とんでもないことを口走ってしまった。


「――脱がせたい服を選べばいいのです」


 言ってから気付く。これは失言というより暴言なのでは、と。

 はしたなすぎる。


「今の発言は結構ギリギリ……いえ、かなり不味いと思うんですが」


 しかし、うろたえ始めたヒフミを見て、心のどこかに火が付いた。

 当初の目的とは別になってしまったが、少女の中の特殊な嗜好が刺激されていた。


「わたしは構いません」


 塚原ヒフミは何事かを思い出し、真顔になった。

 居心地悪そうに、ははあ、と溜息。


「……いや、通信ログに女の子と逢い引きして服を選ぶ場面まで残るのは勘弁したいんです。許してください。これは絶対、取り返しが付かない傷跡になります。そう、僕の心に対して……!」

「もう一度、言いましょう。――わたしは構いません」


 いい笑顔でだめ押し。

 由峻はこのとき、答えに窮して二秒ほど目を泳がせたヒフミの挙動に興奮していた。

 多少なりとも、自分の感覚がズレている自覚はあった。

 導由峻の嗜虐趣味サディズムは、幼少期の抑圧が転じた支配欲の表れである。

 少なくとも彼女自身はそう理解していたし、多少なりとも、自身の異常性として抑えようとしていた。

 良識が働いている、とも言えよう。

 だが、今このときだけは違った。ひょっとするとこの嗜虐趣味は、目の前の男をからかうためにあるのではないだろうか。

 そう思った。


「……そろそろ、言うべきなのかもしれませんね」


 しかし次の瞬間、ヒフミの表情を見て、自分の思い違いに気付いた。

 途方もなく重たい決意を飲み込んだ顔。楽しい時間を壊すことへの慚愧の念。

 ひどく感情のない、平坦な声で、塚原ヒフミは口を開いた。


「導さん。もし、僕の思い違いでないなら――君が僕に対して向けているのは、好意なんでしょう。それは僕にとって嬉しいものだった。だけどこれ以上、君の時間を奪いたくない」


 予感はあった。

 由峻が、このデートへヒフミを引っ張り込んだそもそもの理由。

 〈異形体〉を通じて閲覧した、塚原ヒフミの経歴から読み取れたもの。



「僕から君へ返せるものは、君が望むような好意じゃない」



 きっと彼は、自分一人のための生き方を知らない。








 近くに公園があったのは幸いだった。日中と言うこともあり、人も疎らな雪上を歩く――まるで別れ話を切り出すみたいだな、と思う。

 そんな上等な――人間らしいやりとりなら、どれほどよかったか。

 典型的な冬の昼下がり、鈍色の雲を透かして淡い光が差し込む。夢のように幸福な時間は、かつて恋い焦がれた少女の形をしてやってきた。

 その時間にしあわせを予感してしまったから、言わずにはいられなかったのだ。これ以上、先延ばしにはできないと思った。


 ざくり、と。


 踏み固められた雪の縁で、由峻が足を止める。山羊のような三日月型の角が、雪の溶けた雫で濡れていた。

 拒絶とも取れるヒフミの言葉を聞いてなお、彼女は折れなかった。

 いや、由峻にとっても、いずれ触れねばならない話題だったのだろう。本当に、強い娘だと思った。


「あなたが、わたしに好意を返せない、とは。塚原さんの体質のことですか」

「そういうことです。知っているなら、話は早い」


 生臭い話題になる、と言外に匂わせても、由峻は真っ直ぐにこちらへ目を合わせてくる。

 こんなにもしっかりした少女の好意へ、ろくでもない言葉しか返せない自分が嫌になった。


「この肉体には、何かを欲しいと願う必要がありません。食事も、睡眠も、……好きになった相手へ感じるべき性欲すらない。たぶんそれは、男女関係をまともに築けるような状態じゃないんですよ」


 はっきりと、断絶そのもののような言葉を突きつける。どれだけ由峻の好意を受け取り続けようと、塚原ヒフミはそのありように情欲を抱けなかった。

 二〇大の大人になっているのに、ヒフミが少女へ感じる好意の本質は、幼い少年だったころから何一つ進歩していない。

 添い遂げたいのではなく、肉体で結びつきたいのでもなく、ただ、その有り様を尊ぶこと。

 それは、相手を一個の人間として見ていない証左だと思った。


「まず、最初に言っておきますが。わたしは塚原さんに、肉体接触を求めていません。決めつけて語るのは迂闊な行いと言えるでしょう」

「失礼しました。そうですね、結局のところこれは、僕の負い目の問題だ」

「負い目?」


 由峻の背後へ目を向けた。

 雪の塊が積もった枝が揺れ、ばさばさと雪を落としていく。


「今、僕は人間らしく振る舞うために超常種としての能力を使っています。人体操作……〈結線〉でも、僕の中のそういう情動は刺激されなかった。肉体的には異常がないにもかかわらずね。変異脳の影響だろうと専門家には言われましたが」


 ヒフミの中の人間らしさとは、彼自身が設計したエミュレーションだ。

 極めて安定した内分泌系――超常種の持つ究極の恒常性、物質的欠損すら補填する遡航再生によって、彼の情動は異常なほど安定している。

 あえて普通人らしい言動に近づくため、自分自身の脳を操作しなければならぬほどに。

 人体操作の異能ありきの人間性こそ、塚原ヒフミの本質だった。


「塚原さん、わたしが向き合いたいのは、そういって苦しみながら人を救い続けてきたあなたです……懺悔したいというなら、ここでしてくださって構いません。

 ですが一つ、気にかかったことがあります。

 あなたが恐れているのは、わたしの時間を無駄にすることではない。はっきり言いますが――」


 ざわっ、と冷たい風が吹いた。長い黒髪が風に揺れ、切れ長の目がヒフミを見据えた。

 何もかも見透かすような琥珀色の瞳が、怜悧な顔の奥で彼を見つめている。

 ぞくり、と背筋が震えた。



「――普通の人間のように幸せになることが、怖いのですか」



 腹の奥へ鉛を飲み込んだような気分だった。

 その気になれば、今すぐ、痛む心をなくしてしまえるのに。

 苦痛に耐えるための論理を理性がはじき出すまで、彼はいくらでもロボットみたいになれた。

 人間性という誤差さえなければ、彼はもっと苦しまずに使命に殉じる機械になれた。

 けれど、そうなるにはヒフミ自身の出発点が感傷的すぎた。

 疑いを捨ててしまえば、人はどんな蛮行もルーチンワークにできる。

 そういう怪物になりたくないから、青年は必死におのれの心を維持し続けてきた。


「あなたは身寄りのない女の子を引き取り、家族のように暮らしていますね。とても立派で尊い行いだと思います。ですが、それ以前――塚原ヒフミ自身のための選択はありましたか?」


 息を呑む。

 自分では意識していなかった部分を抉られ、何を言っていいかわからなくなる。

 辛うじて見つかった答えらしきものは、馬鹿らしいほどに、ヒフミの抱える痛みそのものだった。


「僕が普通のティーンエイジャーみたいに生きて、誰かを救えたというのなら…………自分が幸せになることを考えてもよかったのかもしれない。だけど現実には、何もかも、超常種の暴走が醜い肉の塊に変えてしまった」

「一〇年前、北関東の超人災害ですか」


 無言で頷く。

 一瞬、由峻は目を伏せたが、すぐにこちらを見つめ直した。

 言葉にならぬ、青い炎のような激情を宿した瞳。


「わたしには、あなたが経験した苦しみも悲しみもわかりません。ですが……その悲痛は、塚原ヒフミの人生をずっと縛らねばならないものなのですか?」


 そうではないはずだ、と言外の確信が込められた言葉。

 何よりも雄弁だったのは、導由峻の表情であった。普段は微笑みを浮かべている口の端は引き締められ、真剣な眼差しと共に、塚原ヒフミを見ている。

 その無遠慮さに対して、怒るべきだった。なのに彼の心には、波風一つ立たない。

 そうすることに意味がないと知っていたからだ。


「……きっと、君の言うとおりなんでしょう。僕は代償行為として、この仕事を選んでしまった。それは本来、僕自身の私生活とは関係ない」


 だが、塚原ヒフミは超常種だ。健康を害することもなければ、死へ至ることもない。

 有限のリソースすべてを他者の救済へ回せば、その分、『人間』を救える。

 目の前の少女へわき上がる愛おしさが自然なものなのか、作為的なものなのかすら曖昧だった。

 涙を流すべきだから、異能で無理矢理、泣いたあのときと同じように。



「それでも僕が救いたいのは……この世界の片隅で、普通なら救われないと切り捨てられる命です。それだけは、何よりも正しいと信じられる」



 塚原ヒフミの足跡には、残酷なまでに自分だけの願いがない。

 彼の祈りは常に他者の幸福が念頭にあった。そうして救われた景色に安らぎを感じることはあっても、その景色の中にヒフミ自身はいないのだ。

 それ以外の生き方を追い求める欲さえ、彼の心にはない。


 沈黙。

 返す言葉もないかのように、由峻は黙り込んでいる。

 視線をヒフミから外し、瞑目めいもくしている。

 苦しいだけの会話をさせてしまったな、と申し訳なく思った。

 このまま会話を打ち切ろうと、口を開きかけたそのとき――


「安心しました、塚原さん。あなたは、ご自分で思っているよりずっと、わかりやすい人ですね」


 顔を上げた少女の顔には、いっそ晴れ晴れとした笑み。

 要するにそれは、激情を隠す気をなくした人間特有の感情表現であり、断じて祝福の意味ではなかった。

 一歩、踏み込んでくる。




「あなたが本当に救いたかったのは、他の誰でもなく――かつて、こうなるしかなかった自分自身です」




 嘘は、つけなかった。










 刹那、青年の双眸そうぼうをよぎった光が答えだった。

 ほんのわずかな時間、ヒフミは動揺した。余人ならば見逃すであろう、些細な揺らぎである。

 その一瞬で十分だった。


――わたしには、それだけでいい。

 

 青年が反応するよりも先に、その懐へ飛び込む。動きの起点、体幹をほとんど揺らさずに目測を狂わせ、手が届く距離にまで近づいた。

 ヒフミの胸ぐらを掴む。身体機能を強化――全身の結晶細胞を励起させ、戦闘出力にまで高める。

 成人男性の筋力を押さえ込める程度の、微々たる強化で十分だった。






「――流された血や涙の量で、正しさを語るなッ! 塚原ヒフミ!」






 迷うことなく、導由峻は塚原ヒフミを投げ飛ばした。

 ふぅ、ふぅ、と白い息を吐いた。いつの間にか、呼気が真っ白になるほど体温が上がっていた。

 目線を、ヒフミの方へ向けた。


 受け身を取った青年が、吃驚したような、唖然あぜんとしたような顔で彼女を見上げる。

 何故とか、どうしてとか、そういう疑問が浮かんでいる表情だ。

 生憎、由峻にだってヒフミを投げ飛ばした正当な理由などない。

 ましてやそこに深遠な陰謀も謀略もなかった。


「これは、わたしのわがままです……ですが! わたしだって、あなたに助けられた命の一人です! 閉じ込められ、いつか切り捨てられるはずだった命です」


 胸の奥がどくどくと高鳴って、目頭が熱くなった。

 らしくもなく頬を上気させ、精一杯、思いを声にし続ける。


導由峻しるべ・ゆしゅんが、こうしていられるのは……あなたがいたからです」


 傲慢ごうまんこそ少女の誇りだった。

 度し難い思い上がりなのかもしれなかった。

 彼の心へ土足で踏み込む行いだとわかっていた。


 自分にそこまでする権利があるかなどわからなかった。

 それでも、自分なら彼を暗闇から引っ張り出せると思ったのだ。

 長いまつげを涙で濡らし、琥珀色の双眸そうぼうを見開いて。





「人を知り、罪を知り、愛を知りました。わたしに始まりをくれたのは他の誰でもなく……塚原ヒフミ、あなたです」





 限りなく愛に近い感情を、うたうように伝えた。









 情熱的な告白だと思った。

 その危ういほど思い切りがよくて、高潔なありように憧れていた。

 年下だとか、亜人だとか、仕事だとか、いろいろな事情が頭から吹き飛ぶぐらいに綺麗だった。

 かつて見ず知らずの少年を助けるため、進んで犠牲になった少女の顔。


 何も変わってはいなかった。


 たとえ彼女がどれだけその手を血に染めていようと、ヒフミにはそう信じられた。

 こんなにも彼自身に踏み込んでくる娘だから、気になってしまうのだろう。

 ああ、認めよう。



――塚原ヒフミは、由峻のことが好きだ。



 ゆえに彼は、ここから先へは進めない。

 泣きたいような笑顔のまま、涙も流せぬ瞳で少女を仰ぐ。

 白くほっそりした指が、今度こそ手に取られるためそっと差し伸べられていた。


「覚えていますか。あなたが人間らしくあろうとした理由を。子供のころ、わたしに語ってみせた願いを。

あんな恥ずかしいことを言える人が、不幸せでいいはずがないと……信じてはいけませんか?」


 そう、変貌していたのは、由峻ではなかった。

 当たり前の幸せが欲しくて、父親の背中を追っていた子供のころとは違う。

 実感もないまま「お嫁さんがほしい」と口にした自分――幸せになりたかった少年はもういない。


「……降参です」


 ここにいるのは、性愛も生殖も失って、ただ超人を殺し続ける自己嫌悪の塊だ。

 一〇年前、おびただしい数の人間をこの手で殺めたそのときから、塚原ヒフミは人でなしの怪物になっていたのだ。


 それでも祈りだけは消えてくれない。

 眼前の少女に、笑っていて欲しいと思う。


 空を見上げる。

 降り注ぐ雪の欠片は、まるで花弁のようだった。

 クリスマスまで日も少ないのに、もう本番だと勘違いしているみたいだった。


 もう、恐れる必要はなかった。ヒフミは迷わず、差し伸べられた由峻の手を取る。

 ひんやりしていて白い肌。見た目よりずっと細い指先を握ると、心地よさそうに少女が微笑む。

 そうして立ち上がったとき、ヒフミの心中に去来したのは、幸福からかけ離れた冷たい実感だった。


「……ありがとう」


 きっとヒフミは、いつまでも超人を憎悪し続ける。

 自らの種族サイキックがもたらす惨劇を、猛威を振るう亜人の暴力を嫌悪する。

 由峻を日常の側へ追いやろうとしたのは、そういうエゴイスティックな理由だった。


 アクサナを思い出す。

 あの少女に、当たり前の幸せを生きて欲しいと願ったことも嘘ではない。

 だがその根幹は、やはり異形なるものへの憎悪なのだ。


 その犠牲にしないため、ヒフミは彼女たちをただの人間として扱っていたに過ぎなかった。

 曖昧なままにしておけば、ぬるま湯のような幸福も甘受できたかもしれない。


 けれど、ヒフミはもう自覚してしまった。

 一〇年前、砕け散ってしまいそうな自我を取り戻したとき。

 由峻への思いと共に、塚原ヒフミを定義した祈り。

 憎むべきものを討ち滅ぼす超人、同胞殺しの超常種。



――何よりも誰よりも、憎悪すべき異形じぶんを。



 ゆえに、由峻への警戒はもうなかった。

 ただ、その危ういまでの誇り高さが愛おしかった。

 モノクロの風景の中、琥珀色の瞳が、赤い唇が、由峻だけが宝石のように輝いていた。






「約束する。優しさも、安らぎも、苦しみも、君の魂と呼べるものすべて――僕が守ろう」






 この世のあらゆる困難から、彼女の魂を守りたいと願ってしまった。

 矛盾と憎悪に満ちたヒフミ自身から遠ざけたかった。

 怪物へ愛を注ごうという娘がせめて、必要以上に傷つかないために。

 青年の内面の変容に気付かぬまま、由峻はくすりと笑う。普通に受け取れば、それほどまでに大仰な言葉だった。


「塚原さんって大げさで、しかもロマンチストなんですね。しっかり、守ってくださいね」

「そこは信じてくれませんか。これでも結構、照れてるんです」


 肩に掛かった雪を払いながら、そっとおのれの掌へ重ねられた細い指先を触った。

 この温もりを、忘れたくはない。

 ああ、けれど。







――自分以外の誰かへ未来を残せるなら、こんな生き方にさえ意味はあると思った。








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